ロシアの隕石落下

ロシアの隕石空中爆発、1000人以上が負傷 ビルの窓ガラスなど割れる

このニュースにおいて、私が覚えたのは次の二箇所の御言葉です。

そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。(黙示録6:13)

第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。(黙示録8:10-11)

今回の隕石落下は凄まじさは、上の二つに書かれている神の裁きに比べれば取るに足りないものです。黙示6章14節には、「すべての山や島がその場所から移された。」とありますが、あの東日本の大地震を持ってしても地がほんの少し動いただけでしたが、終わりの日には比べ物にならないほどの地殻変動が起こります。

「この曲がった時代から救われなさい。(使徒2:40)」「主イエスを信じなさい。(同16:31)」

ガザ攻撃とイラン

ガザ地区からのロケット攻撃、イスラエルのガザへの応酬がここ数日、激しくなっています。恵比寿バイブルスタディの参加者の方で青木さんという兄弟が、ご自身のフェイスブックで詳しく情勢解説を書き記しておられます。とても参考になるので、ご本人の許可の上、掲載させていただきます。(日にちのところのリンク先をクリックすれば元記事が読めます。他の関連記事も読むことができます。)

大事なのは、これがイランが黒幕の代理戦争になっていること、です。エゼキエル38章の預言をまた見つめなおす時です。

(またイスラエル在住している日本人による、こちらの記事も参考になります→ 「キパット・バイゼル」。イスラエルの迎撃ミサイル「アイアン・ドーム」はヘブル語では何と、「鉄のキッパ」だということ。「鉄」は文字通りではなく強さを表します。黙示録19章の再来されるイエス様の「鉄の杖」を思い出しました。)

では、青木さんの記事です。

11月15日「イスラエルとキプロスの間に発見された海底ガス田を巡る超大国の駆け引き」

最近になってイスラエル沖にその名も「リバイアサン」と呼ばれるガス田が発見されたが、海底ガス田はさらにキプロス島沖まで広がっている。この巨大な海底ガス田に大国が目をつけないはずがない。

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領土問題について考える

近隣諸国との関係が騒がしくなってきました。「政治とクリスチャン」また「クリスチャンの政治家」の記事において、このような時事問題と私たちの信仰の関係をお話しましたが、主に、クリスチャンにとって注目しなければいけない情勢と、注目はするが振り回されたり、惑わされてはいけない情勢の二つがあります。領土問題は、ひとえに「惑わされてはいけない」情勢になります。なぜか、理由をいくつかに分けてお話します。

1)国と民族と地境

神がバベルの塔において、言葉をばらばらにされてから、世界の人々が民族を単位として散らばっていきました。それは神の裁きの現われではありますが、憐れみの中でそれぞれに住むところを与えてくださいました。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒17:26-27)

ですから、国境線を含めて神は与えておられます。しかし、これをパウロは、自然啓示の中で語っています。自然啓示とは、聖書でなくとも、神とキリストを信じていない人でも、自然に神に与えられた啓示であり、神が全ての人に与えておられる恵みです。

キリスト者は、天に国籍を持っていると同時に、この地上にいる間は、その地の住民として生きています。したがって、その中に国境線の問題もあるでしょう。したがって、ロシアとの北方領土問題、韓国との竹島問題、中国との尖閣諸島問題は、この国に生きる者として一定の関心を示す必要があるし、必要ならば国土を守るために行動に移さなければいけない時もあります。

しかしキリスト者は、特別啓示を受けています。特別啓示とは、神が聖書によって与えておられる神の知識です。初めは、神は人にこの地を支配するようにされましたが、人が罪を犯したので、それを失ってしまいました。しかしキリストが、この世界を贖うために地上に来られました。ご自身の血によって贖い、そして天に登られたのです。かの日には、そこから戻ってきてくださり、その所有権を行使して、全世界を神に引き渡し、ご自身がエルサレムから王の王、主の主として統べ治められるのです。

その時にキリスト者は、この方との共同相続が任されます。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8:17)」北方領土、竹島、尖閣諸島を含めてすべての地は、キリストが地上に再臨されたとき、その主権と領有はキリストのものとなり、行政と管理はキリスト者各人に与えられるのです!

これによって、今の領土問題は関係があると言えばあるのですが、その見方は神の国の者にされていない人とは、根本的に違います。将来、これらの地は神の子どもたちに任されるのですが、それはこの世が展開している主張、デモ、武力によってではなく、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5)」とあるように、もっぱら神の前でへりくだりの生活を送っている人、悪いことをされても仕返ししない人、与えられている主からの仕事をしっかりとこなす人に与えられます。また、先のローマ8章17節によれば、キリストと共に苦難を受けている人が共同相続人になります。この約束は、黙示録2-3章の七つの教会への約束にも銘記されており、信仰をしっかりと保っている人々に与えられます(例:2:26‐27)。

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「聖書預言の力と目的を再発見する」 その5

(「その4」からの続き)

同じように驚くべき事は、主なる神は聖書を ― 旧約と新約のどちらをも ― 通して、メシヤの再臨の「終わりの日」における要となる国々において起こる、要となる出来事の一部を私たちに宣言してくださっています。私たちが「終わりの日」に生きていることを指し示す「徴」を前もって警告しておられます。ですから私たちへの問いかけは、この方の御言葉に注意を寄せていますか、その命令に従いますか?ということです。

第三に、終わりの時の聖書預言に、多くの国々が具体的に言及されていますが、アメリカはその一つではない、ということです。イスラエルは終わりの日において、神のご計画とご目的の震央部分になっています。聖書預言で言及されている他の国はロシア、イラン、シリア、レバノン、トルコ、リビア、スーダン、復興ローマ帝国など、その他数カ国です。けれどもアメリカ合衆国は、直接的に、具体的に聖書に言及されていません。私の最近の著作”Implosion“(内破)の中で、このことをさらに詳しく取り扱っています。けれども重要な点は、アメリカが人類の歴史の中で、この地上で最も豊かで最も強力な国であっても、聖書は、終わりの日において私たちに対する特別な役割を説明していません。したがって、何かが私たちの力を無くし、キリストの到来に至る出来事で鍵となる役割を果たすのを無力化させるのではないかと思えます。

もしかしたら、この国の財政が崩壊すること、一連の天災、あるいは戦争やテロ攻撃、あるいはその他のいろいろなシナリオが含まれているかもしれません。どのようにアメリカが無力化されるのか正確には分からない一方、私たちの国では、神が私たちの国から好意と慈しみの御手を引かれるかもしれない、あるいは、私たちを公然と裁き罰するに至る、非常に不穏な動向を既にいくつも見ています。その中の一つとして、1973年以降私たちは5300万人の中絶を犯してきた事実があります。1960年以降、暴力犯罪が460パーセントの割合で爆発的増加を見ました。恐ろしい殺人の波が今日の私たちの国に、小さな町にさえ押し寄せています。数千万というアメリカ人が、あらゆる類の性的罪の中に生きています。ポルノ、性的不品行、姦淫、同性愛など、数知れません。聖書が個人や国が関わってはいけないと警告している罪であります。さらに、持ってもいないお金を費やすのに毒されてしまいました。連邦赤字が、16兆ドル(=1330兆円)に達しました。ワシントンは現在、歳入として受け取っているものより、毎秒、42210ドル(=330万円)を費やしているのです。

このような動向はあまりにもひどく、決して維持できないものです。もし方向を変えなければ、― もし、悔い改めてキリストに罪を赦していただき、第三大覚醒を与えてくださらなければ、― 私たちの国は経済的に、道徳的に内部破裂するだろうと思います。この状況は、私たちがひざまずき、祈りと断食と悔い改めへ促していなければなりません。実際に、促しているでしょうか?

第四に、アメリカが内部破裂に直面している理由の一つが、教会がマタイ28章18‐20節にしたがって、弟子を作っていない大掛かりな失敗にある、ということです。アメリカには、34万の教会の会衆があります。これらがみな、暗闇の中の霊的な「灯台」でなければいけないはずで、人々がキリストにある安全と避け所を見つけるように手助けしていなければいけません。しかし、私たちの会衆の多くが、その光がかすんでおり、あるいは完全に消し去られています。アメリカの教会が、行くべき道を導いていないのです。あまりにも多くの牧師や指導者が眠っています。私たちは絶対に目を覚まし、健全で、聖い、キリストとの歩みに戻らなければいけません。教会の最大の失敗の一つは健全な弟子を作ってこなかったことにあり、健全な弟子が再生し、霊的に他の健全な弟子を作ることができていないことです。アメリカでは、(霊的に)年齢を経た、賢い、イエスに従う者たちが、若い信者たちの生活に時間とエネルギーを注ぎ込むことを、系統的にしてこなかったのであり、世代から次の世代へ、キリストに似た性質、価値観、訓練を注意深く伝授してきませんでした。アメリカのキリスト教は、マタイ28章18-20節にある、イエス・キリストの大宣教命令に従ってこなかったので、弱体化し、失敗し、霊的復興が最も必要な状態になっています。一部の人たちは従っているのですが、大多数は、すべての国民(自分の国民から始めて)を弟子にしておらず、それらの弟子たちにバプテスマを授け、キリストが教えられた「すべての」ことを従うようにそれらの弟子たちに教えることをせず、世の終わりまで、いつも共におられるというキリストの約束を思い出させて来ませんでした。
【意訳以上】

以上が、ホノルルでの説教ノートの意訳です。

まず、<第三の点>への一言。アメリカ国内だけでなく、日本でもあまりにも多くの人が、これからの世界の行く末を見るときに、この国に注目しています。そして、イスラエルを始めとする中東と周辺諸国が終わりの日の聖書の舞台ですから、本来なら同じぐらいの、いやそれ以上の時間を費やさないといけないのですが、それをやっていません。今日は米国同時多発テロが起こった日であり11月には大統領選が行なわれるのでまたまた注目されていくでしょうが、米国は誰が政治を執り行っても内部破裂は免れない状態であると、私も感じています。

幸いにも、米国はそのような不安と混乱期において、教会の中で大覚醒が起こり、社会全体を変えてしまうほど強力な、御霊の力強い働きがその歴史にありました。ジョエル氏が言っている「第三大覚醒」というのは、二つの大覚醒に続く新たな霊的復興がなければ、今やアメリカに希望は見いだせない、という意味です。同じ先進国であり、世界有数の経済大国である日本も、似た道を歩んでいると感じています。あまりにも大きな課題と問題が山積しており、いつか潰れてしまうではないか、と思います。

そこで<第四の点>の話題に移りますが、日本もアメリカと同じような混沌期に入っていますが、その中で教会はどのような指針を、光として照らすことができるのでしょうか?私はジョエル氏の意見に全く賛成で、一にも二にも「弟子づくり」だと思います。

日本の教会も基本的に、アメリカのキリスト教会の流れの中にあります。それで、教会成長というものを数の大きさによって測る嫌いがあります。韓国も同じなので、韓国から来るキリスト教の影響もあって、人々が教会にどれだけ多く集まるかが、焦点になります。もちろん、救われる人々が加えられる事は神の御心ですからそれ自体はすばらしいことです。しかし、キリストの命令はそうではありませんでした。「弟子とする」ことが命令でした。キリストが教えられたことを教えるのですから、イエス様が弟子たちとどのように過ごされたのか、それを模範にしないといけません。

第一に、弟子づくりは時間がかかります。イエス様が、わからずやの弟子たちにどれだけの時間を費やされたかを思い出してください。けれども日本の教会は、特に大きな所では一度、信仰告白をし、洗礼を受けていると、そのままにされる羊がたくさんいます。教会にいながらにして、迷える羊となっていることがしばしば起こっています。

第二に、生活を共にしています。今日の日本社会は、「個人」ならず「孤人」化しているという指摘があります。けれども、弟子づくりには、イエス様が弟子たちと生活を共にしたように、生活の中でキリストのうちにある自分を他者に伝えることができるのです。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(箴言27:17)」とあるように、人格と人格の衝突があって初めて、キリストの命令を実践することができます。

第三に、御言葉には体系的に取り組まなければいけません。ある時はこの箇所、またある時はあの箇所、弟子づくりならばこの教材、あのプログラム・・・というように、周辺的な事柄が中心となっています。けれども、イエスは弟子たちに聖書全体からご自分について教えられました。パウロは、エペソの長老たちに、神のご計画の全体を教えました。

そして最後に、実は聖書預言に注目する意義について、かつてデービッド・ホーキングが、チャック・スミス牧師にインタビューしたことがあります。基本的にジョエル氏と同じ事を話しています。

聖書、預言、イスラエル、そしてカルバリーチャペル

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その4

(「その3」の続き)

ジョエル・ローゼンバーグ氏は、ホノルルでの説教を二回行ないましたが、次から二回目に入ります。次のブログ記事が原文です。一回目の説教に基づき、さらに四つの要点を話します。

SERMON: REDISCOVERING THE POWER AND PURPOSE OF BIBLE PROPHECY — Part 2

【意訳】
第一に、聖書には、その言葉が、全能で、全てを見る、全てを知る宇宙の神の言葉そのものであることを臆することなく表現されています。数例を挙げましょう。

主は、ヘブル人の預言者イザヤを通してこう言われました。「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。(42:9)

主は、預言者イザヤを通してこうも言われました。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。(44:6-7)

主は、預言者イザヤによってこうも言われました。「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。(46:9-10)

使徒ペテロが書きました。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:20-21)

主イエス・キリストが言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示22:13)

聖書の神は、他の何ものによっても比べられません。この方はすべてを見ておられます。すべてをご存知です。すべてを覚えておられます。初めであり、終わりであるかたです。アルファであり、オメガです。この方は推測したり、将来に何が起こるかを”予測”したりなさいません。何が起こるか知っておられるのです。驚くべきことに、神は前もって重要な出来事を選んで私たちに知らせることで、私たちが、自分の神がいかにすぐれているかを悟らせようとしています。

第二に、成就した預言は、私たちが神の御言葉が真実であることを知る、最も重要で強力な方法です。例えば、旧約聖書の中に数多くの預言が成就したことを見ます。例えば、神はへブル人預言者エレミヤに、バビロンで七十年間の捕囚の後、イスラエルに帰還することを教えられましたが、それが正確に起こりました。また主は、預言者イザヤに、バビロン捕囚からユダヤ民族を解放する器になるペルシヤ人王の名を、正確に告げられました。その名は「クロス」であり、事実、その名のペルシヤ王がユダヤ人を故郷に戻らせることを助けたのです。さらに、旧約聖書では、メシヤがどのような存在なのか、何を行うのかについての数多くの手がかりを与えられました。そのいくつかを紹介します。

預言者ミカが、メシヤはベツレヘム・エフラテで生まれることを教えました(ミカ5:2)。

ヘブル人預言者イザヤが、メシヤが処女で生まれることを伝えました(イザヤ7:14)。

預言者イザヤが、メシヤは人の男の子、息子として生まれるが、「力ある神」と呼ばれることを教えました(イザヤ9:6)。

預言者イザヤは、メシヤがイスラエルのガリラヤ地方で生き、宣教活動を行うことを告げました(イザヤ9:1‐2)。

預言者ゼカリヤは、メシヤがろばに乗ってエルサレムに入城することを伝えました(ゼカリヤ9:9)。

預言者イザヤは、メシヤが癒しを行なうことを伝えました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4)

ダビデ王は、メシヤが悪者たちの一団に取り囲まれ、彼らがメシヤを打ち、虐げ、この方の着物を分け合い、くじ引きにし、その手と足を刺し通し、「死のちりの上に」置くこと、つまり殺すことを預言しました(詩篇22)。

預言者ダニエルは、メシヤが、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」けれどもそれを、紀元70年にエルサレムが破壊され、神殿も破壊される前に「断たれ」る(殺される)ことによって行なわれることを明白に言いました(ダニエル9:24‐26)。

預言者イザヤは、メシヤを苦難の僕として描きました。むち打たれ、虐待を受け、あざけられ、突き通され、最後には、人類の罪のための罪過のいけにえとして殺されます(イザヤ52章13節)から53章。

預言者イザヤは、メシヤが死者の中からよみがえることも明確にしました。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53:5,9,10)

預言者ヨナと預言者ホセアをとして、神はメシヤを墓から三日目によみがえらせることを教えられました(ヨナは、三日間魚の腹にいて、地に戻ってきました。ホセア6章2節には、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」とあります。

驚くべきことに、主イエス・キリストは、これらの預言をすべて成就されました。事実、ルカ24章25‐27節には、こう書いてあります。「するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

【きよきよの一言】
聖書預言は、実に、神が定められた伝道ツールです。初めから終わりのことを告げることによって、ご自身を明らかにしておられます。神を信じないこの世の中において、しばしば創造論による伝道があります。それもすばらしい方法です。実際に、被造物において神の力と永遠のご性質が明らかであるとローマ1章に書いてあります。また、ヨブに対して神は、ご自分の被造物を取り上げながら、ご自身の義と主権を明らかにされました。けれども、それと同じように神は、預言の言葉によってご自身を明らかにしておられることを、御言葉の中で語っておられるのです。

先日、モリエルの学び会に行ってきましたが、モリエルさんは以前、オーストラリア人の伝道師が行なった預言セミナーをまとめて小冊子にして、それを伝道に使ったそうです。確か高校生か、若い女の子に預言の一つ一つの箇所を見せていったそうです。彼女の感想の一声は、「これは、チェルノブイリ事故以後に書かれたものでなければ、絶対におかしい。」とのことでした!そして、二・三千年前に書かれた書物であることを告げると、びっくりたまげたそうです。

そしてイエス様ご自身が、旧約預言の成就そのものであることは言うまでもありません。もっともっと、日本の教会で旧約聖書の通読が強調されなければいけないと思います。そうすることによって、いかに新約の記述が重要な出来事であったのか、その重みを知ることができます。

(「その5」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その3

(「その2」の続き)

第三に、多くの牧師が預言を教えない理由は、いわゆる「預言気違い」や扇情主義を売りにする者たちと一緒にされたくないという恐れがあるからです。確かに、預言を教えようとする者の中に気違いが存在します。聖書の誤った解釈をしています。間違った結論を下しています。煽り立てます。したがって、自分の評価を落とし、評判を落としています。牧師がこれらの偽教師らを避けるべきであり、こうした方法で神の御言葉を安物にしてしまうようなことを避けるべきであるというのは正しいです。けれども、聖書預言を誤って教える者が一部にいるからと言って、健全な教師がこの話題を避けるのは理屈にかないません。福音書や書簡を誤って教えている者たちもいます。けれども、良い牧者なら、聖書のこれらの書物を正しく教えることを避けたりしません。どのような根拠で、人々を誤りに導いている偽者がいるからという理由で、聖書のすべての巻 ― イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、黙示録等 ― を教えるのを避ける権利を私たちは持っているのでしょうか。使徒パウロはテモテに教えました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、・・・(2テモテ4:2-3)

第四に、多くの牧師が預言を教えないのは、私たちの生きている時代、またキリストの到来がなおいっそうのこと近づいていることに理解が欠けているためであります。同時に、数多くの誠実な牧師の方々がイエス様を愛して、御言葉を愛しているのですが、なぜか私たちが今いる、驚くべき歴史の瞬間に引き付けられていないのです。そして、教会のために主イエス・キリストが戻られることに、人々の心を用意させる、切実な必要に気づいていないのです。これまで以上に、私たちはイッサカルの子らのような牧者たちが必要です。「時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている・・・(1歴代12:32)」これまで以上に、主イエス・キリストの教えに従う牧者たちが必要です。主は、天気予報に取り付かれるのではなく、「今のこの時代」を悟り、自分の世話すべき人々を、キリストとさらに近しく歩み、この方の到来の日がこれまで以上に近づいている今、この方に従順になるよう備えさせるのです。

【きよきよの一言】
<第三の理由>事実、私のところに来て、異端やカルト団体と一緒くたにして挑みかかってきた宣教師に会ったことがあります。そして、米国内の政治状況の中に話を引きずりこもうとしたり、私のことを極端な神学の範疇に入れた牧師もいます。両者に共通していたのは、“不安”です。終末について自分の神学的立場に聖書的確信を得ていないことの裏返しのような気がしました。

しばしば、私を聖書預言の専門家であるかごとく話す人もいますが、それもまた不安から出ているのではないかと思います。ロゴス・ミニストリーで聖書の学びを行なっている人はお気づきですが、聖書の創世記から黙示録まで、そのまま通読の学びをしているだけであり、そこに数多くの預言書があり、そこも抜かさないで教えているだけなのです。ですから私が預言の専門家ではなく、むしろ多くの教師が預言書を避けているという裏返しに他なりません。

興味深いことをある人から聞きました。ある聖書の学び会にその人は参加しましたが、ゼカリヤ書を学び始めたということでした。初めは、「この書と黙示録は関係がない。過去にほとんどが成就した。預言の書として読んではいけない。」ということでした。けれども一節ずつ学んでいったので、学びの後半部分では「終末とキリストの再臨の預言だ。」とさっさと立場を変えて、そう結論づけたのです!そうなんです、初めはキリストの再臨と神の国について何かしらの偏見があるのですが、誠実に、丹念に聖書を読み進めるなら、そういう結論になっていきます。

<第四の理由>これまで、聖書預言に関心の薄い人に欠けている部分が指摘されていましたが、決して間違ってほしくないのは、同じように信じていない方々の中に、主を愛し、御言葉を愛しているすぐれた教師がたくさんいるという事実です。自分たちと同じように信じていないからと言って、何も学ぶところがない、あるいは偽りの教師であるかのようにみなしていくのは、全く同じものさしを自分自身に向けなければいけません。救いは、イエス・キリストを神の子キリストであると信じた人であれば、それで十分なのです。例えば、ユダヤ人にイスラエルの地を与えるという約束を信じていなければ、地獄に行くのではないのです!恵みによる、信仰による救いに、それ以上の条件を付け加えてはいけません!

むしろ私は、同じように信じていない、けれども主を心から愛している方々との交わりをもっと深めさせていただきたいと願っています。御霊に満たされた人々、主を愛する人々との付き合いはこの上もなく楽しいです。終わりの日に生きるキリスト者の特徴は、寛容と柔和であります。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(ピリピ4:5)

(「その4」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その2

(「その1」の続き)

残念なことに、ここ米国また世界の多くの牧師や教会奉仕者は、聖書預言を教えていません。私の見るところでは、これには四つの大きな理由があります。

第一に、多くの牧師が預言を教えないのは、神の御言葉の力を信じることに欠けているからです。悲しむべきことに、今日の牧師の多くが、聖書を、霊感の受けた、無謬で無誤の、権威ある神の御言葉であると信じていません。主イエスは一度サドカイ人を、聖書を誤って解釈しているので諫言しこう言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。(マタイ22:29)」あまりにも多くの今日の牧師や司祭が、このような感じです。聖書全てを注意深く学んでいないのです。「神のご計画の全体(使徒20:27)」を理解しようとしていないのです。預言が神から来ていると本当に信じているわけではないので、これらの預言を教えないし、神がなぜ預言を授けたかを理解するように人々を助けるわけでもありません。しかしながら、聖書の諸預言は私たちを興奮させます。なぜなら、全てを知り、全てを見、万能であられる、全宇宙の神の思いをいわば傍受した情報だからです。

預言は、神のお心にあるものを教えてくれます。ある行動を止めるように警告しています。また、聖くなること、主にもっと近しく歩むことを励まします。将来の出来事について、嵐のような警告もあります。劇的な出来事が来ることも伝えており、これらの瞬間が来た時に私たちが用意し、忠実な者として見いだされるよう備えていなければいけないことを教えてくれます。預言は、私たちが大胆さと勇気をもってキリストに仕えるよう呼びかけています。それによって、近くない将来にこの方の前に顔と顔を合わせて立つ時に、恥ずかしくないようにするためです。聖書は、神が私たちに預言を与えているのが、キリストに従う者たちを建て上げ、励ますためであると言っています。使徒パウロはこう書きました。「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。・・預言する者は教会の徳を高めます。(1コリント14:3-4)」すべての信者は、徳を高められ、勧め(励まし)を受け、また慰められる必要があるのではないでしょうか?

第二に、多くの牧師が、聖書預言についての知識が不足している、また健全な訓練を受けていないために、預言を教えていません。聖書が神の御言葉そのものであると信じている人々は、もちろんたくさんいます。けれども、様々な理由から、自分自身で注意深く聖書を学ぶ時間を取ったことなく、あるいは、神学校や聖書学校で詳しく、深く教えられたことがありませんでした。したがって、これらの預言にある真理を解き明かすように手助けするには、自分は準備ができていない、不適格であると感じてしまっているわけです。

預言の中には、もちろん複雑で混乱させるものも一部にあります。預言に言及されている名前(例えば、エゼキエル書38‐39章にある、「ゴグ」「マゴグ」「ゴメル」など)は、見慣れないものであり不明瞭です。それらの意味しているところを見極めるためには、歴史を探索するような労力が必要です。それで、牧師にはそうした研究をして自分の会衆にはっきりと正確に教えようとする興味もないし時間もないと決めてしまい、預言を教えること自体を放り投げてしまうのです。それはよく理解できます、それで私は、牧師が預言を学び教えることができるよう、最善を尽くして資料を作ろうとしてきました。また、自分に助けになった優れた資料を取り上げてきました。今こそ、預言の力と目的を再発見する時だからです。聖書ははっきりと、神が終わりの時の預言を学び教える者を祝福すると、教えています。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示1:3)」アーメン。

【きよきよの一言】
<第一の理由>聖書を神の言葉としてまともに信じていないというのが、そもそもの間違いです。そして教団や教派の信条告白には聖書の霊感を唱えていても、実際上は信じていないことが極めて多いです。そしてジョエル氏が挙げている問題は、「聖書全体を学んでいない、教えていない」という問題です。ロゴス・ミニストリーまたLCF教会では、創世記から順番にそのまま読んでいって、説教を聞き礼拝を守っています。そうすれば、神が全体のご計画の中で、キリストの十字架とよみがえり、そして再臨を頂点にする救済をお心に止めておられることは明白になってきます。昨日の礼拝でも、1サムエル記1-3章を学びましたが、ハンナがサムエルの誕生で歌った賛歌が、まさにキリスト預言でした。内村鑑三が、再臨信仰に目覚めた理由も同じでした。新約聖書の最初の言葉、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ1:1)」も再臨の希望なくして読むことはできません。霊性や敬虔に生きることにとても敏感だった内村氏は、これこそ信仰の支柱にしなければいけないことを悟ったのです。

そして、聖書預言について教えている人の間でもそうでない人の間でも陥っている過ちは、興味本位や好奇心だけで留まっている、という問題です。霊性だけを求めているような人には、ゆえに聖書預言が有益であると思えないし、学んでいる人は知的満足で留まっています。けれども、ジョエルが言っているように、預言をまともに心に留めたら、自分が今の自分ではいけないのだ、という切迫感を抱きます。罪の悔い改めも迫られます。そしてキリストへの愛が増し、他の人にもキリストの愛を伝えたいと願います。興味をもって学んでいる人たちは、自分に果たしてキリストの形が聖書預言を学んだときから造り出されてきたかを吟味すると良いでしょう。

<第二の理由>おそらく、大部分の福音派(注:日本では聖霊派という分類もありますが、聖書を神の言葉だと信じている人々全てを含みます)教会の牧師の方々が抱えている課題だと思います。ある方が教えてくださいましたが、「神学校の授業では組織神学は、どうしても終末論が最後に来るので、さらっと流されてしまう。そして、「諸説があるので自分でどれが正しいかを判断し、決めるのがよい。」という言葉で終わってしまう。結局考える時間もなく卒業、現場での教会活動の中に入る。」とのことです。

幸い、私はじっくり学び考える時間が与えられていました。カルバリーチャペル・コスタメサのスクール・オブ・ミニストリーでは、組織神学の授業で、終末論についてはかなりの時間が割かれていました。私も教科書になっていた黙示録の注解書をじっくりと読み、自分も興味をもって調べていきました。渡米する前に、聖書の初めから、啓示されているキリストと御国の幻と、その預言的発展について、その初歩的知識をある人から教えてもらう機会があり、その時に、あまりにも恐ろしくて、畏怖の念に打たれて眠れなくなったことがあります。再臨のキリストが目の前に信仰の中で見えたのです。その後、いったいどのような預言的発展になっているのかが、知りたくて知りたくて仕方がありませんでした。その結果、帰国後、「聖書預言の旅」という拙書も書かせていただくことができました。

(「その3」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その1

8月下旬に、カルバリーチャペル・ホノルルの運営するラジオ局が、ジョエル・ローゼンバーグ氏を、終末を話題にした伝道集会に招いた時の講演内容です。これは、ハワイのカルバリーチャペル牧師会議と同じ時期に行われたので、日本から、所沢、府中、西東京、那覇のそれぞれのカルバリーチャペルの牧師や宣教師も参加することができ、帰国した彼らから良い反応を聞くことができました。

ジョエル・ローゼンバーグ氏は、私の心の中では大きな影響を与えてくれた人です。とかくマニアックになりがちな聖書預言を、彼は伝道と宣教、また慈善活動において還元していく賜物を持っています。彼は「四つの法則」で有名な福音宣教団体キャンパス・クルセードに従事するかたわら生活のために政治の中で働いていましたが、ある時に政治の世界から身を引き、けれども「聖書預言が今の時代に起こったらどうなるのか」という前提で小説を書き始めました。その処女作の初版を寄稿したとき、自宅の上を911のハイジャック機が飛んでいました。自分の書いた小説と全く同じストーリーが、つまり飛行機をハイジャックして神風特攻隊のごとくアメリカの中枢部を打つ、というストーリーが展開した、ということであります。小説を書いたり、講演をしたり、そして何よりも中東地域への霊的、物質的働きかけをしている、すばらしい主のしもべです。彼がホノルルで行なった講演は、日本の信者も知らなければいけない、日本の状況、日本の教会の状況にそのまま当てはまる、基本的、普遍的内容であります。

ブログ記事”SERMON: REDISCOVERING THE POWER AND PURPOSE OF BIBLE PROPHECY — Part 1“から、少しずつ訳していきます。

【意訳】
ルカの福音書12:51-56に主イエスは、これらの言葉を語っています。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。

一世紀、ローマ占領下のイスラエルの地では、大きな不安の中で人々は生きていました。自らの将来が不安でした。戦争、旱魃、飢饉、天災を恐れていました。彼らは必死に救世主を求めていました。けれども、イエスは彼らを責められたのです。なぜでしょう?イエスが叱られたのは、ヘブル人の聖書の預言が全てあるのに、その預言が来臨のメシヤが誰かを実に詳しく伝えているのに、神の御言葉の中でこれらの預言を注意深く学び、調べていなかったからです。彼らは預言を観察し、現在の出来事と比べることをしていなかったのです。彼らは「点と点を線で結んで」いなかったのです(注:異なる事実を結びつけて結論を引き出す.▼いくつもある点を線で結ぶと最後は絵ができあがるパズルから)。彼らは、聖書預言の力と目的を悟っていませんでした。イエスご自身が実にメシヤであられることを、彼らの只中に立っておられること、そして彼らを罪と悲しみから救おうとしておられたこと、救うことができるし、喜んで救いたいと願われていた事実を見落としていたのです。

今日、私たちも大きな不安の時代に生きています。自らの将来と世界の将来に不安を覚えています。イスラエルとイランの間に中東で大きな戦争が勃発する脅威が増大しています。ヨーロッパ諸国が経済破綻に陥っています。米国経済は大変な状況に陥り、財政的に道徳的に内的爆発する脅威が、非常に現実味を帯びています。暴力と殺人の波が、小さな町でさえもアメリカでは爆発しています。あらゆる形の天災に直面しています。酷い飢饉、歴史上稀に見る火事、深刻なハリケーンが再びメキシコ湾沿岸部で起きそうです。

驚くべきことは、これらの米国また世界の趨勢は、聖書預言の「終わりの日」が実に合致していることです。終わりの時の聖書預言が、私たちの周りでその通りになっているのを見ており、イエス・キリストの再臨が着実に近づいていることを教えています。しかしながら、実に少数の人しか神の御言葉を学んでいません。点と点を結んでいません。聖書預言の力と目的を理解していません。したがって、イエス・キリストがご自身に彼らを呼んでおられる事実を見失っているのです。イエス様は、彼らを罪と悲しみから救いたいと願っておられます。永遠の命を、豊かな命を無代価で与えたいと願っておられます。イエス様は、人の形として間もなく戻って来られるのです。

個人的に私は聖書預言に大変興味があり、その興味はほとんど自分の生涯の間、続いてきました。私は預言についてのノン・フィクションの本を書き、世界中で講演してきましたが、それは預言は興味をそそり、誰でも聞きたい人にはこれらの真理を分かち合いたいと強く願っているからです。同時に私は、「もし?」という前提の小説を書いています。つまり、もし、ある預言が私たちの時代に起こったらどうなるのか?ということです。どのようになるのか、どんな感じになるのか。いつ、どのようにこれらの出来事が実際のものとなるかは確実には分かりませんが、小説によって「戦争ゲーム(注:「机上演習」あるいは、戦争を模したゲーム)ができるわけです。人々に、これらの預言が何であるか、その意味や自分の生活にどう関わるのかを考えてもらうことができます。

(「その2」に続く)

シリアはどんな国?

中東諸国について、私たちはどうしても分からない、もやもやした部分があると思います。けれども同時に、聖書の舞台になっている地域であり、かつ聖書預言の中心であります。このジレンマをどう克服するか、私も大きな課題として個人的に本を読んだり、勉強してきました。

以前、「イスラエル人の本音を日本人が話す」の記事で紹介させていただいた、在イスラエルの日本人のブログに、シリアについての説明が書かれていました。中東の各諸国の短い説明の中でシリアの位置を確かめているところが、とても分かりやすいです。彼女はゴラン高原に住んでいる人なので、シリアは目と鼻の先にあります。ぜひ下のリンクをクリックして読んでみてください。

「砂上の楼閣」

今のシリア情勢を神の目で見るには、つねに下のイザヤの預言を心に留めていてください。歴史上、未だシリアの首都ダマスカスが廃墟となったことはありません。ですから未来預言です。

ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。(イザヤ17:1)

そしてもちろん、シリアは聖書時代には沢山出てくる国です。古代名「アラム」として登場し、ダマスコは、アブラハムがロト救出のために敵を追跡したところであり、またパウロがダマスコに行く途上で復活のイエスに出会い、回心したという大きな出来事も起こっています。アブラハムに約束された「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。(創世記15:18)」というのは、シリアの北部にある上流地域のことであります。

そして激戦地になったアレッポは、旧約聖書の最古の写本「アレッポ写本」があった場所であり、聖書的にも、遺跡の上でもとても魅力のある国です。

さらに、先日、日本の女性ジャーナリストが銃撃戦で死亡したニュースが流れたこともあり、イスラエルの安全は大丈夫かと懸念する人もいるかもしれませんが、そのことについても現場からの報告を書いておられます。

「山奥は今日も静か」

イスラエルに限らず、マスコミから流れる映像と現場とはこれだけかけ離れているものです。(例えば、最近、中東旅行から帰ってこられたご夫婦がうちの教会にいらしていますが、テロ活動が展開されているシナイ半島でも、何の問題もなくシナイ山に登ることができたのこと。こんなものです。)ロゴス・ミニストリーは2013年にイスラエル旅行を企画していますが(今でも参加者募集中!)、そういう理由で現地旅行社からの情報と状況判断に依拠していきたいと思っています。

イスラエル人も罪人

今朝の妻とのデボーションは黙示録11章でしたが、そこにこう書いてあります。「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。(黙示11:8)」この「ソドムやエジプト」と呼ばれているのは、もちろんエルサレムのことです。イザヤ書から引用した言葉であり、イスラエルが贖われたはずのソドムやエジプトと霊的には同じぐらいになっている、堕落している状態になることを、聖書は終わりの日に起こることとして預言しています。

次のニュースが興味深いことに、日本語のニュースサイトには一切報道されていませんでした。以下はイスラエル・ニュース翻訳サイトからの引用です。

8月20日(月)
*先週の木曜の夜にエルサレムで、ユダヤ人少年らが集団でアラブ人を暴行する事件が発生。今日までに5人の容疑者が逮捕されているが、警察は現在も捜査を続けており、逮捕者は増える見込み

8月21日(火)
*エルサレムで発生したアラブ人に対する暴行容疑で逮捕されたユダヤ人少年が「もう一度、あいつをつかまえたら、殴り殺す」と発言。他にも7人の未成年の男女が逮捕され取り調べを受けている。(P,Y,H)
http://www.zion-jpn.or.jp/news/jd0821.htm

いつもは、イスラエル国防軍がハマスのロケットによる攻撃への報復として、ガザにいるテロリストを標的に攻撃したりすると、日本語では、どんどんニュース記事がその出来事で埋まるのですが、あまりにも不公平な報道であると思って読み流していることが多いですが、これは絶対に見逃せない記事です。

私は「三つのPro」というエッセイ記事の中で、イスラエル・パレスチナ紛争の本質は「領土」ではなく、「在留異国人へのいたわり」へと焦点を当てるべきであると述べました。ジョエル・ローゼンバーグ氏もその律法の言葉を引用して、今回の犯罪を強く非難しています。ネタニヤフ首相も、このリンチになりかねなかった恐ろしい暴行を強い言葉で非難し、容疑者を厳罰に処することを発表しています

ここでやはり、私たちが神の愛で人を愛するということは、どういうことかを考えなければいけません。イスラエルは神に選ばれた民です。(その選びを基盤として、異邦人信者をも選びの器としてくださったことをローマ9章は教えています。)それはイスラエル人が正しいことを行なっているからでしょうか?いいえ、彼らはたくさんの不正と悪を行なってきました。私たちの教会の学びは士師記を終わりましたが、ベニヤミン人はソドム人と変わりない集団同性愛レイプを行なおうとしたのです(結局、一人の婦人を集団レイプ、死に至らせる)。

それらの悪にふさわしい裁きを神はイスラエルに下されます。流血や暴力について、忌まわしい行ないや汚れについて、神は預言者によって何度も警告されましたが、言うことを聞きませんでした。それでバビロンによって捕え移されます。それでも、神はイスラエルをあきらめませんでした。ここに愛があります。愛は真実に基づくものであり、人間的には絶対に好きになれない相手を、それでも愛していくのです。そしてそれは悪を容認する愛ではなく、その悪を裁き、懲らしめ、その悪から離れることを願うところにある愛です。

私はこの事件を見て、イスラエル人も終わり日に起こる困難な時代の例外を免れないと思いました。米国における当り構わずの乱射。日本における、あまりにも陳腐な動機による通り魔。そして諸外国における“愛国心”“公平な社会”等、もっともらしい名を使っての暴徒。「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、・・・」(2テモテ3:2‐4)

「怒り」「憎しみ」「非寛容」という空気がこの世を立ち込めています。また、「恐れ」「不安」という敵にも目を向けるべきです。私たちは恐れると、自己防衛反応から、本当は愛するべき人から離れたり、避けたり、時には被害意識によって攻撃的にさえなります。

イスラエルが清められますように。そして私たちキリスト者も世の汚れから守られますように。

【追記】
私がこのニュースで衝撃を受けたのは、私も旅行中は必ず通ったエルサレムの繁華街「シオン広場(Zion Square)」で起こったことです。パレスチナ人による自爆テロが・・・というのが第二次インティファーダの時にはありましたが、まさかその反対のことが少しでも起ころうとするなんて・・・という衝撃です。

ある記事では被害者は「アラブ人」と書かれており、また「パレスチナ人」と書かれているのもあります。1967年にイスラエルがヨルダンから東エルサレムを奪取しました。イスラエルはそこを併合したのですが、そこのアラブ人住民には無条件でイスラエル国籍を提供する準備をしました。けれども拒むこともでき、ほとんどが拒んでいます。

彼らはエルサレム在住ビザが与えられており、エルサレムを自由に行き来できます。旅行に行けば、西エルサレムがとてもユダヤ的で東は昔からの町、アラブ人の多い地区であることをすぐに感じ取ることができるでしょう。けれども、西エルサレムではユダヤ人もアラブ人も互いに通りかかることはあっても、職場以外は共に何かすることは希薄になっている、という現状です。(参照:New York Times

2010年の聖地旅行では、そのシオン広場の近くにある教会の礼拝に参加しましたが、東エルサレムからのアラブ人兄弟が奉仕していて、ユダヤ人兄弟と肩を組んで代表の祈りを捧げていました。