先日、御茶ノ水クリスチャン・センターの前で、ばったり、拙書「聖書預言の旅」を編集・出版してくださった、地引網出版(当時は「リバイバル新聞」)の方と久しぶりに会うことができました。まだ在庫がたくさんあるとのことですが、地震と津波が起こった後で少し注文する人たちがいたとのことです。聖書ではこれらの出来事について預言は何と言っているのか、という関心があったのだろう、とのことです。
この場を借りて申し訳ありませんが、ぜひ拙書をご購入してみてください、ネット購入できます。 → 地引網出版社
聖書預言また終わりの日、というと、私が注目してきたのは、「イスラエル建国」「政治や経済の世界化」「世界宗教」「コンピューターチップに代表される世界管理」「地震、飢饉、戦争」等です。けれども、終わりの日についての徴でもう一つ気づいて来たのは、次の聖句に代表される言葉です。
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。(2テモテ3:1-4)」
ここにある特徴をまとめると、「自己愛」と「反抗心・言葉の暴力・憎しみ」になるでしょうか?「自己愛」については、後で取り扱いたいと思いますが、ここでは後者について考えてみたいと思います。
現在進行中の日本の問題は、もちろん放射能汚染の問題と政府の対応です。このことについて、先日、鉢呂経産相が失言で辞任したニュースがありました。ところが、記者会見でヤクザまがいの言葉を使う記者がおり、それが逆に問題となりました。そして、先日は、JR北海道社長が自殺した事件が起こりました。そしてもちろん東電の問題がありますが、そこに共通していることは、「過ちを追及している者たちの尊大な言動」です。本人は謝罪しているにも関わらず、さらに追い詰め、圧力をかけていきます。「赦し」がありません。(参照記事:「JR北海道社長の自殺に思う」)
そして今の政治界には、対抗している相手に対しての敬意が欠如しています。民主党の党内選挙の政局争いにも見られますし、野党となった自民党には極めて顕著になっています。
さらにもちろん、週刊誌の表紙にある扇情的な言葉があり、インターネットにおける匿名を良いことに暴力的な言葉を使用するようになっています。
物理的な暴力は使っていないのですが、言葉を武器にして相手をなぶっています。終わりの日の特徴は反キリストの台頭ですが、彼の特徴は「言葉による支配」です。
「この角には、人間のような目があり、大きなことを語る口があった。」(ダニエル7:8)
彼は「小さな角」と言われるように、政治的には小さい力しか持っていません。けれども、「人間のような目」というのは「人間の知性」を表していて、非常に頭脳は明晰です。そして、口を開かせると実に人々を説得させるような言葉を話します。この特徴をもって、彼は「全土を食いつくし、これを踏みつけ、かみ砕く(23節)」のであり、「いと高き方に逆らうことばを吐き(25節)」ます。そして既存のものを否定しながら、のし上がります。「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。(11:37)」彼は自尊心の塊なのです。
イエス様は、「このような小さな子のようにならなければ、神の国に入ることはできない。」と言われましたが、そのように神の権威の中にへりくだり、服従し、人間の知性にある高慢を取り除いていただくことが人間に対する神の命令であり、神のように賢くなるという蛇の言葉を聞いて、善悪の知識の木から実を取って食べたエバは、この反抗心から来る罪だったのです。
相手を批判している本人たちは、権威者に対して対抗する権利があると思っています。政府、行政、与党、大企業、有名人など、自分よりも強い者であるから彼らこそ悪なのだと決め込んでいます。これこそが、小さな角からのしあげる反キリストの霊であり、そして「あなたは知らないのだ」という知的高慢、そして手は出さないけれども同じように魂に傷を与える言葉使いは、終わりの日に出現する反キリストの霊に服従しているにしか過ぎないのです。
そして、私は中東情勢を追っていますが、そこには私たち日本国にある閉塞状態が目で見える形で、何十倍にも膨れ上がって現れ出ています。
「アラブの春」というのは、反イスラエル感情の噴出に他なりませんでした。たった今、パレスチナ自治区のアッバス氏が国連に国家としての認知を承認してもらうべく申請しましたが、それにまつわりアラブ・イスラム諸国は、イスラエルに対して大きな牙を向いています。トルコが豹変しました。エジプトも豹変しました。イスラエル軍が誤って国境地域でエジプト人の兵士を射殺してしまったら、彼らは在エジプト・イスラエル大使館を襲撃しました。なんと、平和条約も見直すことをほのめかす発言を暫定政権の首相が行いました。サウジアラビアは、アメリカにパレスチナ独立国家案に拒否権を出すならば、親米路線を転換するという脅しをかけました。
おそらく反イスラエル姿勢を貫いている本人たちでさえも、「ここまで言ったらやばいだろう」と思っていても、周囲に対する面子、過激なことを言わねば後で暗殺されるかもしれないという恐れも重なって、歯止めがきかないのです。
ところで昨日、非常に興味深い記事を読みました。今、池田恵著の「イスラーム世界の論じ方」を読み始めましたが、結構先の「中東 危機の震源を読む」と重なる内容が多く、飛ばし読みすることになりそうです。けれども第一章「メディアの射程」の「アラブが見たヒロシマ」が極めて新鮮です。
アラブ世界では日本のことはほとんど報道されない。日本にはあまり関心がないのである。しかし、広島と長崎への原爆投下には関心が高い。「ヒロシマを世界へ」ということばは、戦後の平和運動の主要スローガンである。これにより「ヒロシマ」ということばはアラブへ広がった。日本人はヒロシマを通じて平和主義を訴えている。しかし、アラブ世界では違う意味で捉えられている。アメリカの残虐性の証明として、アメリカへの復讐の正当性を証するものとして、理解されている。(書評)
具体的に、ビン・ラディンが攻撃を米国にしかけた声明にもヒロシマが含まれている例を出しています。イラン大統領アフマディネジャドも何度となく米国とイスラエルへの攻撃と共にヒロシマを言及しています。
このように正反対の意味として広島の声が伝播している状況は、アラブ世界だけの問題ではありません。むしろ、発信地に内在的問題があるように思われます。筆者もこう言及していました。
この理解は、従来の日本の平和主義・反核反戦運動の立場からは「誤解」と言い切ってしまってよいはずである。しかし九・十一事件後に日本の知識人の間で公然化した「テロはやられたほうが悪い」とでも言いたげな議論を見ていると、アラブ世界の「ヒロシマ」受容はあながち誤解でもないのかと思う。
考えてみれば、日本の反核運動は核兵器廃絶の要求を「アメリカ」あるいは「西側」にもっぱら突きつけ、ロシアや中国の核については追及の矛先が鈍ったり、場合によっては弁護さえしかねなかった。アメリカにのみ非難と攻撃の矛先を向けるというのは、純粋に核兵器の廃絶を求める運動と考えるならば論理的・倫理的一貫性に欠け、理解が困難であるし説得力もないだろう。
しかし、敗戦国による「復讐」を目的とする運動として理解すれば、一転、非常に納得がいく。アラブ世界では非西洋諸国の反西洋・反米的な民族主義運動の一環として、「ヒロシマ」は理解されてきた。今後の日本の思想・政治的状況の展開によっては、その理解は結果的にまったく正しかったことになるのかもしれない。(本書28-29頁)
事実、911に際して、先日、石原自民党幹事長があのテロを「キリスト教世界に対するイスラム教の反抗という歴史の必然」としましたが、上の態度に通じる見方です。
このように日本人が心に秘めた怒りは、世界を巻き込む復讐劇の一部になっています。これからますます、隠れていることが外に大声で叫ばれるような時代になっています。私たちが力を尽くして守り、見張らなければいけないのは自分自身の「心」なのです。
キリスト者は、主の到来が近いことをふまえて、「寛容でありなさい」という命令を受けています。
「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」(ピリピ4:5)
「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」(ヤコブ5:9)
終末について語る人々の中には、キリスト教徒でも堕落する者が多く現れて、一部の者だけが神の怒りから免れるというエリート主義を掲げています。確かに多くの者が滅びの道を選ぶと主は言われているのですが、しかしそれに矛盾するかのように、主は徹底的に私たちには寛容と受容を命令されているのです。多くの人々がふるい落とされる終わりの日にだからこそ、むしろ心を砕き、広い心で人々に接していく使命を帯びています。
これに必要なのは、徹底的なへりくだりと神への服従です。
例えば、続けて反核運動の話題で言うなら、以前から私は、原爆に関しての平和の希望は、広島ではなく長崎から発信される声にあると思っていました。それは「赦しと愛」です。
原爆の被害は人間の想像を越えるものであった。特に放射線が人体をむしばみ続ける恐ろしさ。しかし日本の侵略と加害による虐殺の数は原爆被害をはるかに越えるものであった。
今我々がやらなければならないことは、中国はじめアジア、太平洋の国々に謝罪することである。心から赦しをこうことである。日本の過去と未来のためにも。
しかし、そのための条件は、日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、広島と長崎が原爆投下を赦すということである。怒りや悲しみは個人にとっても国家にとってもよいことではない。娘を殺された父親が相手を赦すというように、赦しえないことを赦す考え方、それが必要である。
広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきであろう。21世紀は「和解の世代」でなければならない。
核兵器のない世界への努力と「和解の世界」への努力は同一のものでなければならない。
(本島元市長「広島よ、おごるなかれ」まとめ)
お互いに許し合おう…お互いに不完全な人間だからお互いに愛し合おう…お互いにさみしい人間だから
けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、あとに残るのは後悔だけだ。 (「平和塔」より)
敵も愛しなさい。愛し愛し愛し抜いて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。愛の世界には敵はない。敵がなければ戦争も起こらない。
(永井隆)
もしこのことが日本全体で実践され、それが反核のメッセージとして世界に伝播していたのであれば、今、テロリストの口から「ヒロシマ」の言葉は消えていたことでしょう。
私たちは、自分の周囲からこの態度を実践することができます。気の合わない人に忍耐できるか。聖書的に明らかに間違ったことを行っている人に対して、罪には決して妥協しないけれども、その人格を受け入れているか。意見が異なる人に対して敬意を表しているか。自分の上にいる人々に対して、反抗心を捨てて、主に対するように仕えているか。心にあるあらゆる悪意、ねたみ、無慈悲、怒り、そねみを捨てているか?そして、主を知らない人々に対して、福音を紹介しているか?
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)