今一番、世界が見ないもの その2

その1からの続き)

③ 暗闇の中にある光を伝える

私たちの主イエス・キリストは、むごたらしい死を遂げられた後、よみがえられました。暗闇の中に光を投じられました。この復活の命は、世の終わりに至るまで続きます。世は確かに悪くなっていく一方です。けれども同時に、その暗闇の中で主の御霊の力強い働きが同時進行で、同じ場所で起こっているのです。

それを知るのに良い書物は黙示録です。人々は黙示録は恐ろしいといいます。神の裁きの部分に衝撃を受けて、その他の部分や全体の流れを見失っているからそうなるのです。裁きの前に主は天における情景をはっきりとお見せになりました(4‐5章)。そして、裁きが行なわれている間も、天における讃美と礼拝を書き記しています。そして地上においては、そのような恐ろしい災いがあるにも関わらず、それでも救われる人々(注:教会ではなく、患難中に信仰を持つ聖徒たち)を神が起こしてくださっている姿を見ます。そして最後の呼びかけは、「渇いているものは、ただでいのちの水を飲みなさい」というものです。

ですから、地震による被害で今も苦しんでいるハイチで、驚くべき神の御業を見ることができるのです。(記事

昨日の報道で、エジプトにおける選挙の結果、ムスリム同胞団を始めとするイスラム党が70パーセントを占めたという暗いニュースがある一方で、以下のような報道があるのです。

想像を超えた希望
五千人から一万人のクリスチャンが、タハリール広場で大晦日に集会を開いたそうです。ちなみにリンク先のSAT7は、中東地域とイスラム圏に衛星放送で福音を届けている局であり、今、神が世界で行なわれている御業の最先端を報道していると言って良いでしょう。

確かにコプト教会は迫害を受けています。けれども、カイロ郊外のスラムで始まった「洞窟教会」は、今、このような礼拝賛美を捧げています。

この記事と、次の御言葉を重ね合わせてください。「それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。(イザヤ19:20-22)」

イランも激しい人権弾圧が行なわれています。しかし、リバイバルが爆発的に起こっており、米国からはペルシヤ語による福音宣教放送が行なわれているのです。(Youtubeビデオ)これによって、毎週、イエス様を受け入れると反応している人が1000人もいるとのことです!

この国にも希望の預言があります。「わたしはエラム(イランの古代の国名)にわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。・・主の御告げ。・・しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの捕われ人を帰らせる。・・主の御告げ。・・(エレミヤ49:38-39)」

これらが、私たちキリスト者が最も注目しなければいけない流れであり、同時に、世界がもっとも注目しない、あるいは報道しない出来事であります。私たちは世から一歩進み出て、この聖霊の流れの深みにまで潜らなければいけません!

④ 感謝と祈りを捧げる

ツイッターで、カルバリーチャペル西東京の牧師、再び山東さんが良いコメントを残しています。

原発や国政に意見を唱えると同じだけ、いやそれ以上、指導者を覚えて祈ることが求められている。そせて、神がそのことも支配し、運んでいる視野を忘れてはならない。1テモテ2:1から思う。
https://twitter.com/#!/Santou/status/160507559193739267

金曜の夜、健康ランドで教会の男性会を持ちましたが、そこで話題に上がったのが「日本には感謝が足りない。」ということでした、現代日本人は問題を指摘することには長けていますが、感謝すること、そして執り成しの祈りをすることには非常に後進的であります。モンスターペアレントのようになっています。

もしかしたら、教会の指導者に対してもモンスター信徒になってはいませんか?(参照:昨日説教「神の家の中にある反逆」(原稿 ・ 音声

けれども、そうした総国民モンスター化の状況で、感謝をささげ、執り成しの祈りをささげるところに、エジプトやイラン等にあるように、暗闇に光を投ずる神の驚くべき働きの一歩になると信じます。今日も、今週も聖霊に満たされましょう。主の愛に満たされて、少しでも周りの人々にイエス様のことを知っていただきましょう!

今一番、世界が見ないもの その1

昨日は、午後礼拝の終わりにみんなでサイゼリヤに行って、語り合いました。いろいろな話題が出てきましたが、興味深いのは池上彰氏のテレビ番組で、サウジアラビア取材とイスラムの説明が前面に出ていた、ということ(紹介 ・ 動画)。そして現地の人が、サウジがいかにすばらしい国かを宣伝していたかということでした。

私は、「池上さんは、いわゆる主流マスコミの人であり、リベラルの人だ。けれども、欧米が今、かなりイスラムが侵食している中、それを好意的に報道するという流れがあるので、それをそのまま日本の人たちにも啓蒙しようという意図があると思う。今、米国では公立学校で寛容を学ぶためにコーランを勉強する一方、聖書を一切禁じている。英国では何と、イスラム教徒に気を使って歴史でホロコーストそのものを教えることを控える動きが出てきている。」と話しました。

私が感じている問題点、そしてキリスト者が持つべき視点と祈りをお話したいと思います。

① イスラム諸国で起こっている現状を伝えない

池上彰さんの報道努力には敬意を表したいと思います。彼は「宗教」というものが世界情勢において大きな軸になっていることを、世界を廻っているがゆえに知っています。そして一般の視聴者の知識レベルを少しでも高めようとする努力が見えます。

けれども、マスコミというのは「左寄り」であることは確かです。私がしばしば紹介している、イスラム研究家である池内恵さんは、日本のイスラム研究家はイスラムを内在的に見ることなく、美化してきたという批判を繰り返しており、イスラムの現状をその内部から詳しく説明しています。そこに浮かびあってくるイスラムの暗闇は、西洋世界、自由社会にとって大きな警告となっています。

参照記事:「中東 危機の震源を読む

そして、キリスト教会もマスコミの一般知識レベルに留まっている所が多く、「イスラムとの対話」を挙げる人々がかなり多いです。聖書に従えば、イスラムは反キリストの霊そのものです。イエスが肉体をもって現れた神であり、神の御子であることを、明確に、信仰表明として否定しているからです(1ヨハネ4:2-3)。イスラム教徒に対しては、「愛による福音宣教」とそれによる「回心」が目標になるべきで、決して対話による共通項の発見ではありません!

② 現状を伝えるが、希望を伝えない

けれども、米国の保守メディアを始めとする、イスラムの脅威についての報道についても限界があります。確かにイスラムの暗闇を直視する必要があります。けれども、そこにあるまた別の流れを見ていません。イランについても、核脅威や人権抑圧については事実でありこそすれ、その中に生きている人々のダイナミズムを伝えることはしません。

中国についても同じで、家の教会に対する迫害や、民主活動家や独立運動への弾圧については報道しますが、けれども同時に、たとえ公認教会にも変化が出ており、極めて健全で、生き生きとしている諸教会があることや、家の教会において異端の教え入り込んでいるなどの現状は伝えない傾向にあります。独立運動も、インテリの人々が主導で行なっており、貧しい一般の人々は日々を生きることで精一杯であり、関心の薄いことについては伝えません。

北朝鮮も、そのおぞましい体制はその通りですが、そこに生きる人々はやはりそこが故郷だと思っており、その地を愛していることを見逃しています。その惨状を一番知っている脱北者でさえも、反北朝鮮報道に驚くときがあります。

リベラルも保守も根は同じで、「ステレオタイプ(固定観念)」を造り上げている点があります。民主・自由主義の世界に生きている人々には理解が難しいかもしれませんが、相反する出来事が同居しているという二面性を、そうした国々は持っているということを知る必要があるでしょう。

キリスト教会について言えば、私が好きではないのは、「聖書預言や人間の暗闇だけを強調して、神が預言を与えておられる意図を見失っている」という動きです。私自身、聖書預言を強調するものですが、それはあくまでも、「世という暗闇の中において、神は光として輝いておられる。神は救いをもたらすという情熱を持っている。」ということを伝えたいからです。世界や日本で起こっていることを並べ立てて、いかに世の中が悪くなり、そしてキリスト教会が背教に向かっているかを述べるにとどまり、自分自身はなんら行動に移していない姿。伝道もせず、宣教活動もせず、弱者や貧者に対する救済も行なわい姿には、辟易します。

その2に続く)

ハイチにおける聖霊の御業 その3 - 主の与える教訓

その2からの続き)

これから教訓を話します。神の力ではなく人の力で行うと、神の栄光につながりません。お金をくれるという話を聞いたら、それはその寄付者はビル・ゲイツでした。私の心に恐怖が襲ってきました。もし受け取ったら、この働きはビル・ゲイツによって運営されているということになります。神の栄光が取り去られてしいまいます。断りました。

けれども肉は弱く、「この人に祈りのカードを送れば、醵金してくれるかもしれない。」と思ったり、そのたびに、「わたしになぜ頼まないのか?」と言われます。実際に行うと、12ドルだけ一度きり送ってきて、それでおしまいだったり。

私たちはラジオ番組と契約を結びましたが、月に9000ドル必要ですが、一年間、誰にも催促せずに続きました。ある月、五百ドルしかきませんでした。「あと8500ドル必要ではないか!どうしよう?」と悩みました。次の月は、2-300ドルしかきませんでした。計18000ドルをどう支払うのか!「主よ、もういやです。このラジオ番組、嫌いです!」と叫んでしまいました。

それで、パソコンに詳しい兄弟に、「うちらのウェブサイトに、献金を募る目立つボタンをつけよう。点滅させて!」と頼みました。なんと、一セントも献金が来ませんでした!それで、「取ってくれ!」と頼みました。その後に、主が備えてくださったのです。私は痛い教訓を得ました。

アサ王のことを思い出します。彼は百万のクシュ軍に、主に祈り立ち向かいましたが打ち破ることができました。けれども、イスラエルの王バシャがユダを攻めようとしているのを見て、彼はシリヤのベン・ハダデに頼みました。主が彼に言われたことを思い出します。預言者がこういいました。

「あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」(2歴代誌16:8-9)」肉の力に頼ろうとすると、神はそうさせるに任せられます。

時は短くなっています。機会を良く用いてください。だから、基本に戻ってください。神は言われます。「わたしが命じて、あなたは従う。そうしたら聖霊をわたしは注ぎ、わたしが行う。」このすばらしい御業を私たちが語り合う時、主はそれを記憶の書に書き記してくださいます(マラキ3:16)。

主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。(詩篇103:22)

ハイチにおける聖霊の御業 その2 - 主の導き

その1からの続き)

そこでブライアンは再び、その敷地を得るためにまたハイチに行きました。今度は独りです。「宣教はチームで行うんじゃなかったっけ。」という不安がよぎったり、またハリケーンがハイチを近づいているというニュースも入ってきます。そしてあいかわらず、暴動や略奪、誘拐のニュースが入ってきます。彼は、バプテスト宣教館に着きました。不動産広告はもちろんのこと、街路の名前さえなくなっている状況です、どこから手をつければよいかわからない状況でした。

コンピューターに詳しいクリスチャンの友人が、何年も前に削除された情報を入手、電話料金がわずかな中で手短に、あまりにも大雑把な情報のみを伝え聞きました。けれども、ある聖歌隊に属している人がメールで、出エジプト記23章をくださいました。

見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。(20-21節)

それで祈り求めたら、主が、「そこがその場所である」と教えてくださいました。けれども運転手に告げても自分自身あいまいなことしか言えず、いろいろなところに連れていってくれましたが、どこでも「違う」と応えました。

その所有者に電話することにしました、その運転手が電話で話してくれましたが「私はつれていかない。」というのです。「なぜなら、まるで誘拐の計画を立てている手法にそっくりだからだ。あなたのパスポートのコピーをくれ、と言っている。そして、よくわからないところで会ってくれ、と言う。」けれどもブライアンに主は「そこがその場所だ」と言われます。孤児院でも、「ハイチでは、絶対に知らない人の車に乗らないこと。」と強く言われていました。

所有者(の秘書)と話すと、「こちらに来る交通手段は?」私が「いいえ」と答えると、「車を出すから、それに乗りなさい」と言います!車が来ました、男が二人います。そして電話が所有者からまたあり、「その車に乗りなさい。」と言います。そして「パスポートあるわね。」と言うのです!でも乗ってしまいました!

・・・けれども、ヨシュアがヨルダン川を渡ろうとしていた時、水かさがもっとも増している時期でした。それでヨシュアに「恐れるな」と主は言われたのです。私も恐怖に満たされていました。けれども敷地に着いたとたん、主の強い臨在があり、そこがその場所だとはっきりしました。

実際の所有者に会おうとしましたが、人々がいろいろいて、結局会えず仕舞いでした。書類に必要なことを記入し、米国に戻り、送金をしました。

ところが二週間後、電話がありました。「深刻な事態です。お金が届いていません。送金が完了するには、所有者と直接話さないといけないようです。」そして、「その施設の所有者は、ハイチ大統領の側近です。一般人が話せるような人ではありません。でも送金を完了させるのは、話さなければいけません。」おまけに、この側近の方は蔓延したコレラ対策で極めて忙しくしています。

けれどもブライアンは、前に与えられていた出エジプト23章の御言葉を読み続けました。すると、「あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。(25節)」とあります。ついに電話で話すことができました。

「これからとても大切なことを話します。コレラ問題の解決策です。」「解決があるのですか?!」「ええ、聖なる書に、第二書の出エジプト記23章にあります。」「水の中の病気を取り除く、という約束です。主に仕えなさい(主に立ち返りなさい)と書いてあります。それは、ハイチの人々、そしてあなたから始まります。」「私から始まるのですか?」「はい、イエス様があなたのために死んでくださいました。」互いに叫びあいながらの電話越しの会話です!そして彼は、「分かった!聖書を入手して読むから。」と言って、彼は電話を切りました。

一週間後、ハイチで選挙がありました。夜十時に国際電話がありました。「ブライアン、聖書を入手したよ。出エジプト記23章を読んだよ。ハイチはあなたの祈りを必要としている。私のために、そしてハイチのために祈ってくれ。」ハレルヤ!

そしてブライアンは聖書訓練センターの幻について分かち合うようになりました。彼はついに信者になりました!ブライアンに会うたびに、”God bless you!”を連発します。

ブライアンに主が与えられた思いは「若い人たち」でした。アハブ王に対して預言者は、若い者たちによって戦うことを命じられたように(1列王20:14)、です。それでいろいろな地域の人たちを集めました。三日間、食べていない人もいました。聖書を教える教師たちも集まってきました。そして、30-40人から10人の子達を選び、いっしょに生活を共にし始めました。

そして施設が、孤児院や学校、食糧の調達などができる免許取得の思いが与えられたのですが、孤児院の院長に相談したところ、「絶対に無理だ!11年間、取得しようとしたがなしのつぶてだ。」とのこと。けれども、その側近に電話したところ、「会合を設けるから、そこに来るように。」とのこと。その政府官邸に行き、数人の高官に挨拶しましたが、実際の免許付与手続きの役人が、「三日間で免許交付します。」とのこと。「手数料は?」と聞くと、「無料です。これは政府の命令です、即座にしなければいけません!」とのこと!!

ネヘミヤがエルサレム帰還のことをペルシヤの王に打ち明けたところ、「快く私を送り出してくれた(2:6)」とあります。またエズラも、「彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた(7:6)」とあります。預言者サムエルは、「主にも、人にも愛された(1サムエル2:26)」とありますが、このように私たちは人々の好意を主によって得られなければなりません。

ブライアンたちは、どこにいっても福音を語りました。みな信じて救われていきました。神が彼らを遣わしたことをハイチの人たちは知っていたようです。彼らはイエスの御名によって悪霊も追い出しました。

福音の言葉を語れば、そこにはしるしと不思議が伴います。なぜなら、神がその人々を救いたいと願っておられるからです。フィラデルフィヤにある教会に対して、イエス様は「だれも閉じることのできない戸を開いた」と言われました。

その3に続く)

ハイチにおける聖霊の御業 その1 - 主の与える幻

1月2-6日に行われた宣教会議で、私が大きな励ましを受けたのは、Brian McDaniel(ブライアン・マクダニエル)さんによるハイチ宣教の証しでした。ハイチはちょうど二年前に日本と同じように大地震が起こって、今も五十万の人がテント生活をしている所です。そこに、神の聖霊の驚くべき導きと御業で、「聖書訓練センター」が建て上げられました。(ビデオ

彼の顔を見たときに、「どこかで見たことがあるような」と思いましたが、それもそのはず、私と同じスクール・オブ・ミニストリーを卒業した人で、短期宣教の時に彼が熱心に福音を伝えていたのを覚えています。

彼やその他の人々で、”Cross to Light“という福音伝道団体を持っています。

見た目も、そして語り口も、熱心な伝道者という印象であり、ごくごく普通、へりくだった兄弟でした。けれども、だからこそ主は、ご自分の恵みの栄光を現すために、御霊に従順になることを彼に教え、驚きべき御業を示されています。

上のYoutubeビデオはブライアンさんがカルバリーチャペル・コスタメサでの証しをしているところですが、私は宣教会議で聞いたものをこれからまとめたいと思います。

わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。(イザヤ45:3)

一年少し前に、招かれた教会において数名が「ハイチ宣教に行こう」と持ちかけられました。四名で行ったそうです。孤児院の中で寝泊りしましたが、護衛がいて、いろいろな規則があり、監視されていました。出て行こうとしたら院長夫人に叱られました、「あなたたち、状況が飲み込めてないわね。私自身も誘拐されそうになったのよ。」とのことでした。福音を伝えようと思っていたのに・・・、と意気消沈していたところ、院長がテント村に行きなさいとの勧めで、そこで福音を語る恵みにあずかりました。彼らが去った一時間後にはそこで小競り合いが起こったとのこと。

状況は悲惨ですが、人々の心は開いていました。十五名のほどの、学校にも通えない子供が付いてきていました。その中で「彼らを訓練して遣わしていけばよいではないか。」という思いが与えられました。そして主がはっきりと語られました。「子供たちのための施設を得て、いっしょに住みなさい。」と。

ブライアンは「幻が与えられるように、祈ってくれ。」と仲間に頼みました。一人が、「僕らがハイチを発つ前に必ず幻が与えられる、そう神が告げられたんだ。」と言いました。そしてその夜中に目が覚めて、はっきりと幻を見ました。

このことは他の誰にも相談せず(ガラテヤ1章のパウロ、エルサレムに到着したネヘミヤのように)、最後の日に孤児院の院長夫婦にこの幻を分かち合いました。「私たちは二年間、ずっと祈り続けていたのですよ。」と涙を流し出しました。

といっても、自分の口座には35米ドルしかありません!ハイチを飛び立ち、米国の空港で携帯に電源を入れたとたん、知り合いの人からのメールが入っていて「すぐに来なさい」ということでした。行ってハイチのことを話したら、「それは主からのものだ」と言い、すぐに妻を呼び椅子に座らせて、そしてブライアンに「いま話したことを妻にまた話して」と言いました。話したら、彼女は一気に涙に溢れて「このことを祈っていたのですよ!」とのことでした。それで四千ドルをくだいました。

その2に続く)

米国旅行の報告(1月2‐10日)

今、アメリカから報告しています。ほぼ全てのイベントが終わり、明日の午後発で帰国します。充実した日々でした。

まず初めに、カリフォルニアのMurrietaにおける宣教会議に参加しました。今年から一日さらに延びて、月曜日から金曜日までありました。各セッションの合間の自由時間が多くて、ゆっくりと過ごせました。交わりでいろいろな人と、鎌倉カルバリーのジャックさんを始め、日本の人たちとも交わりができて、良かったです。さらに、時差ぼけも手伝って、一番目が冴えていたのは早朝祈祷会でした!祈りあって、あっという間に一時間半が経っていき、非常に恵まれました。

セッションの聖書メッセージも非常に御言葉の真理による深い慰めを得ました。賛美によっても慰めを受け、本当に地上においても聖霊の喜びの御国を味わいました。

セッションの中で特にすばらしかったのは、メインスピーカーのパム・マーキーさんとブライアン・マクダニエルさんです。パムさんは、幼い時をアフリカへの宣教師の両親に育てられ、夫ジョージさんと結婚後、8人(後に9人)の子を連れて、初めはウクライナで教会開拓、そしてカザフスタンで開拓をしました。ジョージさんが突然死で、家族を母親として養い育てる中で、また夫を失った中で与えられている神の愛を証しされました。

ブライアン・マクダニエルさんは、ぜひここに証しの要約を記したいと思いますが、普通の、平凡で熱心な伝道者なのですが、なんとハイチに聖書訓練センターを主が彼を用いて設立できた、聖霊に導かれることの偉大な奇跡を証ししてくださいました。その中で、大統領の片腕の側近が信仰を持っています!ハイチを変えた男と言っても過言ではありません。私はこの兄弟から、「御霊に服従するというへりくだりと弱さの中に、神の恵みが力強く働き、国そのものを動かす」という流れを感じ取ることができました。


(メッセージの後の祈りと賛美の様子。祈っているのがブライアンさん)

そして週末はコスタメサで過ごしました。去年お世話になったホスト・ファミリーに再びお世話になり、濃密な交わりのときを持ちました。そこの大学一年生のサム君がいわゆる「軍事オタク」で、本物のライフル銃とピストルを見せてもらいました。日本では、本物の「ラスト・サムライ」木村さんが武士道を語ってくださったように、アメリカ版の木村さんがこちらにもいます!

そして土曜日(7日)に、「宣教者の日」つまり、カルバリーチャペル・コスタメサの教会の人々が宣教師たちに会える日がありました。久しぶりに会えた人々、そして日本に熱い思いを持っている人々に会えました。


(写真は2000年に日本で子供伝道の奉仕に来てくれたテビー、11年来の再会です)

日曜日(8日)は、コスタメサで第一礼拝に出た後、アナハイムにある、私たちの長年の友人でもあるステーブンズ・オウ牧師のカルバリーチャペル・グレイスに行きました。そこの第一礼拝で英語で説教、そして第二礼拝では韓国語で説教しました。(後者の準備とても大変でしたが、ちゃんと意思疎通はできたようで安心しています。)救援活動の証しも交えて、生まれつきの盲人を直されたイエス様の情熱について語りました。

それから、夕方にコスタメサの教会で行なわれている宣教者のための祈り会に参加しました。ここがまさに、宣教の働きの発電所です。私が彼らのために出した祈りの要請は、ことごとく聞かれていきました。その感謝の思いをみなさんに分かち合いました。

そして夕拝です。牧者チャックが朝も夕も礼拝で御言葉を取り次いでくださいました。実は1月1日の日曜礼拝で、肺がんになったということを明かしていたので、心配していました。けれども予断は全然許さない状態です、ぜひ彼の体と家族のためにお祈りください。久しぶりに聞けた、彼を通しての神の御言葉が心に沁みました。

そして月・火(9‐10日)は、在米の日本人の方々に聖書セミナーを行ないました。ダニエル書1-7章から、主題は「終末に生きる主の証人」です。聖霊の励ましを大いに受けて、兄弟姉妹が大変喜んでいました。

メッセージは「ダニエル書」のところにあります。

月曜の晩には、10年近く続いている恒例の「長谷川さん夫婦、ジム&ジャン、明石夫婦」のディナー会を持ちました。同じ教会奉仕者、そして同じスクール・オブ・ミニストリーの仲間で、いつも本当に心温まる、励ましの交わりになっています。

私が不在の間、ジェレマイヤご家族がいらしたことの報告を、LCFの仲間とジェレマイヤさん本人から聞きました。ものすごく濃密な交わりと祈りの時間を持ったようで、本当に僕はこの教会が好きになりました!

明日、戻ります。どうか、無事に次週の礼拝の備えができるようお祈りください。

東松島とイスラエル

私たちロゴス・ミニストリー、また母体のカルバリーチャペルは、神がイスラエルという国に対して確かな計画を持っておられることを堅く信じています。その信仰は、私たちに特異なものではなく、主の弟子たちが抱いていた希望であり、主ご自身が予め語られたことです。

そして、実は48年にイスラエルが建国される前に、神が預言として与えられたという理由だけで、イスラエルの回復を祈り求めた人たちが少なからずいました。当時は、ブリタニカ百科事典でさえあまりにも非現実めいたこととして書き記しているほどで、狂信扱いされていたのです。けれども、この日本において、しかも霊的復興が進展している中でその祈りが捧げられたのは、ホーリネス教会の創始者、中田重治師によるものでした。

この聖書の字句をそのまま信じていく姿勢と、聖霊の力による宣教は、当時、天皇主義を強力に推進した国家弾圧の対象になりました。当時の特高(注:今の「公安」と同じ)の捜査は極めて優れており、ホーリネスの教会指導者らは、逮捕され、取調べを受けてもなぜ捕えられたのかよく分からなかった程でした。しかし、彼らの信仰体系、すなわちキリストが地上の王として君臨されること、そしてユダヤ人の救いと回復というのがまさに訴状だったのです。過去に三つの記事でこのことをまとめています。

何を予期すべきか 1
何を予期すべきか 2
靖国神社について その3

それを冷ややかに見ていたのは、当時の数多くのキリスト教会でした。彼らは、そうした信仰を敵国の米国から輸入されたものであり、過激、極端であるとして距離を置いたのです。けれどもそれは、自らの聖書信仰をなし崩しにするものでした。教会指導者は、法廷において「キリストの再臨というのは、心の中でキリストが王となることであり、霊的なものだ。」「キリストが既に紀元70年のエルサレム破壊で再臨したのだ。」と言って、使徒信条にももとる言い逃れをしたのです。(参照記事 )

話を戻しますと、中田重治師の説いた大衆伝道、その原動力となった切迫的再臨信仰と、聖霊体験は、一部に行き過ぎがあったものの、それらの教訓も含めて私たちには大いに学ぶべき所があります。(参照論文:「第35回 日本の教会」「ホーリネス・リバイバルとは何だったのか」)このような素晴しい遺産を、私たちは米国の霊的復興や神学の中のみならず日本国内で実に見出すことができ、慰めを得ることができます。

そして最近まで知らなかったのですが、中田師は巡回伝道を精力的に行っていた中で、再臨運動等の時期には松島にも立ち寄っています。(参照記事:ウィキペディア「中田重治」)そして、何と1932年には、奥松島の野蒜海岸にて、イスラエルの回復を祈ることを公に奨励していたとのことです。

四月から始まった東北救援旅行において、神は主に私たちのチームを東松島に導いてくださいました。第一回目は鳴瀬地区にある牛網に、そして二回目からは、仙台人が東京人にとっての湘南海岸のように、行楽地として親しんでいる、奥松島(野蒜&宮戸島)の月浜地区に導かれました。

そして、東日本大震災の3月11日の前日までの数日、私たちは沖縄のカルバリーを初訪問したのですが、その間、チャックさんと由美さんのお宅に泊まらせていただいたのですが、お二人が神様に呼ばれて、東松島に教会開拓の幻が与えられ、十月末に仙台に引っ越されました。

東松島市には、唯一、「宮城聖書教会」という教会があります。その教団はホーリネスの群れの一つである「基督聖協団」です。

その牧師、田中時雄さんのお誘いで、チャックさんと由美さんが11月20日に行われた野蒜海岸における祈り会に参加されたようです。イスラエルにいるユダヤ人教会指導者や宣教師の方々がいらっしゃいました。

Prayer Time on Nobiru Beach with Asia Messianic Forum 2011 (アジア・メシアニック・フォーラム2011 野蒜海岸で祈りの時を持ちました)

私は、東北地域にリバイバルが来ると予告はしませんが、これが主ご自身の情熱であることは強く信じています。なぜ津波の苦しみを負われているのか?その報いは何なのか?実に、神の惜しみない豊かな愛の注ぎと、キリストによる救いそのものが、罹災者の方々が受けておられる苦しみに対する報いであると信じています。イエス様は、九十九匹の羊を置いて、失われた一匹を捜されました。東北の被災地はその圧倒的な愛を受けるに実にふさわしいと思います。

「セカンドチャンス」は本当にあるのか

先週末、この冊子を購入し、ざっと読み終えました。


「セカンドチャンス」は本当にあるのか
●未信者の死後の救いをめぐって
ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社

ここで言っている「セカンドチャンス」は、人生で失敗した人がキリストの福音にとってやり直しができるという二度目のチャンス、という意味ではなく、副題のとおり「生前に福音を信じていなくても、死後にそれを聞いて信じ、救われる機会がある」という意味です。そして本書は、その論に対する反証を聖書から行なっています。

日本の伝道の現場では、極めて重要な問題です。このことに関連する記事を後日詳しく書けたらと思いますが、一読後の感想をここで述べます。

第一に、この議論は日本に始まったことではなく、既に米国に存在しているものです。「神の忍耐論(Divine Perseverance)」と呼ばれるそうです。セカンドチャンス論者は、西洋的キリスト教の対抗軸を作り出していますが、それよりも私は、この世界の底流が普遍的救済の方向であると感じています。

そして私の経験では、西洋との対立軸とも無関係であるように感じます。他の東洋の兄弟姉妹の国も同じように先祖供養が盛んですが、死んだ後の人の救いについて日本人のように悩むことはありません。家族の間でさえ、宗教に関しては「あなたはあなた、私は私」という区別ができています。

その他に、「包括主義論(Inclusivism)」というものがあります。これは、「仮に人がキリストについて知る機会がなかったとしても、自然界を通して与えられる光に応答し、造り主なる神を信じれば、その信仰のゆえに義とされる」とするものです。これは前回のエッセイ(教会から分離する人々)と前々回のエッセイ(神道を摂取する宣教)の中にも触れた議論にも関連することで、非常に興味を持ちました。福音という真理の体系を通さずして救われることの可能性を探る向きがあります。

その他「万民救済論」がありますが、これは信仰がなくても十字架の功績のゆえに救われるという教えです。

第二に、著者は本物にある輝きと力に触れています。輝きについては、自分たちが金だと思って集めた川底にあった光る物体を、町の宝石店に持って行ったら、そこにある金を見て、その輝きの圧倒的な違いに驚いた、という例話を書いています。

また力については、「福音の力が現れるのは、それが誤りなく伝えられた時です」と述べています。これには感動しました。私自身が、このことを信仰と伝道の努力の中で体験してきたからです。両親に対して、彼らが福音を受け入れなければ地獄に行くという考えは苦しみ悶えるほど辛いことでした。けれども、「福音の真理からぶれてはいけない、私が曲げて伝えたところで、私の知恵や力など、どうしようもなく陳腐なものだ」と思って、伝え続けました。二人は今、福音の真理からまったくぶれることなく、信仰生活を送ることができています。もし、私がその苦しみから脱却すべく異なる内容を伝えていたら、今頃どうなっていたであろうか?と思います。

また、日本に帰国後すぐ昨年末から新しく信仰を与えられた人々に対しても、心の中では涙を流しながら、それでも「福音を受け入れることなくして死んだのであれば、天に入ることはない」という教えを伝えました。けれども、それぞれの方が課題を克服して、生ける神の栄光と恵みの中に浴しておられます。ここでも、もし私が少しでも歪めて語っていたらどうなっていたことだろうと、思います。

どんなに自分が辛かろうが、自分ではなく純粋に「福音にのみ力」があるのだということを少しずつですが実感しています。

そして混ぜ物なしの福音こそが輝いています。創世記から黙示録まで順番に、飛ばすことなく読み進めると、そこに流れる神の栄光に浴するには、膨大に啓示されている、神に対する申し開き、そして死後における裁きという定め、ゆえにそこから救おうとする神の熱情と涙、その熾烈な愛を私たちは感じ取っています。セカンドチャンス論や包括主義論に流れる「日本人に救いを」という情熱は凄いですが、そこにある火は主からのものとは異なったものを感じます。

第三に、私は最後に著者が触れておられる、宣教師の話には男涙を流しました。未開の地で、たった一人の物売り少年にしか福音を伝える機会がなかった。そして娘が生まれたが妻はマラリヤで死んだ。そして本人は、その娘をもう一組の宣教師夫婦に託して、自分は神を呪い帰国しました。ところが、五十年も経ったときに、その娘が、その未開地には立派な学校が建てられ、600名はみなクリスチャン、村長もクリスチャンになり、自分の教団を作り、十万人の信者がいる、という記事を読みました。その創立者をキリストに導いたのは、自分の生みの母親だったのです。

そのことを伝えに、生みの父を探しにいきました。彼はすでに再婚し子供たちもいましたが、「神の名をこの家では決して発してはならない」という掟を作っていたそうです。けれども彼女は、この話を伝えました。彼女が神の名を出すと彼の体は硬直しましたが、続けてその知らせを告げると、「その堅くなっていた体はだんだんほぐれてきました。彼は五十年ぶりに、神に対して心を開き、悔い改めました。そして、その数週間後に、天に召されたのです。」

五十年も堅く心を閉ざしていたこの男に、神は十万人の信者という知らせをもって、憐れみを示し、悔い改めに導いてくださったのです。私も、この宣教師と同じようになってもおかしくない愚かな者だと思っています。けれども、神はこれほどまでに真実な方なのです!

私は今の時代の人々は、「自分の悟り(理解) 対 神の摂理と主権」という相克の中に生きていると思います。どちらに流されるのか、という問いかけが私たちに迫ってきます。

神道を摂取する宣教?

昨日は、カリフォルニアから日本に訪問されている、カルバリーチャペル・コスタメサに長年通っておられる旧知のご夫婦が恵比寿バイブルスタディにいらっしゃいました。他のメンバーと一緒に、有意義な語り合いの時を持つことができました。日本に来るたびに感じるのは、霊的土壌の堅さだそうです。それがどのようにして砕かれるのかは、全ての人が抱いている課題であり疑問でしょう。

そこでその方策として、一般の日本人に受け入れられやすい宣教を考えてのことでしょう、神道の儀式の中で福音を伝えようとする記事を見ました。神道にユダヤ教やキリスト教のルーツがある、という探求はキリスト教会で流行になっているので、その危険性をエッセイにしたためました。興味のある方は一読ください。

神道を摂取する宣教?

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その2

その1の続き)

私たちは2005年から2010年まで、日本でもなくアメリカでもない他の国に住んでいましたが、三ヶ月後に震災に遭い、その後の日本がかつていたその国に少しにかよったことに気づきました。

一つは、1)の「正常性バイアス」に関連することですが、「予期せぬことが起こる」に慣れていました。最近、自宅の前で水道管工事がありましたが、ポストにその工事の予定を告知する用紙が投函されていました。これは私たちがいたところでは皆無です。抜き打ち工事であり、マンションの住民のことは一切考慮されず、その出入り口を塞いだりすることは当たり前で、すぐそばで突貫工事を真夜中に行なっていることもありました。

その他、卑近な例ですと、歩道だと思っている所に自動車が突然走ってきたり、二メートル先の所で建物の工事現場から燃えている火の鉄の塊が落ちてきたりと、常に「予期せぬ」ことでいっぱいでした。

けれども、そこですぐに感謝できたのは、「その分、余計に神に拠り頼みやすくなった。」ということです。今日の安全は、祈りと共に始まり、祈りつつ与えられていました。自分が生きていることを、こじつけではなく、真実に、素直に「神の守り」であることが実感できました。

その反面、日本は前もって「変化」を伝えるという計画性を持っています。東電の「計画停電」というのはその典型例です。しかし、それは生活基盤の安定した先進国だからこそできることであり、この発展も神の恵みで与えられているということを人々は無視しています。あたかも、家を煉瓦で作り、そこに瀝青(アスファルト)で塗り固めたバベルの住民のようです(創世記10章参照)。

しかし、津波は、自然の威力の前では人の築いた物が無力であることを教えました。それでも私たちは、今でも「自分にはこれらの災いが起こらない」という錯覚を持ちながら生きているのです。災害心理のみならず、霊的にも錯覚した状態で生きています。

次の2)「愛他行動」を考えてみます。この行動は一見美談に聞こえますが、実は悲劇です。真実は、「津波てんでんこ」なのです。意味は次のとおりです。

「てんでんこ」は「手に手に」に接尾辞「こ」が付いたこの地方の方言で、「てんでんばらばらに」という意味。「津波が来たら、肉親に構わず、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」がこの伝承の本来の意味である。津波は到達速度が速く、肉親等に構っていると逃げ遅れて共倒れになってしまうため、「一族を存続させるためにも、自分一人だけでもとにかく早く高台へと逃げよ」という意味があり、また「自分の命は自分で守れ」とも含意しているとされる。また、自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない、不文律にもなっている。(Wikipediaの説明)

日本の人々は、「みなが一緒に生きていく」という優れた国民性を持っています。我先に行動することは醜いとして見下げます。けれども、それには自然の脅威やその他の危機においては通用しないことを今回の津波は教えています。「自分の命は自分で守る」という責任を果たさなければ、家族や共同体さえも失われてしまうという人間生存の原理があるのです。

私たちが、他国の人たちにも福音宣教をしている中で、日本人に特有だと気づくのは、「福音を知らないで死んでしまった家族の人は地獄に行ったのですか?」という質問です。日本人には「これは人間なら全ての人が抱く質問ではないか」と思うでしょうが、彼らは疑問として抱くことはすれ、信仰上の悩みとまではなっていません。家族の間でも、「あなたはあなた、私は私」という自己が確立されています。

けれども、日本においては、初めてキリスト教を布教したカトリック宣教師ザビエルでさえ、受けた質問であり、日本人がいかに「永遠の命」という個々人の問題に対しても、他者と一緒に救われなかったらいたたまれない、という負い目を持って生きているかがよく分かります。

自分自身が救われる、ということついて、「自分が家族の中でどう思われるのか」「先祖の墓はどうすればよいのか」などの心配によって、信仰の決断を後回しにするときに、自分の命を失うばかりか、その家族の命をも死に至らせるということを知らなければいけないのです。「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 (ローマ14:12)」

そして、家族を救うことはできるのは、初めに自分が救われてから、次に、ようやく神の憐れみによって与えられるものなのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)」あくまでも「自分の救い」を考えなければ、自然界だけでなく、罪から来る罰においても、災いを免れることはできません。

そして3)の「同調バイアス」についても、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という考えが日本人の中に横たわっています。真実は、「赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ」なのです!他の人々と異なる行動を取るのを私たちはひどく嫌います。けれども、真理というのは、多くの場合、他の多くの人々と異なる道を選び取ることなのです。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)」

さらに4)の「エキスパート・エラー」について言うならば、これは自分の判断を放棄しているところから来ています。これはまじめな人ほど陥りやすい過ちです。自分で判断することこそが、災害時においての行動基準であることは、防災の専門家の多くが指摘していますが、同じことが霊的識別にも言えます。私たちは、人の与えた規則や意向ではなく、神が与えられた御霊に導かれるという責任があるのです。

日本は極めて、規則正しい国です。法治国家であることはもちろんのこと、マニュアルや行動基準が極めて発達している社会であり、人々もそれにしたがって生きていこうとします。けれども、私たちがいたところでは、その正反対でした。規則というのは単なる“標語”です。実際、守ろうとすればこれほど理不尽なものはないと思われるものばかりなので、守る気にもなれないというのが現状です。

被災地がある程度、そのような状況になりました。マスコミの情報や、役所の規則だけを聞いていれば、「被災地では何の救援活動もしなくてよい」という結論に至ります。私たちの救援活動の第一回目は、石巻を目指していましたが、その途中、被災して掃除と修理をしていた「サンクス」に、「もしかして、この地域は救援物資が必要なのでは?」と何となく感じて、入って聞いてみた、というのが始まりです。二回目には、その直前に、近くの韓国人教会で私が説教奉仕をしていたときに、たまたま東松島の被災者の人と出会って、その方の被災した家の写真を撮ってきましょうか、というのが始まりでした。

そのずっと後、数ヵ月後に、東松島市の方にボランティア活動をしていることを告げました。本当は役所を通さなければいけなかったのですが、私が既に行っている活動と、現地の人たちと直で行なっている旨を話したところ、すんなり、その後の活動も許可等を与えてくださいました。

被災地は、その場その場で決めていかなければいけないこと、そして決まり事ではなく、人と人とのつながりで広げられるものが沢山あります。これは主との関係においても同じであり、律法ではなく御霊の導きにしたがうこと、そして、プロジェクトではなく、人々との神の愛のつながりが霊的奉仕であります。

以前の記事「21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる」の筆者は、次の言葉で文章を締めくくっています。「日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。」

今の日本の危機は、神が働かれる契機なのかもしれないのです!

その3に続く)