「神の会議」超自然の世界

 非常に、興味深い話が、聖書プロジェクト(Bible Project)で始まりました。それは、「超自然の世界」シリーズです。聖書は、私たちが目にしている世界だけでなく、目に見えない霊的な世界を描き、霊的な世界から、聖書全体に貫かれている、神の贖い(救い)のご計画を描いています。

  組織神学の世界では、「天使論」と呼ばれる領域に入るでしょう。けれども、そういった枠組みでは収まらない、非常に興味深い聖書研究をしている旧約聖書学者がいます。マイケル・ハイザー(Michael S. Heiser)という方です。彼は、詩篇82篇の箇所から、従来の神々(エロヒム)の考え方を変えるような、けれども聖書釈義においては一貫性をもった論を展開させています。

 神(エロヒム)はただ唯一であり、神々(エロヒム)と呼ばれているものは、偶像であり存在しないというのが従来の考え方でした。けれども、以下の箇所にあるように、明らかにエロヒムというのが、あくまでも「肩書き」であって、唯一神のことだけを指しているのではないのだということです。

「詩篇82:1 神は神の会議の中に立ち神々のただ中でさばきを下す。続きを読む 「神の会議」超自然の世界

日本のテレビ局がソドム遺跡を紹介

今、日本のメディアで、ヨルダンでの遺跡がソドムの滅亡のことではないか?というニュースが出て来ていますね。朝日系が報道しています。

「天の火」で滅亡した都市ソドムか? 中東の遺跡に隕石爆発の痕跡

https://youtu.be/Kg7xbgF3zlI

聖書の参考書では、ソドムは死海の東南部分にソドムがあったのではないか?というようになっています。いわゆる「ロトの妻の柱」と呼ばれているのは、死海の南の沿岸部分にある柱状になっているものですね。

けれども、福音派の神学校「トリニティ・サウスウェスト大学」のスティーブン・コリンズ(Steven Collins)教授が、死海の北東部にある遺跡「タル・エル・ハマン(Tall el Hammam)」が、ソドムではないかとして、ヨルダンの考古学庁の協力でこのプロジェクトを2005年から始めています。

公式サイト:Tall el-Hammam Excavation Project

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The Search for Sodom & Gomorrah

朝日新聞の記事には、科学誌へのリンク先がありますが、こちらですね。
A Tunguska sized airburst destroyed Tall el‑Hammam a Middle Bronze Age city in the Jordan Valley near the Dead Sea

日本語で詳しい記事がありました。「約3600年前に隕石落下による大爆発で大都市が丸ごと吹っ飛んで滅んでいたと判明、「ソドムとゴモラ」のモデルか?

コリンズ教授は聖書信仰を堅く保っている方で、かつ考古学者ですので、彼の主催するヨルダン旅行にぜひ行きたいと思っていましたが、まだ、かなっていません。(ヨルダン旅行記

しかし、私の師匠的存在でもある、牧者ジェイ・マッカールさんは、ヨルダン旅行をする時は、コリンズ教授の発見に基づいて、必ずここに連れて行きます。

ここでの考古学発見が、まさかこのような形で朝日系のメディアで紹介されるとは思っていませんでした。この発見は、ややもすると眉唾と揶揄される、保守的な福音派の聖書信仰を持っている人々によって発見されたところですから、今回のニュースは、そこがすごいと思いました。

ちなみにイスラエル側のネゲブ沙漠には、イスラエルにしかない「マクテシュ」という渓谷があります。これが、上から見ると、まるで隕石が走っていったかのような跡になっています。なんでこんな地形が形成されたのか、進化論的な説明がイスラエルの公式見解ですが、ソドムとゴモラに向かって、隕石が走って行った時に跡ではないか?とも想像できるわけです。(イスラエル旅行記

患難前携挙論者の見る、自説の問題

(フェイスブックに7月16日に投稿)

説の正しさの議論ではなく、それを伝えている人々にある過ち

 興味深いです。書いたご本人は、患難前携挙を信じている人です。ここで焦点を当てているのは、患難前携挙説の間違いではなく、それを伝えている人々にある過ちです。

 いわゆる「預言が外れた」ということで落胆する人たちが多いということ。それは、預言について熱狂し始めて、必要以上に「読み込み」を行い、イスラエルの回復など、すでに成就した預言に注目するのではなく、起こり得るシナリオに注目をしすぎて、再臨の時期を特定してしまう過ちです。主ご自身も、分からないと言われたのに。 続きを読む 患難前携挙論者の見る、自説の問題

Bible Projectのすばらしさと注意点

(3月5日のフェイスブックの投稿です)

聖書プロジェクト BibleProject – Japanese

 今はSNSの時代、すべてのことが短く端的にまとめられていることが問われている時代になっています。その中で、聖書全体で何が語られているのか?をアニメーションと共に説明するBible Projectは、非常に優れた教材です。昨日も、教会で次からローマ人への手紙の講解に入るので、ローマ人への手紙の2つの動画を観ました。

 ただ、一つの不安がよぎりました。「じっくり聖書を自分で読んだ人には、整理するのに有益だが、その逆であってはいけない。」ということです。つまり、この動画を見て、それでその解説に沿って聖書を読み、それこそが聖書の教えていることなのだと同一視する危険もあるからです。

 全体の流れを把握する時も、その把握している人によって、視点が少しずつ変わってきます。ローマ人への手紙の二つの動画も、とても分かりやすく、気づかされた点が多くありましたが、「ここは、ちょっと?」と思われる部分もわずかにありました。当然ながら、作成者の聖書理解の枠組みが影響されています。

 それで、ある人は批判をし、またある人はこれを信じ込んでしまい、他の読み方をする人々を裁いてしまいます。元々の問題がなおざりにされており、それは、「聖書を自分自身で読んで、悩みつつ、求め続ける」という姿勢の欠如だからです。 続きを読む Bible Projectのすばらしさと注意点

終わりの日:「だれも知りません」とは「いつ来てもおかしくない」

「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。」という御言葉は、「いつ来るか分からないから気にしなくていいや!」ではなく、「いつ来てもおかしくないから、いつも準備を!」ということ

(フェイスブック投稿からの転載)

 終わりの時について、しばしば、「20年前も、30年前も、同じことを話していて、何も起こっていないではないか?」という意見をしばしば耳にします。私は、そこに一つの時間の捉え方の誤りがあるのではないかと思います。その一方で、一昨日(2月13日夜)のような大きな地震が起こると、そういった時だけ、世の終わりが近いと盛り上がる傾向もあります。

 時間的な計測で終わりが近いかどうかを測るのは、ちょうど、自分が崖っぷちにどれだけ近づいているのか?という見方だと思います。聖書の「終わりの時」は、そうではなく、崖っぷちに並行で歩いていて、「いつでも終わりが来る」という切迫感の中で私たちが生きるように命じられているのではないでしょうか?

 だから、主が来られてからも「終わりの時」(ヘブル1:2)であるし、使徒たちも自分たちの生きている時に終わりが来ることを前提に教えていたし、私たちも今が終わりの時だとして生きるのだと思います。「終わりの時」という、永遠の神によって定められた時を、私たちは「並行して歩いている」と理解しています。

 実に、「終わりの日」という言葉が始めに出て来るのは、初めの書、創世記なのです。ヤコブが臨終のときに、12人の息子に対して、それぞれの部族に起こることを語りました(49:1)。この時からすでに、神を信じる者たちは、終わりを意識して生きるように命じられていました。 続きを読む 終わりの日:「だれも知りません」とは「いつ来てもおかしくない」

感染症対策「森を見る」思考を

 今も現在進行中の世界中でのコロナ対策ですが、ずっと世界で不思議がられているのは、欧米とアジアまたアフリカ諸国での圧倒的な、感染者・死亡者の割合の違いです。BCGのおかげなのか、日本では衛生意識が高いのか、とか、いろいろ言われていますが、私自身はキリスト者なので、その信仰をもって眺めていた面があり、感染症専門家の言葉には、当然、傾聴しなければいけないと思っていました。

 以下の記事が、まさに、自分の感じていたことが、日本人の感染症専門家の見立てと合致していたので、驚いている次第です。

『感染症対策「森を見る」思考を ― 何が日本と欧米を分けたのか ―』巻頭インタビュー 押谷仁『感染症対策「森を見る」思考を ― 何が日本と欧米を分けたのか ―』巻頭インタビュー 押谷仁
(雑誌「外交Vol.61 May/Jun.2020)

 ぜひ本文全体を読んでいただきたいのですが、題名にもなっている「森を見る」とはどういうものか?欧米諸国の場合は、感染者周辺の接触者を徹底的に検査して、新たな感染者を見つけ出すことで、ウイルスを一つ一つ「叩く」ことに力を入れてきました。そのやり方と日本を比較するので、欧米だけでなく日本国内からも、日本の対策に甘さを厳しく批判する人たちが多かったです。欧米在住、また欧米と関わりのある日本人はその傾向が強く、在日の欧米人にも、とてつもない不安を抱いている人たちが多かったように思われます。

 しかし傾向として、アジアまたアフリカの国々が総じて感染者・死亡者数共に少ないです。一見、まとまりのない、不備の多そうな印象のあるこれらの国々で、むしろ感染拡大の抑制に比較的、成果を上げています。押谷教授は、「私は、これまで世界をリードしてきた欧米流の社会のあり方、そして世界のあり方が、大きく問われているような気がしています。」と話しています。そしてこう論じています。 続きを読む 感染症対策「森を見る」思考を

キリスト以外のアイデンティティー

ヘブル文化を知らないと、聖書を理解できない?

 「ヘブル的解釈」を軸に教会の中で運動をしている人々がいます。その運動体の中にいる人々全員がそうだということではなく、一定の距離を置いて、聖書理解の助けとして活用している方々が多くいます。その一方で、深く関わっていて人々の間には、数多くの問題を教会に起こしています。一言でいうと、「分派」です。

 私の友人の牧師が、以下のように理解しています。

日本の多くの教会が聖書のいうイスラエルを単にクリスチャンと置き換えた『置換神学』となってしまい、時間軸を忘れて、いつしか聖書の教えが道徳や理念のように受け取られる間違いを打破しようとして、既存の教会に通う信徒たちに聖書が言うイスラエルを教えた。

当然彼らが毎週彼らの所属する教会で聞く聖書のメッセージとは異なる。日本のクリスチャンを、日本の教会を内側から変えないと本当の福音宣教はないという理念で、既存の『置換神学』打破のために「ヘブル的聖書解釈」という視点を強調し、今度その「ヘブル的聖書解釈」がアイデンティティになった。

① 既存の教会内に『こっちがホントウだ』という分派を作った。
② 知識を得たクリスチャンが勘違いした。1コリント8:1
③ 既存の教会内に分派ができることを正当化するために、地域教会ではなく「普遍教会」こそが本来の教会だと言って地域教会軽視が生まれた。
https://twitter.com/Santou/status/1263304675551399947

 「分派」は、肉の行いであり(ガラテヤ5:20)、除名しなければいけない罪として数えられています(テトス3:10)。パウロは、分裂をもたらす者に警戒しなさい、遠ざかりなさいと教えました(ローマ16:17)。 続きを読む キリスト以外のアイデンティティー

“いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?

 キリスト教会には、主が来られ、空中にまで天から降りてこられ、教会の者たちが引き上げられること(携挙)について、また、神が御怒りを災いによって地上に表される患難が襲う前に引き上げられることについて、いろいろな批判があります。その一方で、この患難前の携挙説の正しさを強く主張しているグループもあり、両極に別れている感じです。

 私は、神が、世の終わりに、これまでの積み上げられた地上の悪に対して、御怒りを現わす時が定められていると信じています。そして、キリスト者は神の御怒りから救われることが約束されており、また、いつ主が来られても、思いもよらない時に来られる切迫したものだということから、患難期の前の携挙を信じています。

 しかし、ここで大事なのは、いつ携挙が来るのか?ということに焦点を合わせるのではなく、「なぜ主が教会にために戻って来られるのか?」ということを考えたいと思います。

御怒りからの救い

 一つに神の、ご自身の御怒りからの救いがあるでしょう。世からの患難は、悪魔から来ています。キリスト者は、その患難や困難の中に置かれて生きています。しかし、いつまでもそのままにはしておかれません、主は悪に対して悪で報いる公正な方です。テサロニケ第二1章を見れば、苦しむ者に対して、苦しみを与える目的で、神ご自身が下す患難があり、主が地上に戻られる時には、福音に従わない者たちに対する裁きがあることを宣べています。 続きを読む “いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?

「私は、旧約聖書があるからキリスト者なのです。」

ジョン・マッカーサー牧師が保守論客ベン・シャピロ氏の番組で福音を語る(47:22から)

ベン・シャピロという、アメリカでは政治保守派の若手の論客としてよく知られた人がいます。彼は、The Daily Wireの編集長をしています。彼のもう一つの側面は、ユダヤ教正統派ということです。保守論客でユダヤ教徒で有名なのは、Prager Universityデニス・プレーガー氏です(ある動画を日本語で紹紹介)。お二人にとても好感を持てるのは、米国が確かにユダヤ・キリスト教の伝統と価値観に基づいている国であるとして受け入れており、福音派教会に対して、一定の尊敬を持っていることです。

 しばしば、ユダヤ人たちの間に、過去のキリスト教の反ユダヤ主義の歴史があり、今も悲しいことに厳然として存在していますから、「イエス」や「キリスト教」の話をすれば、「あなたはそれを信じる自由があるが、ユダヤ人には関係がない」として抵抗します。しかし福音派の人たちは、「イエスを信じなくとも、あなたは神のかたちに造られた尊い、愛された存在ですよ」という深い確信を持っています。お二人はどちらもそのことを知っています。信じなかったら、あなたには価値がないかのように決してみなさないことを、お二人はご存知です。(関連ブログ記事続きを読む 「私は、旧約聖書があるからキリスト者なのです。」

終わりの日に向った一致

「マラナサ」(主よ、来てください)は、一つとされた者たちの希望

 8月12-14日に参加した、マラナサ・バイブル・フェローシップのキャンプの報告です。

2019年8月12~14日 富士山麓山の村

そのテーマである「キリストの再臨」から、以下のことをある牧者が語ってくださいました。

 エペソ5章21節以降から、再臨のキリストを待つ教会を、花婿を待つ花嫁の姿として描かれているところから話しました。そこで大事なのは、ここの「花嫁」というのが、私たちは自分個人に当てはめて、自分個人が来るキリストを恋い慕い、花嫁のように待つことで適用しますが、文脈としては、キリストにあって一体となった教会として待ち望んでいるということです。 続きを読む 終わりの日に向った一致