昨日、ある姉妹たちと食事会、兼、祈り会で、たくさん良い交わりを持ちました。
その中のお一人に救いの証しをお願いしたのですが、彼女はアメリカで救われて日本に戻って信仰生活を継続しました。けれども、その時に、日本の教会とそのキリスト教用語の違和感について話しておられました。
例えば「御霊(みたま)」。なんで「ザ・スピリット(the Spirit)」が、神道的な御霊という言葉になってしまうのか?・・などです。
そこで私自身アメリカで神学教育を受けたので、日本に帰ってからの課題について分かち合いました。日本語の中で据わらない、これら聖書用語やキリスト教用語をどう使うべきか、についてです。
ある学者は「神」という翻訳は間違っていた。その為に日本人にGodが伝わらなかった、として新しい用語「創主」という言葉に変えて聖書を説明しています。
そして、またある人たちは、そのままカタカナ語にして説明します。「聖書ではなく」「バイブル」と、牧師ではなく「パスター」、「交わり」ではなく「フェローシップ」、そしてイエスが「ジーザス」と英語読みしているのも聞いたことがあります。また、呼称として日本人信者が「イエス様」と呼ぶのも嫌って、「イエス」と言い続けるのも聞いたことがあります。
それで、私はその、「神」という翻訳が失敗であったという主張の反論として書いた本を読みました。確か櫻井圀郎氏の「異教世界のキリスト教」だったかと思います。
そこで確か次のようなことが書かれていました。
1)「神(God)」を表す、ヘブル語の「エロヒム」、ギリシヤ語の「セオス」のどちらも、当時の偶像の神々に対しても使われている言葉であった。
2)当時の人々が信じている神々と呼ばれる中で、神は、ご自身を「わたしこそが神である」と顕示して、その対比と優位性を行なわれていた。
これは、私にとっては大きな洞察でした。よくよく考えると、イスラエルの神以外の諸国は、すべてが偶像を持っていたのです。出エジプト記で、十の災いは、災いを受けた「神々」よりも、「わたしがヤハウェであり、わたしこそが神である。」ことを示すためであり、エジプトは日本をはるかに上回る偶像の国でした。そして西洋のGodも同じく、当時のギリシヤ・ローマ世界は偶像だらけでした。
その中で、モーセは「しるしと不思議」を持って、また使徒パウロは、論証また同じく奇跡によって、この方こそまことの神であることを証ししたのです。
だから、分かってきたのは、私が信じている方は「宣教の神」だ、ということです。その土地にある文化や言語の中で、ご自身を現す方を私たちは信じているのだ、ということです。
いくら日本の土壌の中でGod(神)、love(愛)、その他の言葉が据わらなくても、どの国も福音が伝えられるときに、この違和感の中で論証と弁明、そして時に奇跡などの力の現れを通して、福音が根付いて行ったのだ。「翻訳のせいだ」というのは言い訳にしか過ぎないと分かってきました。
だから私が聖書の説き明かしをする時も、なるべくカタカナ語を使わないように意識しています。その用語が日本語の中で据わらなければ、ただ説明すればよいだけの話です。特に初心者には、創世記1章を始めとした創造の働きを説明すれば、この「神」と、伝統的に日本で使われている「神」の違いを浮き彫りにすることができます。
いや、むしろ「八百万の神々」を意識して、それらを捨てることによって、「まことの生ける神」に立ち返ることができることを、はっきりと知ることができます。
ですから私たちキリスト者は、「弁証」する義務を負っているのだ、ということが分かってきました。あるいは「証言」する使命です。説明また論証を通して、また生活という生きた証しを通して、この神を現していきます。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(ペテロの手紙第一3:15) 」