ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス

(フェイスブック4月28日に掲載)

ネット礼拝・ネット信仰生活の是非をガチで考えてみた⑤「ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス」

 

ちょっと牧師さん向けの内容になってしまいますが、でも、すべてのクリスチャンに考えられる内容になります。ネット礼拝において、大きな誘惑は、まさに、ヨハネ第一に最も明確に書かれている、反キリストの霊、グノーシス主義です。齋藤牧師は、これをガチで語ってくださっていて、私も強く感じていた部分です。

あるところで、私はこう書いていました。「けれども、オンラインでいくら顔を合わせても補うことのできない、直で交わることが、主の命令であり、聖書に書かれていることであり、そうでなければ、イエス様は「仮現」しても、肉体を取られる必要はなかったのです。「仮現」は、まさにグノーシス主義者の主張でした。最近のデジタル礼拝が、生身の人間が会って礼拝しないことが通常のこととなれば、そうした異端の霊の中に引きずられていってしまうことでしょう。」 続きを読む ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス

「神ではない、我々が」

(4月18日、フェイスブックに投稿)

ニューヨークのクオモ知事:
「数は減った、それは我々が減らしたからだ。
 神がしたのではない。
 信仰によってでもない。」

 いわゆる「神頼み」ではなく、必死の努力によって減らしたのだ、努力を怠れば、また増加する、ということを言わんとしたのだと思います。しかし、だからこそ、その「善意」の中に、巧妙に、悪魔が働いています。

 人がウイルスを制圧しているのだと。為政者も、専門家も、目の前のウイルス感染と戦っていて、あたかも我こそはウイルスをとっちめるという幻想の中に陥っているのです。そしてそれが、国民全体、世界全体を覆っている、というのが世界の流れです。これ、聖書に預言されているのです、「獣の国」です。ダニエル7章、そして黙示録13章です。 続きを読む 「神ではない、我々が」

霊的コロナ対策のほうが教会の使命

(4月2日にフェイスブックに投稿)

 今、専門家会議の記者会見、また安倍首相の政府対策会議のどちらも見ました。また午前中は、ズームによってアジア地域に遣わされているカルバリーの宣教師たちが、デボーションと分かち合いと祈りの時を持ち、教会の人々とは毎日、ズームで祈りを持っています。

 そういったことから強く感じるのは、「コロナ対策に教会が吸い込まれている」という危惧です。コロナというウィルスへの対策は、私たちの体にとって大切ですが、霊について、警戒と対策が必要なのに、そちらのほうは、おざなりにされている感じがします。

 そう感じるのは、山中伸弥先生の語られる言葉から、ヒントを得たからです。

新型コロナウイルスとの闘いは短距離走ではありません。1年は続く可能性のある長いマラソンです。日本は2月末の安倍首相の号令により多くの国に先駆けてスタートダッシュを切りました。しかし最近、急速にペースダウンしています。このままでは、感染が一気に広がり、医療崩壊や社会混乱が生じる恐れがあります。一人一人が、それぞれの家庭や仕事の状況に応じた最速ペースで走り続ける必要があります。国民の賢い判断と行動が求められています。

長距離走なのに、短距離のように走っている

 短距離走ではなく、長距離走であるのに、全速で走っている感じがします。早く走らないといけない時は走るのですが、その目標地点を見据えることなく走っているので、必ず息切れします。山中先生はこうも言われています。 続きを読む 霊的コロナ対策のほうが教会の使命

コロナウイルスに対する霊的対処は悔い改め

愛し合うのではなく、裁いてきたことへの悔い改め

あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるからです。(マタイ7:2)」

 本当に、裁かなければいけないことってありますが、しばしば、裁いている時、まさにその裁いている根拠が本人にそのまま当てはまることが多いです。

 ある教会運動が教会に与えられた権威を逸脱していると警鐘を鳴らす人が、諸教会の上に自分は権威を持っているかごとく横暴にふるまって、声にも出せず傷ついている人々が大勢います。また、ある動きが、神の栄光を人間のレベルに引き下ろすと言いながら、実は、神をあがめている人々を、人間的な思いに満たし、言い争いのレベルに引き下ろしています。

 今朝、あるクリスチャンから「毒麦」(マタイ13章24節以降)について尋ねられました。それは、自分の中に罪があることを意味しません。そうであれば、すべての人が毒麦になってしまいます。

 毒麦は、神の憐れみによって立っている教会またその聖徒たちを、「あなたはそれではだめだ」として貶め、神の恵みではなく、何らかの霊的状態にいなければいけないとして、焦らせ、罪意識を持たせ、何かを行わないと義に到達しないと急き立てるものであり、他者の意見をうんも言わせず、自分の言っていることこそが神からのものだとして正しいと主張しているものです。「教会に毒麦がある」と言いながら、自分自身が毒麦になってしまっていることに気づきません。

批判ではなく、「執り成し」を!

 それから、ローマ13章に言及、上の権威は神からのものだから、政治家のために祈るべきだ。適切な批判はしかるべきですが、自分がたとえ好きでなくとも、祈るべきだ、とのことです。

霊的なコロナ対策 - 短距離走でなく長距離走を

(3月21日のフェイスブック投稿)

この言葉は示唆に富みます。

「新型コロナウイルスとの闘いを「短距離走ではなく、1年は続く可能性のある長いマラソン」と表現。「疲れたり油断して止まってしまうと、感染が一気に広がり、医療崩壊や社会混乱が生じます。一人一人が、それぞれの家庭や仕事の状況に応じたペースで走り続ける必要があります」などとメッセージを記した。」

山中教授、コロナのHP開設 闘いは「長いマラソン」
山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

教会は、礼拝や集会で、もはやコロナ対策で多くの時間や神経を使ってはいけないと感じています。しなければいけないことは、ほぼ固まっています。手洗い、換気などです。今、心配するのは、委縮して、必要以上に気を使い過ぎて、教会が本来しなければいけないこと、また今だからこそ行いなさいと命じられてることを、おろそかにしてしまわないか?と感じています。

もっともっと、「私はこうやって主との交わりができた」という証し、ある程度の制限の中にあっても、制限の中で与えられた新たなアイディアなど、そういったことを分かち合っていくべきではないか?と感じます。

例えば、うちの教会では、聖書の体系的な学びをしっかりとできるようになったという方がおられました。中国の家の教会も、多くのクリスチャンが聖書を読む時間が増えたらしいです。アメリカでは、オンライン礼拝や集会で、これまで御言葉に触れたことが全くなかった人々がアクセスするようになった、とか。

それから交わりを教会堂の中で持たなくとも、外に出て、自然に触れながら交わることも、暖かくなってきたのでできますし。

そして、医師で牧師の方によると、聖餐式を止める必要はないという意見を読みました。これは教会にとって死活的な礼典です。私たちの教会では、自分がパンを裂く時、直前に消毒液を手指に付けて予防しています。

あまり極端な対策をすると、ちょうど長距離走なのに、初めに全力を出して、途中で断念するようなことになってしまいます。これこそが危険です。持続的な緊張感で臨むべきであり、騒いでいる時間はありません。

私は、日本政府の出すコロナ対策が、このような長距離走のための対策、つまり、全面的な封鎖のような極端なことではなく、クラスター対策など、ピンポイントで封じ込め、最低限の経済活動や社会活動ができるようにさせている方針なので、神の憐れみを感じています。

霊的ウィルスへの警戒を

(3月14日にフェイスブックに掲載)

FBのタイムラインでは、「コロナが来たからトイレットペーパーを買ってパニックしてるが、イエス様が戻ってこられるのに、何もしてない。」であるとか、「コロナを警戒するのと同じように、なぜ罪を警戒しないのか?」という投稿などが目立つようになりました。

まさにその通りで、教会に対して、神は霊的なウィルスの感染を強く警戒するように教えておられます。それは、「全き愛が恐れをしめだす」「私たちが受けたのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です」ということなのに、「恐れ」「疑い」に囚われるようになるウィルスです。そして、それは他の人々に感染します。

原発事故後も同じことが起こりました。放射能で死んだ人はいません、けれども、恐れによって自殺した人もいますし、病気を患った人、離婚した人などがいました。そして教会の人でさえも、放射能への恐れのために、のめり込み、それに囚われて行った人々が出てきました。

今、ウィルスよりも、もっともっと警戒すべきは、心の内から出てくる汚れです。イエス様は、外からのものは排泄されるが、内側からのものが私たちを汚すと仰ったとおりです。

目を覚まして、上からの賜物、神の知識、平和や喜び、愛、これら諸々の良き賜物に満たされるよう、祈っていきましょう!

シェア元の投稿は、水谷潔牧師の書いたもので、「悪魔の格言」という本を執筆されましたが、CSルイスの「悪魔の手紙」の発想で、ユーモアに満ちた言葉で、霊の戦いの現実を描いてくださっています。彼のFBに行けば、他にもいろいろな投稿があります。

書評「キリスト教の“はじまり” 古代教会史入門」

 2018年にクリスチャン新聞で、吉田隆氏による「古代教会に学ぶ 異教社会のキリスト教」という連載記事があった時に、私は食い入るように読み始めました。

新連載「 古代教会に学ぶ 異教社会のキリスト教」第1回 “これからの日本の教会”のために

 本書は、その内容をまとめただけでなく、詳細に注釈や図解、写真、参照文献を加えて、本題の通り、「古代教会史入門」の体裁となっています。

本書サイト1(いのちのことば社)

本書サイト2(アマゾン)

書評「信仰告白の重要性を現代に問う書

トルコ訪問は「ローマ」を辿ること

 ここに書かれている内容は、私がトルコ旅行に去年と今年に行き、強く感じたことでした。トルコにある遺跡を訪問するということは、実は、「ローマを訪ねる」ことです。

 私たちがローマというと、イタリアを思い出すでしょうが、そこは西ローマであり、330年に遷都し、1453年まで続いていた東ローマはトルコなのです。さらに、新約聖書の教会の誕生から間もなくして、使徒の働き13章以後の宣教の旅、使徒たちの手紙の宛先の多くもローマのアジア属州にあった町々であります。パウロ、ペテロ、そしてヨハネが活動をしていたところであり、その後の初代教父もこの地域の出身であり、云わば「教会を知ることができる」ということです。 続きを読む 書評「キリスト教の“はじまり” 古代教会史入門」

天皇の即位礼とキリスト者の姿勢

 今年、2019年は、元号が平成から令和へと替わり、国全体が少し和み、喜び、慰めを受けているような感じがします。素直に、そのことに私個人も喜んでいます。

 そして、皇位継承のための儀式がこんなにも数多く、詳細で、期間をかけるものなのか、そして盛大なものなのか、ということに改めて驚いています。また、昭和から平成に移行した時に比べると、平成から令和に移った今回のほうが、もっと和やかで、落ち着いており、素直に国民が喜んでいるような気がしています。世情が暗いこと、また災難が多いことを思うと、一時の和みです。

 キリスト者として、一連の皇位継承の儀式をどうみているのか?を私個人の想いを本記事に書かせていただきます。

「王を敬え」という命令

 キリスト者として、素直に、喜び申し上げたい思いを持っています。私は、以下のキリスト者オピニオン・サイトの論説委員の一人でもありますが、同じ思いを共有しています。

「今上天皇陛下の「即位礼正殿の儀」をお祝いし、心よりお喜び申し上げます。」

 聖書的にも、歴史的にも、そして世界的には、教会は、上に立てられた権威を尊敬してきました。 続きを読む 天皇の即位礼とキリスト者の姿勢

10月に大阪と東京でSALTY第1回公開講演会

待ちに待った、キリスト者オピニオンサイト「ソルティー」の第一回公開講演会が開かれます。キリスト者が、社会問題に対してどのような証しを立てていくべきか、とても大切な視点を三人の方がお語りになります。

10月に大阪と東京で SALTY第1回公開講演会 を開催しますキリスト者と政治


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三人の方ですが、私はそれぞれとても尊敬している方々です。

西岡力さんについて: 続きを読む 10月に大阪と東京でSALTY第1回公開講演会

日韓関係改善のための祈りの手引き

この記事を見て、初め、涙が目線に集まって来たのを感じました。

日韓関係改善のための祈りの手引き 妹尾光樹(純福音成田教会担任牧師)

成田純福音教会の妹尾光樹牧師とは、去年2月の東アジア青年キリスト者大会にて、成田山の説明を依頼させていただいた時に初めてお会いして、フェイスブック上でいろいろと意見交換や交わりをさせていただいていました。

私が、激しく対立する日韓関係をフェイスブックで投稿した時に、即座に反応され、コメントを残されました。うめきと叫びに近いお言葉でした、日韓のキリスト者の交わりに悪影響が出ないことを心配する声でした。 続きを読む 日韓関係改善のための祈りの手引き