宮城キリシタン探訪

毎年、この時期に仙台の実家に戻るのですが、ずっと気になっていたことを行ないました。それは自分の故郷での切支丹の歴史を辿ることです。だれか案内してくださる方がいないかと思っていたところ、今年二月、N牧師と話している時に、ご自分の奥様がとても詳しいということで、お頼みしました。14年前に信仰をもった両親にも見せたいと思い、両親と、それから車の運転を手伝ってくださったN姉妹と共に、行きました。

仙台キリシタン殉教碑

広瀬川の殉教者(女子パウロ会)


仙台の西公園の端、広瀬川の大橋の横に、この記念碑が立っています。冬の極寒の中、水牢によって殉教した切支丹と伴天連を記念しています。しかし、彼らだけが処刑されたのではなく、ここら辺には裁判所もあったそうで、他にも多くの切支丹が殉教したと言われています。

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キリスト教葬儀セミナー2017

二年前に、カルバリーチャペル西東京と、ロゴス・クリスチャン・フェローシップが合同で、葬儀セミナーを開きましたが、先週末、再び(株)ナザレの西田社長をお招きして、セミナーを開きました。

前回は、「キリスト者が葬儀の場において、どうふるまうべきか」ということに焦点が置かれたが、今回は、「キリスト者でない方が、キリスト教の葬儀とは何かを知っていただく」という目的で行ないました。未信者の方々を強く意識して、それぞれの話者が語らせていただきましたので、ぜひご自分の家族、親族の方にお見せになるとよいと思います。

動画:2017年葬儀セミナー(CC西東京&LCF)

音声:キリスト教葬儀セミナー2017 音声 続きを読む キリスト教葬儀セミナー2017

「共謀罪反対声明」に対する懸念

ここ二・三日のクリスチャン新聞の記事を見ますと、次々とキリスト教の教団や関連団体が、いわゆる「共謀罪」の廃案を求める声明を出していることを取り上げています。その根拠は、「内心の自由」が侵される惧れがあるから、というものです。

ここから少し、難しい話になりますが、逆説的なことを申し上げます。このような反対声明を出すことのほうが、かえって、将来的にキリスト者としての内心の自由を侵していく全体の動きが日本で起こってしまうのではないか?と危惧しております。

動画は、かつての大統領選挙で、民主党内の候補の一人であった、バーニー・サンダース議員による審問です。審問を受けているのは、トランプ政権において行政管理予算局の副所長への候補として、福音派神学校「ホイートン大学」出身のラッセル・ボート氏であります。この大学では、かつて政治学の教授がムスリムとの連帯を公表したため、大学が辞職したとがあり、その時にボート氏は、記事を投稿しました。その中にある一文を、サンダース議員が取り上げます。 続きを読む 「共謀罪反対声明」に対する懸念

核戦争待望とキリスト待望

昨日、私たちの教会の礼拝は、聖書講解でダニエル書9章を読みました。午前と午後の二つの礼拝でそれぞれ前半と後半に分けて、じっくりと学びました。ダニエル書は個人的に、ずっと親しみをもって読んでいき、また何度となく教えて来た書物の一つです。けれども、時代が時代だけにますます真実味をもって読むことができました。

ダニエル書9章1‐19節(原稿 ・ 音声
ダニエル書9章20‐27節(原稿 ・ 音声

そうした学びの準備の中で、以前からとても気になっていた批判がありました。9章にある七十週についての解釈について、それをどのように解釈するのか?という釈義によって議論するのではなく、政治的に利用されていることを殊更に取り上げて、結果的に、自身も政治的になっておられることです。 続きを読む 核戦争待望とキリスト待望

「言葉狩り」という恐怖

オーストラリア人のNeel Kolhatkarというコメディアンが、”Modern Educayshun”という短編映画を動画で流しています。

その題名は「現代の教育」という意味ですが、正しい綴りEducationから、、shun(避ける、遠ざける)という言葉に言い換えることによって、「当たり前のことを言えないように疎外する」という皮肉を込めています。全てのことを平等にすることによって、どれだけ息苦しく、人々の自由や人間性を奪い取るかを風刺しています。

ある方が訳してくださった、大まかな日本語訳を記事下のコメント欄に掲載します。

教会にも見えてくる「言葉狩り」

こんな感じですが、私は、「あれっ?日本のキリスト教界にもありそうな?」と思いました。例えば、らい病を「ツァラアト」を翻訳した根拠が「差別語」だというところに、かなり違和感を抱いていました。新共同訳の、適宜、文脈に即して訳し分けているほうが、はるかに誠実だと思っております。私は今でも、その文言が出ると第二版に基づいて「らい病」と、そのまま読んでいます。 続きを読む 「言葉狩り」という恐怖

カルバリーチャペル日本カンファレンス2017

毎年恒例の、日本のカルバリーチャペルの諸教会が集まる聖会が、東京国分寺で行われました。

本当に、神の恵みを思い主に感謝しています。年を経る毎に、私たちが仲良くなり、共に賛美して、御言葉を聞き、じっくり交わり、互いに祈り合い、豊かな、豊かな兄弟愛を感じています。ただ主の御名をほめたたえるばかりです。

フェイスブック・ページ(大会の様子を写真でたくさん見られます)

ホームページ(メッセージを聞くことができます)
※以下、各セッションの題名のところにこのホームページからの音声の直リンクを貼りました。 続きを読む カルバリーチャペル日本カンファレンス2017

エジプトのキリスト者:鉄のような赦しの力

今朝、あまりにも感動して、涙が溢れ出たのが下の記事です。

Forgiveness: Muslims Moved as Coptic Christians Do the Unimaginable(コプト教徒の想像を絶する赦しに イスラム教徒が感動する)

Image processed by CodeCarvings Piczard ### FREE Community Edition ### on 2017-04-20 16:32:01Z | http://piczard.com | http://codecarvings.com

以前、イスラム国によってリビアの海岸で、エジプト人のコプト教徒(キリスト教の一派)が斬首された後に、その出身の貧しい村で遺された家族が、イスラム国の戦闘員に対する赦しと、感謝の言葉までを述べたことをお伝えしました。

エジプト人キリスト者に広がる愛の御国

そして、先日お伝えしましたように、棕櫚の聖日の礼拝の時に、エジプトの二つの教会でイスラム国による爆弾テロがあったのですが、その被害者の妻がインタビューに答えています。彼女は、アレキサンドリアの教会で自爆犯に、探知機を通るように促した護衛で映像にも映っています。 続きを読む エジプトのキリスト者:鉄のような赦しの力

西洋につながらないアジア宣教

欧米のキリスト教を見つづける東亜三国

今年2月に行われた、東アジア青年キリスト者大会においての祝福の一つは、「実は東亜(日中韓)において、今日よりも戦前のほうがつながりと交流があった」ということが分かることです。今でこそ国においては日中韓で対立が続き、そしてそれぞれのキリスト教は、それぞれが宣教の課題を持っていて、たこつぼ的に動いています。

その中で、忘れられているのは、「我々はキリストにつながれており、西洋キリスト教につながれているのではない。」ということであります。福音を初めに伝えたのは確かに欧米の宣教師たちを通してなのですが、今に至るまで各国のキリスト者が、欧米キリスト教のみ(模倣にしろ、反発にしろ)に目を向けており、その色眼鏡で他の二国を眺めているということです。それで、必ずしも純粋に持っている信仰や教会形成ではない、欧米文化を多分に含むキリスト教となっています。それで宣教初期にあったような交流がないまま、互いに無関心、時には嫌悪感をさえ抱いている場合があります。

しかし、よくよく考えれば、欧米のキリスト教は、欧米文化や社会の中で福音が伝えられ、定着化したことによって存在しているのであり、それはそれでよいのです。しかし、私たちの信仰の発祥ではないのです。私たちは、その西洋宣教師の働きや信仰に感謝して受容しつつも、私たちは私たちで、主がこの地でいかに働いて、生きておられるのかをしっかりと見て、御霊に導かれ、キリストに根差した信仰を養う必要があります。

西アジアのセム人イェシュア 続きを読む 西洋につながらないアジア宣教

福音の政治化

これまでも、当ブログでこの話題についていろいろ書いたことがありますが、再び、あるところで書いた文章をこちらにも掲載したいと思います。(一部、元の文章から編集します。)

<政治的保守主義とキリスト教>

政治的保守主義とキリスト教(カナイノゾム研究室)

日本の教会において、政治的に「保守」という立場を取る人が少ない。そして、保守というと、すぐに軍部が支配する全体主義に後戻りすると思う傾向があります。さらに、真実なキリスト者ではないという発言まで聞きます。これは明らかに暴言です。世界中に政治的に保守主義を取っていながら、立派なキリスト者は無数にいます。

厳密に聖書を見つめるならばシェア元記事にあるように、聖書における政治思想はむしろ「保守的」です。いや、私の意見では、もっとはっきりと言うならば「体制的」であると思います。使徒ペテロが、「人の立てた制度に従いなさい。」と言いました。

なぜなら、例えば、共産主義国において、反共の思想(右)は「反体制」になりますが、キリスト者はその政権を神が立てたものとみなし、反体制運動を起こしません。思想的にはむろん、信仰上、共産主義を受け入れませんが、それと政治的行動を起こすこととはまた別です。

キリスト者は、自分の置かれている国の指導者を敬い、その人のために祈り、執り成します。それが人々から偶像視されている王であってもです。しかし自らは拝まない。神をむしろ畏れます。しかし、神を畏れるがゆえに、王を敬います。 続きを読む 福音の政治化

カルバリー20代キャンプ「社会に仕える」

カルバリーチャペル20代キャンプを、19‐20日で終えました。主を愛する若い兄弟姉妹に囲まれて、とても充実した時を持ちました。キャンプでは、メッセージの他にディスカッション、Y兄弟の証し、ゲームなどもありました。

テーマは、「社会に仕える」でありますが、以前、ブログ記事にした内容に沿ったものです。

「働くことの意味」ロイド・ジョンズ著

①「主に従うように」ペテロ第一2章11‐25節(音声 ・ 原稿

②「勇気をもって」ダニエル書1章(音声 ・ 原稿

③「神をあがめる王」ダニエル2‐4章(音声 ・ 原稿