領土問題について考える

近隣諸国との関係が騒がしくなってきました。「政治とクリスチャン」また「クリスチャンの政治家」の記事において、このような時事問題と私たちの信仰の関係をお話しましたが、主に、クリスチャンにとって注目しなければいけない情勢と、注目はするが振り回されたり、惑わされてはいけない情勢の二つがあります。領土問題は、ひとえに「惑わされてはいけない」情勢になります。なぜか、理由をいくつかに分けてお話します。

1)国と民族と地境

神がバベルの塔において、言葉をばらばらにされてから、世界の人々が民族を単位として散らばっていきました。それは神の裁きの現われではありますが、憐れみの中でそれぞれに住むところを与えてくださいました。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒17:26-27)

ですから、国境線を含めて神は与えておられます。しかし、これをパウロは、自然啓示の中で語っています。自然啓示とは、聖書でなくとも、神とキリストを信じていない人でも、自然に神に与えられた啓示であり、神が全ての人に与えておられる恵みです。

キリスト者は、天に国籍を持っていると同時に、この地上にいる間は、その地の住民として生きています。したがって、その中に国境線の問題もあるでしょう。したがって、ロシアとの北方領土問題、韓国との竹島問題、中国との尖閣諸島問題は、この国に生きる者として一定の関心を示す必要があるし、必要ならば国土を守るために行動に移さなければいけない時もあります。

しかしキリスト者は、特別啓示を受けています。特別啓示とは、神が聖書によって与えておられる神の知識です。初めは、神は人にこの地を支配するようにされましたが、人が罪を犯したので、それを失ってしまいました。しかしキリストが、この世界を贖うために地上に来られました。ご自身の血によって贖い、そして天に登られたのです。かの日には、そこから戻ってきてくださり、その所有権を行使して、全世界を神に引き渡し、ご自身がエルサレムから王の王、主の主として統べ治められるのです。

その時にキリスト者は、この方との共同相続が任されます。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8:17)」北方領土、竹島、尖閣諸島を含めてすべての地は、キリストが地上に再臨されたとき、その主権と領有はキリストのものとなり、行政と管理はキリスト者各人に与えられるのです!

これによって、今の領土問題は関係があると言えばあるのですが、その見方は神の国の者にされていない人とは、根本的に違います。将来、これらの地は神の子どもたちに任されるのですが、それはこの世が展開している主張、デモ、武力によってではなく、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5)」とあるように、もっぱら神の前でへりくだりの生活を送っている人、悪いことをされても仕返ししない人、与えられている主からの仕事をしっかりとこなす人に与えられます。また、先のローマ8章17節によれば、キリストと共に苦難を受けている人が共同相続人になります。この約束は、黙示録2-3章の七つの教会への約束にも銘記されており、信仰をしっかりと保っている人々に与えられます(例:2:26‐27)。

続きを読む 領土問題について考える

政治とクリスチャン

アメリカの政治について数回に渡りこのブログで取り上げましたが、日本のクリスチャンの中にもこういう疑問を持っている人が多いと思います。

クリスチャンが政治にどのように関われば良いのか、また良くないのか?

いつものジョエル・ローゼンバーグ氏が言っている要点を書き記したいと思います。彼はユダヤ系米国人で、それから新生体験をして福音的クリスチャンになりました。面白い経歴を持っており、初めは大統領選では民主党候補に投票していました。そして次に、共和党候補の選挙のために働いていました。興味深いことに、投票した民主党候補も、また働いていた共和党候補もみな落選しています!それだからというのではないですが、主が「御言葉を宣べ伝えるのに専念しなさい。」という語りかけを受けて、それで政治の世界から足を洗った、そうです。政治にかなり関わっていたので「解毒」が必要だったと言っています(笑)。

彼が、まとめたクリスチャンの政治への関わり方ですが、5つの要点です。

1)国の指導者のために祈る。その指導者が自分の投票しなかった政党であっても祈る。
2)自由民主主義の中に生かされているキリスト者として、選挙は責任であり、選挙に行くことは奨励する。
3)クリスチャンの中には、公的機関で働くのに召されている人もいる。政治家もいる。(聖書では「ダニエル」)
4)牧師は党派的意見を説教壇で言わない。それは市民の権利を放棄することではなく、御言葉を伝える召しのゆえに捨てる。
5)政治の話題にはまっているクリスチャンは、その党派的な世界からの解毒が必要である!

(以上、PODCAST: CHURCH NEEDS TO GET BACK TO MAKING DISCIPLES, FULFILLING GREAT COMMISSIONから。PODCASTの音声も聞きました。)

アメリカと日本の今の政治状況は少し違います。イラク戦争以後、以前にあった一致団結がアメリカになくなり、両極化が生まれて、党派的になっていきました。それは政治や経済についてのイデオロギーや思想に関わることであり、日本の党利党略の問題とは違います。ですから、党派心を持つことに対して警戒が必要であることをジョエルは述べています。日本の場合の政党の見方としては、混迷を増していくばかりなので、次の基本知識が役に立つと思います。「政治をゼロから考える(5) 自民党と民主党はどこが違うのか」(国際情報サイト「フォーサイト」からの記事)

私は二つの点に注目しました。一つは、1)の国の指導者のために祈ることです。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(テモテへの手紙第一2:1)」大事なのは、願って祈って、とりなして、最後に感謝が捧げられるようにすることです。「感謝」がその人のために祈った結実です。

政治の話題になる時に、どうしても「批判」が先立ちます。民主主義と、当時の帝国主義(今でなら専制国家)では違うでしょうが、ユダヤ人がローマからの独立をするという熱狂が根底にはあったので、私たちの指導者に対する不満と共通面があるでしょう。けれども、キリスト者は全く一般民と異なる召しを受けています。一般民は批判するのが自分の仕事だと思っていると思います。けれどもキリスト者は彼らのために「祈る」のです。そして「感謝」になるまで祈るのです。教会の中で、思いっきり忘れられている神の命令だと私は思いました。

311の大惨事の後からは、私はもっと祈ったと思います。菅首相のために祈りました。そして今は野田総理のために祈っています。すると面白いことが起こりました。批判をしている時には見えてこなかった、指導者としての苦悩を感じ取れるようになってきたのです。確実に、神の御心の中に、その個人がクリスチャンであろうとなかろうと、その人がその立場に置かれているということです。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:1)」彼らは公僕です。私たちのために仕えているのです。「いや、何が国民にためか!自分のこと、自分の党のことしか考えていない!」というのであれば、それは不信者でもいえることで、主の手の中、その水の流れに彼らがいることを感じ取れれば分かることです。

もう一つは、4)です。アメリカほどではないですが、日本では真っ二つに分かれる課題があります。「原発」がその先端にあるでしょう。ある教団では、原発は聖書に反するなどという声明文まで出しています。私は自分の強い意見がありますが、なるべく出さないようにしてきました。(漏らしてしまうことは、時々ありますが。(汗))とくに教会の説教では、出したとしても容認なのか反対なのか明確にする形ではなく、中庸な形で例として出しました。なぜなら、キリスト者としての霊的成長に役に立つ事はなく、むしろ「党派心」という肉の働きによって妨げになる可能性が大きいからです。

しかし聖書の命令に直接、抵触する主題については語ります。以前「クリスチャンの政治家」という記事でそれを取り上げました。ですから、何が聖書で明白になっているのか、そうでないのかを知る必要があります。今、「キリスト者の倫理」という文章を書いている最中です。そこで取り上げていきたいと思います。

【後記】
同じ課題を取り上げている、非常に同感、納得のいくブログ記事を読みました。教会に政治を持ち込むとどういうことになっているのか、よく考えておられます。

政治と教会の距離感について―同盟基督:「原発は聖書に反する」--理事会 見解を公表を受けて―

2016: オバマのアメリカ(2016: Obama’s America)

今、アメリカで全米歴代二位の興行成績を達成したという話題の映画です。マイケル・ムーアの「華氏911」には及ばないそうですが、政治ドキュメンタリー映画としては、第二位に食い込んでると言います。日本語の記事を探したら、次の記事が一番詳しかったです。

ワシントン・古森義久 「反オバマ映画」人気の理由

私は先日「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の記事を書き、信仰的立場から今の米国保守派を批判しました。オバマ大統領については少し言及するに留めました。以前、米国リベラル派の由来についての記事を書きましたが、オバマ自身については正直なところ沢山書けませんでした。保守派からは反キリストではないかという声が有る程でしたし、彼の出生についての陰謀論が出回っていたので、私は興味が失せていました。一方、リベラル派はあの熱狂振りが理解不能でした。日本人でさえCHANGEという言葉に振り動かされていたほです。

でも、彼自身の人物像は確かな情報が出ていなかったと思います。そこで副題が、”LOVE HIM, HATE HIM, YOU DON’T KNOW HIM”というもので、実に端的に言い表していると思いました。訳せば、「オバマを愛しているにしても、憎んでいるにしても、彼のことは知らないね。」ということでしょう。どちら側も、彼を突き動かしている思想や情熱を知りません。

私個人の印象としては、前から「暗さ」を感じていました。彼の会見映像を見るたびに思います。アメリカン・ドリームとはほど遠い、というか、何か異質なものを感じます。(妻は十年以上米国に滞在し、その多くをリベラル色の強い東海岸で過ごしたけれども、私だけでなく彼女も「彼は、私の知っているアメリカと違う!」と言っています。)歴代の民主党大統領とも何かが違います。とらえどころのない謎を秘めた人です。保守派の人がこれまで民主党大統領を批判したとて、批判できるのは何か、どこかで一致できる何かがありました。けれども、それがないので空振りをしている感じです。以上が私の印象です。

そこでこの映画ですが、これはインド系米国人の政治学者ディネシュ・デスーザ氏による著書The Roots of Obama’s Rage(オバマの怒りのルーツ)を基にしています。中身は大体、次の記事二つを読めば分かるみたいです。

Forbesの記事:“How Obama Thinks”(オバマの考え方)
Washington Postの記事:“Why Barack Obama is an anti-colonialist”(バラク・オバマがなぜ反植民地主義者なのか?)

最初の産経新聞の紹介記事にまとめがありますが、「デスーザ氏は「オバマ氏の真のイデオロギー的理念は、米国がアフリカなどの開発途上国から搾取した植民地主義の結果の是正であり、そのために米国の力や富を相対的に減らすことを意図している」という結論を下す。」とのことです。私はこれで「なるほど!」と思いました。

彼のルーツは、彼のケニア人の反植民主義者の父だそうです。大していっしょに過ごしたのではないけれども、父の情熱と思想がしっかりと受け継がれていることが、彼が34歳の時に書き記した、「マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝」に散らばっているそうです。デスーザ氏はあるスピーチの中で次のような内容を話していました。「アメリカ人は、多様性のある多文化のアメリカの夢をオバマに投影させているが、オバマ自身の歴史を見落としている。父が反植民地主義であり、その考えをアメリカの地に適用させようとしている。普通の民主党員は、『所得をアメリカの中で再配分しようとしている』。けれどもオバマ氏は、『アメリカを世界の中に再編成しようとしている』」

これで、すとんと来ました。これが民主党や穏健リベラル派との違いです。ただ、デスーザ氏の主張がどこまで正しいのかどうか私には推し量ることはできません。特にオバマ氏による大統領としての政策に、どこまでその思想と情熱が反映できているか、つまり「したくてもできない」ものも多いのではないか、と思うからです。けれども私が前々から感じていた深い懸念と合致していました。つまり「アメリカをもうアメリカででなくしてしまい、他の世界の国々と同類にしていこうとする強い力が働いている。」と、個人的には強く感じていたからです。

最後に、私は多くの日本の人、クリスチャンを含む日本の人に言いたい。アメリカの独自性をイラク戦争後「一国主義」と言ってあれだけ批判していましたが、「本当にアメリカ無き後の世界を私たちが望んでいるのか?」ということです。アメリカが強大な国で無くなりようがないから、という甘えがあって批判していたのではないでしょうか?ちょうど、自衛隊違憲、日米安保否定の路線を立てて置きながら、一度、与党になったら一気に転回したかつての社会党のように。でも、現実にそうしていこうと思っている大統領がお望みどおり就いている、ということです。そして、あと4年続けるかもしれない、ということです。

今、現実にアメリカがアメリカでなくなっていく時代に入っていこうとしています。ジョエル・ローゼンバーグ氏が言うように、Implode(内部破裂)してしまう時期が近づいています。

最後の最後に・・・、本映画の原作者ディネシュ・デスーザ氏は福音派のクリスチャンで、キリスト教系のキングズ大学の学長でもあるそうです。キリスト教弁証学者としても有名ですが、どこかで聞いたことのある人だな?とは思っていました。また、彼はアジア系の米国移民なので、なぜ彼が保守的になったのか少し共感できます。アメリカにしかない独自性を外部にいたからこそ知ることができるので、その建国思想に純粋に帰依しやすい面があります。有色系移民一世のほうが、従来の白人よりも保守的になりやすい面が実はあります。下の記事を書いていますね。これもまたアメリカの魅力を知った時を思い出し、共感できます。(私も「アメリカに感謝している訳」なんていう記事を以前書きました。)

祝するべき10の事 /なぜ私が、反・反米主義者なのか

【後記】

カルバリーチャペルのラジオ番組KWVEで、チャック・スミス牧師がディネシュ・デスーザさんにインタビューしました!番組の録音も聞くことができます。(写真 ・ 録音)彼自身、カルバリーチャペルに通っているそうです。

もはや保守派でも、リベラル派でもない

共和党候補がロムニー氏に決まり、その応援演説にライス前米国国務長官が駆けつけたとのことで、早速ユーチューブで探して閲覧しました。

とても分かりやすい英語で、共和党の基盤となる見方を、いや、アメリカがアメリカとして成り立っている存在意義、あるいはイデオロギーをきちんと述べているところに好感が持てました。そして私が好きなのは、彼女が黒人であるのにその思想が保守主義に基づいていること。「保守派は白人である」という日本でありがちな極めて陳腐な議論を、彼女の演説は粉砕しています。

彼女は黒人差別をまともに経験した人です。8歳の時に友人を、白人優位主義者の爆弾テロで失っていることが強烈な体験になっています。両親(父は牧師)が持っていた「教育こそが差別に打ち勝つ武器」という強固な信念を娘は具現化しました。今回の演説でも言っていましたが、次の言葉は感動的です。「(子供の頃、生まれ育った南部アラバマでは)ウールワースでハンバーガーを食べることはできなかったかもしれませんが、(教育に熱心な)両親の励ましがあったおかげで、(努力さえすれば)大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」(ウィキペディア参照)。ホワイトハウスに親が連れて行った時は、少女の彼女は「いつかここで働く」と言ったそうですが、事実、米国で副大統領の次に第三の権限を持つ国務長官になりました。(こちらに自叙伝のまとめ記事があります。)

(関連記事:「「感謝」の力 - ②私が保守的な訳」「 「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳」

ここまで言いましたが、実は、私は演説に強い力を感じることができませんでした。共和党というか、米国の保守主義全体はもう色あせており、米国全体がタイタニックのように沈んでいく、いやまだ沈んでいませんが、どこか船底に穴が空いているけれども埋められていない、という感触を持っています。

それは何かと言いますと、ひとえに「霊的底力がなくなっていること」であります。リベラル派であるオバマ大統領が出る前、米国の福音派教会が強烈にブッシュ大統領を支持した時から、その流れを見てきました。私がショックを受けたのは、ブッシュ大統領自身は信仰的に成熟しているとはとても思えないのに、教会がまるでユダ国で霊的復興に用いられたヨシヤのように担ぎ上げられていたことです。

ブッシュ氏は、米国同時多発テロという建国以来最大の危機と言ってもよい国難であった時の最高責任者として、同情もし、よく頑張ったと思っています。しかし、福音派教会が持ち上げていた割には、対テロ戦の初期段階から宗教的に世界を一つにしようとする動きに積極的に付いていっていました。日本を訪問したときは明治神宮で参拝をし、イスラム世界においては、「私たちとムスリムは同じ神をあがめている。」と発言し、政権末期の時は「私は聖書をそのまま信じていない。」と進化論に関して答えるときに話していました。確かに政治的には保守主義と取っていますが、信仰的にはとても幼い人だという印象を受けました。

それでオバマ氏が大統領に選ばれたときには、「オバマが優れているからではなく、共和党が自らの基盤を捨てて、妥協したからに他ならない。」と思いました。そしてオバマに熱狂したアメリカ人も落胆しましたが、これまでの民主党政権にもない大政府的な政策、そして民主党を支持していたユダヤ票を無視するかのようなイスラエルの軽視など、アメリカをアメリカらしくしていたものを捨てていく政策を取ってきました。そして中絶を奨励、いや要求するような法制化、同性婚の支持など、ますますキリスト教価値観から離れています。

そして共和党が巻き返すのか、と思っていたところ、なんと出てきたのはモルモン教とのロムニー氏です。ある牧師が、こう書き記しています。「モルモン教徒であるロムニー氏はイエス・キリストは堕落した天使長ルシファー(サタン)の霊的兄だと信じている。天使のキリストが受肉してイエスになったと考える点はエホバの証人と同じである。ちなみにエホバの証人では天使のかしらのミカエルが受肉したのがイエスだと考える。モルモンは、イエスはマルタやマリヤなど複数の妻を持った一夫多妻者であったと教える(ヨハネ2章のカナの婚礼もイエス自身の結婚式であったと教える)。彼らは明らかに「別のイエス」(2コリント11:4)を宣べ伝えており、聖書はこのような「別の福音」を宣べ伝える者はのろわれるべきだと断罪している(ガラテヤ1:8−9)。」

同じ「イエス」を唱えているけれども、聖書の語るイエスは、全知全能の神の御子であり、神ご自身である方と、ルシファーの霊的兄弟という、比較できぬ雲泥の差があるのです。つまり、今回の大統領選挙は、ちょうど南北に分裂した時のイスラエル、北イスラエルのヤロブアムを選ぶか、南ユダのレハブアムを選ぶか、その二者択一に成り下がっているということです。

これは何を意味しているのか?神の裁きはこれから米国に下るのではなく、既に下っていることを表しています。国の指導者は、その民の霊的状態を映し出す鏡なのです。

米国に限らず、日本でもそうですが、私が政治論議を倦厭してしまう瞬間は、「神とキリストのみによって与えられる救済を、政治家に求めてはいないか?」という疑問が出てくる時です。実はこのことについて、米国キリスト教会の中からも声が大きくなってきました。今、アメリカに必要なのは優れた政治家ではなく、神ご自身であり、教会の霊的復興、国土の霊的覚醒であるという訴えです。次の投稿に、このことについて話したいと思います。

(次記事「霊的復興」に続く)

NHKスペシャル「オウム真理教 17年目の真実」

NHKスペシャルが「未解決事件」というシリーズを持っています。

File.01 「グリコ・森永事件」

去年は「グリコ・森永事件」を取り上げていました(動画)。観ましたが取材としては極めて優れており、ここまでの内部資料と当事者への取材を良くやったものだと関心しました。この事件そのものの報道を追ってきたわけではなくあくまでも当番組の感想ですが、「この劇場型犯罪は実は、犯人が警察・マスコミ・国民を巻き込んで操作していたのではなく、犯人本人もこの劇場の中で演じなければいけない束縛の中にいた。」ということでした。その縄目を断ち切ったのは、最後の高速道路に犯人が巻いていた白い布のガードレールの下の道で、この捜査のことを知らされていなかったので職務質問をした滋賀県の警察パトカーであり、そして退職時に焼身自殺した滋賀県警の本部長の無言の“抗議”であると見ました。(参照:ウィキペディア

File.02 オウム真理教

そして「オウム真理教 17年目の真実」はつい最近観ました(動画)。

こちらのドラマとドキュメンタリーの三部作も優れものです。ただ、麻原の声を何度も聞いていると、こびり付いて頭から離れず、異様で怪しい空気に苦しむことになるので、ご覧になる方は要注意です。けれども、古参信者で逮捕されなかった本人の視線から描いた初期のオウムを描いている点が極めて優れており、二つの教訓を得ました。

当然ながら一般社会はオウムの反社会性や犯罪性に注目しており、社会や公共の秩序に触れなければ文句は言わなかったでしょう。けれども私は、それではいけないと思います。彼らの連呼する「救済計画」という概念そのものに私は問題性を見ました。それを自らの修行で成し遂げる、というところです。その修行が瞑想から始まり、次に訓練へと移り、その訓練中に事故死する者が出て、そしてその隠蔽を行ないました。NHKの取材記者は、この事故死が原点であると迫っていますが、社会性としてはその通りですが、私は上で太字にした人間の恣意的努力による救済そのものが、そもそもの間違いであると感じました。

これはどの宗教、いや社会・政治運動、また経済活動でもいえることです。救済は、神がその主権によって行なわれることであり、人はその計画に服することによって関わることができます。「あと何人いなければ、救済計画は果たすことができない。」「我々は人を救う必要がある。」というところに、会社における業績達成に通じるものがあり、そして宗教そのものにある限界です。

特に1990年前後は、私自身も大学生で思い出すのですが、ドラマでも描かれているようにバブルの絶頂でした。人々が浮かれており、これがずっと続くはずはないと若い私もうすうす気づいていました。それで新・新宗教が数多く出てきたのを思い出します。そのような俗的なものから離れたいと思って宗教が起こっていったはずなのに、その宗教の中にさえ目標達成という企業活動と変わらない原理がその中に入っていて、それを宗教の名によって包んでしまっているということが起こっていたのではないかと思うのです。

人はどんなに霊的になろうとしても、キリストの十字架に肉をつけてしまわないかぎり、むしろ霊的装いをして肉が放置されていくということが起こります。今、毎週土曜日にマタイ伝の学びをしていますが、山上の垂訓で語られたイエス様の言葉は、律法学者やパリサイ人の義よりもまさったものでなければいけない、というものでした。そこに、人間のありのままの姿が炙り出されています。

「17年目の真実」とは「イラン核危機」

そしてもう一つ、NHKは正しく、これが初の化学兵器による無差別テロであるとしている点が重要です。けれども欠けているのは、これが「宗教の名のもとに行なわれている」という点を言及していないことです。ここがNHKに象徴的に表れている「穏健な日本世論」において著しく欠けている点であると思います。

この番組の第三部の「オウムVS警察 知られざる攻防」で、一連のオウムによる秘匿捜査であと一歩というところで踏み出せない警察関係者の取材があります。その人たちの反省は、「宗教団体が具体的な社会的破壊行為をするのだろうか?」という想像力の欠如にあった、ということです。それまでは赤軍を代表する唯物思想の過激派しか取り扱っていなかったのですから理解できます。また、戦時中に治安維持法によって国家権力が宗教団体内の教義にまで踏み込んだという過ちがあるので、そのような歴史的経緯から「宗教」そのものに対して権力が踏み入ってはいけないという思いが、関係者の間にはあったことでしょう。

しかし、戦後日本が政教分離の原則を社会的側面にまで極端に推し進めたために、日本では宗教に入信している人々が現実に極めて多いのにも関わらず、マスコミなどの公の場において宗教を一切論じないという空間ができあがりました。

その反動として、宗教の健全性を推し量る免疫がまったく付いていません。私が1999年頃初めて韓国に行ったとき説教奉仕が目的でしたが、同乗していた日本の若者に教会関係の働きであることを告げると、本人である私を目の前にして嫌悪感を露にしました。私は、「夜に降り立ちますから、ソウルに輝く、赤いネオンが着陸するときに見えますよ。それは全部、教会の十字架ですよ。」と話しました。公の空間から宗教を押し出してしまった結果、その初歩知識さえも知らない幼稚な状態に閉じ込めてしまっており、オウムに入信する人たちのように、その純朴な思いは歪んだ教義を見分けることができなかったのです。

オウムの中にあった「ポア」の教義は、イスラム過激派のジハードと類似点をみます。ポアの定義は単なる殺人ではないと彼らは言いますが、そして確かにもっと広範囲で使われていますが、イスラムの「ジハード」も全く同じように使用されています。

ウィキペディア「ジハード」

ジハードの語は元来アラビア語で「ある目標をめざした奮闘、努力」を意味する。この「努力」の語の元来の意味には「神聖」あるいは「戦争」の意味は含まれていなかった。しかしコーランに於いてはこの言葉が「異教徒との戦い」を指すことにも使われており、これが後に非ムスリムとの戦争を示す所謂「外へのジハード」として確立した。

ウィキペディア「ポア」

本来の意味の「ポア」とは、「死に際して、その魂を高い世界に移し変える(転生する)こと」を意味していた。ところがオウム真理教では魂を高い世界に転生させるためには、積極的にその魂の持ち主の生命を(実際に)奪っても構わないという「殺人正当化の教義」を意味することになった。

そしてイスラム過激派の数多くのテロ行為の直接的動機とオウムは酷似しています。そして、宗教国家を作り上げるという麻原の野望は、まさに1979年のイランで起こったイスラム革命の概念と同じであり、今のイラン政権の核開発はこの思想を基盤にしているのです。


1995年に現イスラエル首相のネタニヤフ氏は既に、「テロリズムとはこう戦え」を書き記し、その中で、地下鉄サリン事件を取り上げています。これら世界、特に自由・民主主義圏を脅かす要因になる警鐘を鳴らし、その後の世界はまさにその通りになりました。この事件が今の化学・生物テロ危機の拡散につながったのです。けれども日本や世界のリベラル界は未だに、イスラム世界で起こっているテロ行為を貧富の差、アメリカ覇権主義とか、新マルクス主義に基づく話を展開させています。(そうした意味でアラブ地域研究家の池内恵氏の洞察は優れています(「現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義」「中東 危機の震源を読む」)。彼は、テロを引き起こしたイスラムの内部構造を抉り出しています。)

したがって、「オウム真理教 17年目の真実」とは「イラン核危機」でもある、という世界的視野を持つ必要があります。

「当事者」になろう! その2

その1からの続き)

「地を支配せよ」と命じられた神

私たち人間はある意味ですべてが政治家です。神のかたちに造られた人は「地を支配せよ」と命じられました。被造物の事象に積極的に、創造的に関わるのが、神が人に与えられた本来の姿です。したがって、自分が当事者であることを忘れることは、その元来の姿からの堕落を表しています。

「なぜ神はこんなことをするのだ・・・」と、あたかも自分自身が神の世界の外にいるかのように神の言葉や行動に疑問を呈するところから一歩出て、まさに自分の生活と人生の真中に神の御手があることを認めるところから真の信仰は始まります。そこには綺麗事はなく泥臭さがあるのです。自分自身が、あのむごい十字架刑の加担者であることを認めること、しかも実生活、日常生活の中で認めることが、キリスト者になる道です。自分について全責任を取る、つまり、泥だらけになるわけです。

最近、著名なクリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシー氏が来日して、3・11の一年目に合わせて来日しました。彼の講演の中身は、私は心から同意・同感しますが、今、お話していることに関連する言葉は、次のものです。

「祈りというものは、私の意思で何がしたいかということを神様にお願いするというよりも、神様の御心の中に私をどのように置くことができるかということを知ることのために行うものです。『神様、今日あなたは何をなさるのでしょうか?その働きの中に、私を加えて下さい』という祈りをすることが必要です」
http://www.christiantoday.co.jp/article/4282.html

ヤンシー氏は、「痛んだ時に神様はどこにいるのか?」という問いは、「痛んだ時に教会はどこにあるのか?」という問いに置き換えられるとし、「教会の支援活動を通して東北の人々は神を見ていた」と指摘。「宮城県を訪問し、教会が本当に傷んだ人々のため仕えているのを見た。世界中から支援のため訪れたボランティアの姿も見た。教会が与えられた仕事をしている時、周囲の人々は『神様はどこにいるのか?』と尋ねてこない。彼らの姿を通して、神を見ているからです。」
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=356

神の御心の中の当事者になろう

震災後、一週間も経たぬ時に、「なぜ神はこのように人々を多く殺されたのか?」という質問をある人から受け取りました。私は、「神は主権の中でこのことを許されただけでなく、その苦しみの只中にいて共に悲しみ、泣いておられる。」と答えました。すると、「なぜ主権の中でそれを許されたのか?もし許すのでなければ、悲しまないですむではないか?」という質問でした。その次の回答は、上のフィリップ・ヤンシーの講演全体に書かれていると思いますが、私はこう答えました。

「(返答が)手短になってしまい、すみません。なぜかというと、時間がありません。今も、実家が仙台なのでどのように救援物資を運べばよいか悩みつつ、外回りをしていました。仙台に行けるよう、主が戸を開いてくださることを祈りつつ、前に進んでいます。」

疑問を呈することができるのは、言い換えれば、災害を受けていない自分に、時間と余裕があることに他なりません。キリスト者の信仰は、前記事に書かれていた進歩派ジャーナリストのように権力者(ここでは神ご自身)を批判する安全圏にいることはできないのです。むしろ、「この災害において、あなたの御心とお働きの中に私を加えてください。」という祈りになるのです。

そして、「痛んだ時に神はどこにいるのか?」と問うのではなく、「痛んだ時に教会はどこにいるのか?」を問うべきなのです。そして教会がその痛みと共にいるときに、実際に傷んでいる人は「神はどこにいるのか?」と問わないのです。すでに、教会を通して神を見ているからです。

ケネディー大統領の就任演説の有名な文句は次でした。

「私の同胞アメリカの方々、あなたの国があなたに何をしてくれるかを問わないでください、あなたの国のためにあなたに何ができるかを問うてください。世界の市民の方々、アメリカがあなた方のために何をしてくれるのかを問うのでなく、私たちが共に人間の自由のために何ができるかを問うてください。」(And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you — ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.)

これは政治的なことだけでなく、霊的にも同じことが言えるのではないでしょうか?

「当事者」になろう! その1

次の記事に目が留まりました。

進歩派ジャーナリストの罪 – 「当事者」の時代

私は上の書物を読んだことがないのですが、書評にまとめられている主張はまったく同感でした。

妻は、マンションの役員会が予算が足りないということをずっと話しているので、自転車が過剰飽和状態になり、駐輪のマナーも悪くなっている駐輪場の年間使用費を引き上げればよいということを提案していますが、他の役員に反対されています。それで彼女がこう言いました。「これじゃ、日本に債務が溜まっていると嘆きながら、消費税率の引き上げに反対しているのと同じことじゃないですか。」

今の日本の政治を見ていて、いや、日本全体の雰囲気が「綺麗事に留まろうとしている」ということを感じます。例えて言うならば、津波によって泥だらけになっている家屋が目の前にあります。自分が手袋をはめて、着ている服を汚して率先して掃除をしなければいけないのに、いつまでも傍観者であり続け、行政が悪い、政治家が悪いといい続けている、と言ったらよいでしょうか?他者を非難することによって自分自身が責任回避をしているわけです。

そして、自分を無菌状態であろうとします。津波で多くの人が死んだことについて、「神はなぜそんなことを許すのか?」と言って、これまでも難病や交通事故などで不幸にして死んでいった人々が大勢いたのに、あたかも人がこれまですべて幸せに長寿で生きてきたかのように話し、以前も中国などの核実験で放射能汚染はあり、その他の化学物質で(タバコも含め)空気も食べ物も汚染されていたのに、「ゼロリスク」などという空想めいたことを話します。もうすでに自分たちの土地や自分自身も汚くなっているのに、他の汚れを見ると「汚された!」と言って騒ぐのです。

「政治」というのは、汚い仕事を率先して引き受ける一面があります。例えば、あるスパイを逮捕し、彼が戦争勃発危機の鍵となる情報を持っているのであれば、被疑者の拷問を禁じる法律があっても、超法規的措置を、法律遵守のぎりぎりの解釈の中で実行に移す、という面があります。このような汚い役をあえて演じて、「いいか、お前たちには責任は取られないからな。俺が後でなんとかするから。」という暗黙のメッセージを送って責任をあえて自ら負っていくのが政治家です。ところが、この頃の政治家は、国民の前で綺麗で優等生であろうとすることを第一とし、マスコミがそのことを追及し、そして国民の多くがそれに追従しているのです。

その2に続く)

(3月21日後記)昨日、瓦礫広域処理問題で、私が過去の阪神大震災における兵庫県の事例を紹介したところ、ある人が私を激しく罵りました。そして、その人は“クリスチャン”であります。読者の方のほとんどがおそらくは冷静であるかと思いますが、原発事故後の、誇張された情報に基づく放射能恐怖は今も継続中で、市民団体、ネット、マスコミによって拡散しています。(広域処理については公式情報と広報を既に環境省がサイトに掲載しています。http://kouikishori.env.go.jp/

そして、ある姉妹が昨日、分かち合ってくださった御言葉を紹介します。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇91:1-3)」

この御言葉を実践しておられるキリスト者の証しが、次で読めます。郡山に留まる牧師夫人と、チェルノブイリ事故以降もその地域に留まり続けたクリスチャンの話です。災害/福島・郡山市の牧師夫人 チェルノブイリ訪問し「郡山に留まる決意」強めおそらく福島の方々は今、他のどんな人よりも、ウクライナの人々から最も大きな慰めを受けられるのではないかと思います(2コリント1:4)。福島の地に主の栄光が輝きますように!

改めて放射線情報

もう、いろいろな方が原発事故に伴う放射能漏れ事故についてたくさんの情報を集めておられると思います。アメリカでは友人の方からたくさん「日本で放射能汚染はどうなっているのか」という質問、またこの前の日曜日は除染奉仕活動に行く誘いを受けたけれども、状況はどうだと思うか、という質問を受けました。

なので、私自身が依拠していた情報源をここに分かち合わせていただきます。

東大・中川氏 正しい放射線・放射能・被ばくに関する対応とは

上の講演ビデオは、とても分かりやすく説明してくださっておりますので、改めて知識を整理したいという方は有用だと思います。

ちなみに私は去年3月末から、この教授が導いている放射線チームのブログを読んでいました。

http://tnakagawa.exblog.jp/

講演の中では、ご自身が放射線による癌治療の臨床経験を通して、また日本人の癌発生率が二人に一人という現実の中で「人は死ぬものである」という意識がとても強いことを分かち合っておられます。けれども、どこかで、隣の二人が見つめ合ったとしたら「癌になるのは相手で自分ではない」という、「ゼロリスク社会」という意識があることを指摘しておられます。クリスチャンではないと思いますが、日本人の死生観や命への姿勢に触れる部分であることを話しておられます。

以上です、参考情報としてここに掲載しておきます。

今一番、世界が見ないもの その2

その1からの続き)

③ 暗闇の中にある光を伝える

私たちの主イエス・キリストは、むごたらしい死を遂げられた後、よみがえられました。暗闇の中に光を投じられました。この復活の命は、世の終わりに至るまで続きます。世は確かに悪くなっていく一方です。けれども同時に、その暗闇の中で主の御霊の力強い働きが同時進行で、同じ場所で起こっているのです。

それを知るのに良い書物は黙示録です。人々は黙示録は恐ろしいといいます。神の裁きの部分に衝撃を受けて、その他の部分や全体の流れを見失っているからそうなるのです。裁きの前に主は天における情景をはっきりとお見せになりました(4‐5章)。そして、裁きが行なわれている間も、天における讃美と礼拝を書き記しています。そして地上においては、そのような恐ろしい災いがあるにも関わらず、それでも救われる人々(注:教会ではなく、患難中に信仰を持つ聖徒たち)を神が起こしてくださっている姿を見ます。そして最後の呼びかけは、「渇いているものは、ただでいのちの水を飲みなさい」というものです。

ですから、地震による被害で今も苦しんでいるハイチで、驚くべき神の御業を見ることができるのです。(記事

昨日の報道で、エジプトにおける選挙の結果、ムスリム同胞団を始めとするイスラム党が70パーセントを占めたという暗いニュースがある一方で、以下のような報道があるのです。

想像を超えた希望
五千人から一万人のクリスチャンが、タハリール広場で大晦日に集会を開いたそうです。ちなみにリンク先のSAT7は、中東地域とイスラム圏に衛星放送で福音を届けている局であり、今、神が世界で行なわれている御業の最先端を報道していると言って良いでしょう。

確かにコプト教会は迫害を受けています。けれども、カイロ郊外のスラムで始まった「洞窟教会」は、今、このような礼拝賛美を捧げています。

この記事と、次の御言葉を重ね合わせてください。「それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。(イザヤ19:20-22)」

イランも激しい人権弾圧が行なわれています。しかし、リバイバルが爆発的に起こっており、米国からはペルシヤ語による福音宣教放送が行なわれているのです。(Youtubeビデオ)これによって、毎週、イエス様を受け入れると反応している人が1000人もいるとのことです!

この国にも希望の預言があります。「わたしはエラム(イランの古代の国名)にわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。・・主の御告げ。・・しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの捕われ人を帰らせる。・・主の御告げ。・・(エレミヤ49:38-39)」

これらが、私たちキリスト者が最も注目しなければいけない流れであり、同時に、世界がもっとも注目しない、あるいは報道しない出来事であります。私たちは世から一歩進み出て、この聖霊の流れの深みにまで潜らなければいけません!

④ 感謝と祈りを捧げる

ツイッターで、カルバリーチャペル西東京の牧師、再び山東さんが良いコメントを残しています。

原発や国政に意見を唱えると同じだけ、いやそれ以上、指導者を覚えて祈ることが求められている。そせて、神がそのことも支配し、運んでいる視野を忘れてはならない。1テモテ2:1から思う。
https://twitter.com/#!/Santou/status/160507559193739267

金曜の夜、健康ランドで教会の男性会を持ちましたが、そこで話題に上がったのが「日本には感謝が足りない。」ということでした、現代日本人は問題を指摘することには長けていますが、感謝すること、そして執り成しの祈りをすることには非常に後進的であります。モンスターペアレントのようになっています。

もしかしたら、教会の指導者に対してもモンスター信徒になってはいませんか?(参照:昨日説教「神の家の中にある反逆」(原稿 ・ 音声

けれども、そうした総国民モンスター化の状況で、感謝をささげ、執り成しの祈りをささげるところに、エジプトやイラン等にあるように、暗闇に光を投ずる神の驚くべき働きの一歩になると信じます。今日も、今週も聖霊に満たされましょう。主の愛に満たされて、少しでも周りの人々にイエス様のことを知っていただきましょう!

今一番、世界が見ないもの その1

昨日は、午後礼拝の終わりにみんなでサイゼリヤに行って、語り合いました。いろいろな話題が出てきましたが、興味深いのは池上彰氏のテレビ番組で、サウジアラビア取材とイスラムの説明が前面に出ていた、ということ(紹介 ・ 動画)。そして現地の人が、サウジがいかにすばらしい国かを宣伝していたかということでした。

私は、「池上さんは、いわゆる主流マスコミの人であり、リベラルの人だ。けれども、欧米が今、かなりイスラムが侵食している中、それを好意的に報道するという流れがあるので、それをそのまま日本の人たちにも啓蒙しようという意図があると思う。今、米国では公立学校で寛容を学ぶためにコーランを勉強する一方、聖書を一切禁じている。英国では何と、イスラム教徒に気を使って歴史でホロコーストそのものを教えることを控える動きが出てきている。」と話しました。

私が感じている問題点、そしてキリスト者が持つべき視点と祈りをお話したいと思います。

① イスラム諸国で起こっている現状を伝えない

池上彰さんの報道努力には敬意を表したいと思います。彼は「宗教」というものが世界情勢において大きな軸になっていることを、世界を廻っているがゆえに知っています。そして一般の視聴者の知識レベルを少しでも高めようとする努力が見えます。

けれども、マスコミというのは「左寄り」であることは確かです。私がしばしば紹介している、イスラム研究家である池内恵さんは、日本のイスラム研究家はイスラムを内在的に見ることなく、美化してきたという批判を繰り返しており、イスラムの現状をその内部から詳しく説明しています。そこに浮かびあってくるイスラムの暗闇は、西洋世界、自由社会にとって大きな警告となっています。

参照記事:「中東 危機の震源を読む

そして、キリスト教会もマスコミの一般知識レベルに留まっている所が多く、「イスラムとの対話」を挙げる人々がかなり多いです。聖書に従えば、イスラムは反キリストの霊そのものです。イエスが肉体をもって現れた神であり、神の御子であることを、明確に、信仰表明として否定しているからです(1ヨハネ4:2-3)。イスラム教徒に対しては、「愛による福音宣教」とそれによる「回心」が目標になるべきで、決して対話による共通項の発見ではありません!

② 現状を伝えるが、希望を伝えない

けれども、米国の保守メディアを始めとする、イスラムの脅威についての報道についても限界があります。確かにイスラムの暗闇を直視する必要があります。けれども、そこにあるまた別の流れを見ていません。イランについても、核脅威や人権抑圧については事実でありこそすれ、その中に生きている人々のダイナミズムを伝えることはしません。

中国についても同じで、家の教会に対する迫害や、民主活動家や独立運動への弾圧については報道しますが、けれども同時に、たとえ公認教会にも変化が出ており、極めて健全で、生き生きとしている諸教会があることや、家の教会において異端の教え入り込んでいるなどの現状は伝えない傾向にあります。独立運動も、インテリの人々が主導で行なっており、貧しい一般の人々は日々を生きることで精一杯であり、関心の薄いことについては伝えません。

北朝鮮も、そのおぞましい体制はその通りですが、そこに生きる人々はやはりそこが故郷だと思っており、その地を愛していることを見逃しています。その惨状を一番知っている脱北者でさえも、反北朝鮮報道に驚くときがあります。

リベラルも保守も根は同じで、「ステレオタイプ(固定観念)」を造り上げている点があります。民主・自由主義の世界に生きている人々には理解が難しいかもしれませんが、相反する出来事が同居しているという二面性を、そうした国々は持っているということを知る必要があるでしょう。

キリスト教会について言えば、私が好きではないのは、「聖書預言や人間の暗闇だけを強調して、神が預言を与えておられる意図を見失っている」という動きです。私自身、聖書預言を強調するものですが、それはあくまでも、「世という暗闇の中において、神は光として輝いておられる。神は救いをもたらすという情熱を持っている。」ということを伝えたいからです。世界や日本で起こっていることを並べ立てて、いかに世の中が悪くなり、そしてキリスト教会が背教に向かっているかを述べるにとどまり、自分自身はなんら行動に移していない姿。伝道もせず、宣教活動もせず、弱者や貧者に対する救済も行なわい姿には、辟易します。

その2に続く)