昔の人たちの知恵

今日(昨日?)は、久しぶりにプールに行って泳いできました。そして、ブログで個人的にコメントをしてきてくださった方と有意義な対話をすることができました。

それで、いろいろ原発に関わるいろいろな意見をネットで読みましたが、今日気付いたのは、「日本も北朝鮮と変わらないじゃないか。」ということです。北朝鮮では、「将軍様マンセー」というお題目を必ず自分の意見を発表する時に付けるのですが、日本は「菅政権はどうしようもない」と、どんな問題のことを話していても、出てくるのです!何の関係があるんだ?と思ってしまいます。これは反原発の人たちだけでなく、推進していたり、保守層の人々の口からも連呼のように出てきます。

そんな中で、実にうならされる良い記事を見つけました。

「最悪時」前提に設計見直せ 原発事故に学ぶ  畑村洋一郎 東京大学名誉教授

(上は日経の記事で登録会員にならないと読めないので、この記事を全文引用した福島県民の方のブログをリンクします。事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【1】  事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【2】)

また産経にも同氏に対するインタビュー記事があり、内容は似ています。

原発事故考(上)失敗学会理事長・畑村洋太郎

こうして感心して読んでいたら、なんと、福島第一原発を巡る政府の「事故調査・検証委員会」の委員長になった方なんですね、驚きました。

初めの日経のサイトの記事ですが、そこには宮古市の防潮堤についての話です。

 被災地を回って気付かされることは多い。岩手県宮古市田老地区では、新しい防潮堤は津波で破壊されたが、昭和8年(1933年)の大津波直後に設計された防潮堤は原形をとどめている。
 どういうことか。地形を見てみると分かる。新しい堤防は湾口に対して直角に、真正面を向いて建設されている。だから津波の勢いをまともに受けて破壊された。これに対し、古い堤防は湾口に対して斜めを向いている。津波の圧力を真正面から受け止めるのではなく、山の方向へ逃がす設計になっているのだ。
 昭和8年には高さ15メートルの大津波が田老地区を襲った。先人はどれだけ巨大な防潮堤を建設したところで、津波を完全に押し返すことはできないと悟ったのだろう。水が入ってきたとしても、退避のための時間稼ぎができればいいという発想だ。古い防潮堤の内側は高台から放射線状に道が延びるなど町全体が高台に逃げやすいようにできている。
・・・
 今回の復興でも高台に町を移転するというだけでいいのか。すぐに逃げられない高齢者は高台に住むとしても、むしろ防潮堤はあまり高くせず、いつでも逃げられるように適度な警戒感を持って生活した方がいいのではないか。

昔の人たちの方が、今の科学万能主義の考えよりもはるかに知恵を持っていたのです。「自然の驚異に対して人間の力が対抗できるわけがない、だからその勢いをある程度受け、それをかわすようにする」という発想です。そして「適度な警戒感を持って生活する」ほうが、よっぽど健全で理にかなっています。そして極めつけは次です。

 もう一つ、田老地区の古い防潮堤の水門の事例を紹介しよう。筆者が1996年ごろに訪れた際、手動で水門を開閉していることに興味を持った。「なぜ手動なのか」「電動では、電気が来なくなると閉められないでしょう」。案内人は答えた。今回再度訪れたところ、津波が来る前に水門は閉められ、被害を小さくするのに役立ったという。

あまりにも当たり前ですね!電気がなくなるのは。でも、これは頭脳明晰な東電の人たちも「想定」していなかったすぐれた知恵です。

私も常々思うのですが、昔の人たちのほうが今の私たちよりも明晰であったのではないかと思います。キリスト教の中でも言えるのですが、比較的昔の人々の言葉のほうがずっと残ります。「もっと改良しなければならない。」と考える最近の人たちの話のほうが、かえって洗練されておらず、瓦解することが多いです。

東電を責めない

そしてこの方の議論で優れているのは、これを「東電を責める」ことにしていないことです。

しかし最悪の事態を想定しなかったとして、東電ばかりを責めるのはどうかと思う。「あいつが悪い」と指摘するのは「別の人ならばうまくできた」という問題のすり替えにつながり、物事の本質を分からなくしてしまう。

その物事の本質とは何かと言いますと、「日本的企業の体質」であると言います。国の基準を守っているから問題ないという東電の考え方は、緊急事態では機能しない。」とのことです。けれども、これは企業に限らず、個々人の私たちがそういう体質を持っており、災害対策で重要なこととして、「(1)自分の目で見る(2)自分で考える(3)自分で決める(4)自分で行動する。この4つが重要で、第三者が決めたことに従って失敗すると、「自分は悪くない」と言い訳をする。」とのこと。

そう、つまり東電の問題だけでなく、私たち自身が問題なのです。何か問題が起こるとすぐに政府のせいにする、行政のせいにする、学校でも会社でも少しでも不都合なことが起こるとすぐに文句を言う、という「問題の摩り替え」を行っているのです。自分自身が、物事に果敢に対処する、頭を使って状況判断をする、クリスチャンであればそれが「御霊に導かれる」ことである、ということです。

続けて三陸海岸の話をしておられます。

三陸海岸では小学校で津波に対する教育や訓練を日ごろから実施していた。しかし、あらかじめ町や村が決めた避難所に逃げたのに津波にのみ込まれてしまった惨事がある一方で、決められた避難所よりもっと高い場所に逃げないと危険だと自分たちで早く判断して逃げて助かった小学校もあった。

私たちがしばしば行く東松島の被災地においても、仙石線で石巻と仙台を結ぶ列車がそれぞれ上り、下りの二つが走っていて、片方は地震後、マニュアルに沿って避難してその避難所が津波で流されたのに対し、もう片方は車掌らが避難所に誘導しようとしたところ、地元の人がとっさに、「ここは高台だから車内にいた方が安全だ」と叫び、皆、その言葉に従ったそうです。そしたら、津波がまさにその列車の周りに襲って、その高台だけが冠水しなかったとのこと。(運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」 JR仙石線野蒜駅

この咄嗟の状況判断が、東電はまるでできていなかったこと、けれども当人たちは「真面目に」現行通りのシナリオで動こうとしていたのです。(それでも例えば、現場の吉田所長が官邸や本部の指示ではなく、一時間注入をし続けたという面もあります。)

御霊に従うのは「もどかしい」

ぜひ、使徒の働き27章を読んでください。そこにローマに向かう船の中に、パウロを含む囚人が乗っている場面が出てきます。パウロは人々に注意して、「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます。(10節)」と言いました。けれども、「百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。(11節)」とあります。パウロは状況を見て御霊によって語ったのに対して、百人隊長はいわば「マニュアル」を信じたのです。

けれども嵐の中で死ぬ思いをしていた彼らは、パウロが次に神から語られた言葉はようやく聞く耳をもって、彼の指示に一つ一つ従いました。それで一人も命を失う者はありませんでした。

この前のローマ人への学びは8章前半で、「御霊に従う」ことでした。これが、捉えどころがなく難しいという感想が出てきましたが、その通りで御霊の導きはまさに「捉えどころ」がありません。マニュアル化できないのです。他の人が行っていると言って、それを行ってもうまくいかないのです。そしてある時にうまくいったことも、次にうまくいくかわからないのです。そして、パウロのように信用されなかったりすることもあるし、批判されることもあります。けれども、「これだ」と御霊に示されたことを果敢に行っていくことが必要なのです。

神の御声を聞くことは、たった独りでしかすることができません。他の人が代わりにすることができないのです。けれども、これを行わない限り信仰が芽生えません。これはもどかしいです、けれども聞き従った時に、これまで体験しなかった、不思議で新鮮な御霊の働きを体験できるようになります。

原発危機と日本

昨日、午後の第二礼拝の後、その疲れを取るようにチェンネルサーフィンをしていたところ、次の番組に釘づけになりました。

**********************
NHKスペシャル シリーズ 原発危機 第1回 事故はなぜ深刻化したのか

いまだに危機的な状況が続き予断を許さない原発事故。当初の想定を超え、水素爆発やメルトダウンなどが進行し、後手後手の対応の中で、汚染は拡大していった。
なぜ、ここまで事故は深刻化したのか。事故対応にあたった官邸、保安院、原子力安全委員会、そして東京電力はどう動いたのか。
当事者たちの証言と内部資料をもとに徹底検証する。
**********************

非常に衝撃的な内容でした。先日の記事「政府や東電を信用するな?」に書きましたが、私は、「いわゆる意図的な隠蔽工作はしていないだろうが、それぞれが目の前にある問題に対処するのに精いっぱいで、全体像を見ていないために、その実直さが裏目に出たのだろう」と思っていましたが、まさにその通り、いやそれ以上でした。

詳しいことはぜひこの番組を見ていただきたいのですが、再放送が「6月13日(月)午前1時30分~2時28分 総合 (12日深夜) ※近畿ブロックは午前1時43分~2時41分)」にあります。

情報の錯乱と連絡系統の破綻

東電は、予備電源不能、ベントなど「もうこれで終わりだ」という絶望に近い声を上げ、保安院そして官邸までの連携が取れず、官邸では各党の党首と会う菅首相が会っているので待っている状態。原子力委員会は「水素爆発は起こらない」と判断したこと。あまりにも情報が官邸に上がってこず、官邸と保安院と原子力委員会の連携が破綻したため、菅首相は有識者らの集まりを別に設定、そこで「二号機も爆発する」と言った人がいたにも関わらず、それが知らされず自衛隊が出動し、ちょうど到着して車両のドアを開けた時爆発し、自衛隊員が被爆したこと、避難民への指示も「マスクを口に当てて」ということしか言っておらず、そして風向きの情報が官邸にあったにもかかわらず、その指示を出さず風向きに避難してしまったなど・・・情報錯乱と混乱の連続の姿を見ることができました。

けれども同時に、分刻みの記録は東電も保安院も克明に記しています。官邸も、届いた情報に基づき、国権で全力挙げて東電を手助けしている様子も伺え、菅首相も与えられた情報と混乱収拾のために、常識ある行動をしていたことも見ることができます。

しかし、「不確かな情報を流すことはできない(官邸)」「官邸はどう見ているのだろう(保安院)」など、慎重さと相手への配慮(?)が大きな仇となりました。また、東電の現場を指揮する吉田所長は下請けの作業員に被害を負わせてはいけないと判断し「撤退」と言った言葉が、東電社員は残っているにも関わらず、官邸の首相を激昂させ、東電本社に乗り込み、「撤退は絶対に許されない」という怒号を上げたことなど、それぞれが真剣であるがゆえに、その混乱も拡大されていった様子も伺うこともできます。

問題は現政府にあるのではない

ところで、私はちなみに、原発推進論者でないことを前もって言っておきます。けれども、「想定外という東電の言い分は間違っている」というのは、はたしてその通りなのでしょうか?反原発の人たちは、今回の未曾有の津波を想定したのでしょうか?けれども、核分裂というとてつもない危険な作業をしている発電所は、あらゆるシナリオを想定しなければならず、千年に一度と言われる地震が完全に予想できなかったわけではないことも踏まえると当然責任はあり、このような混乱をもたらした危機管理の不備は菅政権にその責任を問われてしかるべきだと思います。

しかし菅首相を退陣させることによって、問題は解決するのでしょうか?菅直人という個人の判断ミスというよりも、むしろその危機体制を整備していないことこそが問題であり、今後誰が首相の座に就こうとも、全く同じ問題が起こると思っています。これは、小泉政権以後、次々と首相が変わる日本全体がおかしくなっていることにも関わっています。

私がいつも思い出すのは、アッシリヤによって滅びる前の北イスラエルの後期の姿です。新たに王が立てられるや、その家臣が引きずりおろし、自らが王となり、それが繰り返されてころころ変わっていく姿です。

「彼の侍従、レマルヤの子ペカは、彼に対して謀反を企て、サマリヤの王宮の高殿で、ペカフヤとアルゴブとアルエとを打ち殺した。ペカには五十人のギルアデ人が加わっていた。ペカは彼を殺し、彼に代わって王となった。(2列王記15:25)」
「そのとき、エラの子ホセアは、レマルヤの子ペカに対して謀反を企て、彼を打って、彼を殺し、ウジヤの子ヨタムの第二十年に、彼に代わって王となった。(同30節)」

北イスラエルは、「主の目の前に悪を行った」という根っこの問題があったために、王を摩り替えてもアッシリヤに滅ぼされたと同じように、日本にも現政権よりももっと深い、根っこにある問題があるように思われます。

太平洋戦争の教訓

私は東電・保安部・官邸にある意思決定のありさまを見るにつけ、太平洋戦争を決定せしめた指導部の意思決定を思い出しました。同じくNHKスペシャルがかつて、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」というシリーズで、「第4回 開戦・リーダーたちの迷走」という題名で取材をしています。

日本の国策決定の場は、全ての組織の代表者が対等な権限を持つ集団指導体制で、全会一致が建前。常に、曖昧で、玉虫色の決定が繰り返された。各組織のリーダーたちは、戦争に勝ち目がないことを知りつつも、戦争できないと言うことが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。海軍、企画院、陸軍、首相、それぞれが互いに責任を押しつけ合い、重大案件は先送りとなっていく。しかし、日米交渉が暗礁に乗り上げ、妥結の見通しがみえない中、首脳部は、国力判断、すなわち国家の生産力・戦争遂行能力のデータを総動員して、譲歩か、戦争かの合議を行う。結論は、各組織の自壊を招く「戦争回避」より、3年間の時間を稼ぐことのできる「開戦」の方に運命を賭ける。
日本のリーダーたちは、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、最後まで勇気をもった決断を下すことはなかったのである。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110306.html

彼らは、冒険主義ではありませんでした。それぞれの組織の中で誠実であり、むしろ慎重な姿勢を貫きました。しかし、だれもが「責任」いいかえると「指導権」を取ることを避けました。そして、彼らが最も気にしていたのは、実は「国民」でした。「戦争できないということが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。」がそれです。

これは第4回ですが、第3回には、「”熱狂”はこうして作られた」という題で、こう要約しています。

日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。
時には政府や軍以上に対外強硬論に染まり、戦争への道を進む主役の一つとなった日本を覆った“空気”の正体とは何だったのだろうか。日本人はなぜ戦争へと向かったのか、の大きな要素と言われてきたメディアと庶民の知られざる側面を、新たな研究と新資料に基づいて探っていく。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110227.html

実はファシズムと言われていた戦時中の日本と今の日本は同じであり、指導層は、マスコミによって煽られた人々の空気に縛られていました。小泉以後の自民党政権にしろ、現民主党政権にしろ、いや日本だけでなく、実はブッシュ大統領以後の米国の政権にも見ます。

要は、「相手が気になる」「全体を調整しなければいけない」という、実際は「リーダーシップの回避」という問題があります。「実直さ」「慎重さ」によってさらに増幅されて、制御できない原子炉のように全体がどんでもない方向に突入していくのです。

大局のない人々

とどのつまり、これは私たち一人一人の課題です。それは大局から計画し行動する、ということです。政府や東電を批判する前に、私自身それができているのか?と思うことがあります。

今回、被災地に行き、特に初動段階では、リーダーシップの必要性を切実に思いました。先がどうなっているのか情報が入ってきません。ですから、常識で考えたらすべてが「やらないほうがいい」ということになります。けれども、祈りつつ、「これではないか」と感じることを次々と自分で判断して、決定して行わなければいけません。それを行なうと、自分がもっとそのことに時間と労力を費やさないといけません。その過程で、批判や誤解が生じても、勇気をもって行動に移す時に、事が進んでいきました。

それを別の言い方をすると、「御霊に導かれる」ことです。御霊に導かれるときには、相手がどう思うかとか、全体の調整を見て判断することはできず、ただ自分の意志を独りで働かせることしかできません。指導者とは、つまり全体に与えられている姿を見て、信仰者であれば神から示された幻として受け止めて、それに信仰をもって反応し、行動に移すことです。「この人はどう思うだろうか。」「これをやったら、自分が労苦しなければいけない」などの懸念を振り払って行っていきます。

以前、「ロゴス・ミニストリーと日本の教会」という論考を書かせていただきましたが、そこに「内から外へ向く御力」という部分がありますが、神が与えてくださるのは大局なのです。そして小さな事柄は、その大局に付いてくるものです。小事を調整するあまり、大きな方向性が誤ったところに向いていることに気づかないのです。

私の住んでいるマンションの総会に妻が参加しましたが、ほとんどの人が発言を控えていました。一人だけが延々と話していたとのことです。けれども、これが太平洋戦争前の日本の縮図であり、原発事故の危機管理の縮図でもあります。「どうしようもないな菅政権」と人差し指を差している時、三本の指は自分自身に向いているのです。リーダーシップを取ろうとしない姿、全体の和を崩したくない姿、自分の生活を乱したくない姿、すべてを静かに丸く収めようとする姿、それゆえ何が実際に起こっているのか真相をつかめない姿、けれども、文句だけは人一倍言っている姿です。

「政府や東電を信頼するな?」

数日前、福島原発で実はメルトダウンが起こっていたというニュースが流れて、なおいっそうのこと「政府や東電を信頼するな」「彼らは嘘をついている」という言葉が多くなりました。そして、「風評被害」に対しても実際なのではないかという疑いを言う人たちが多くなってきたと思います。このことに関する私の困惑の思いを分かち合わせていただきます。

日本は良い国

私はアメリカに二年半、韓国にも三ヶ月、そしてまた別の国に五年ぐらい住んでいました。そして日本に再び定住する生活を送っているのですが、日本のことが本当に好きになりました。日本では当たり前にされている制度や習慣、態度が、他の国々では存在しておらず、当たり前に思っていたことが実は尊い遺産であり財産なのだと知るに至ったからです。

さらに、東日本大震災において被災地に何度か赴き、同じ体験をしています。当たり前に与えられていた安全や豊かさが取られた今、そこに残されたのは真の生きる意味でした。これまで安全や豊かさがあったがゆえに、人々が置き忘れていたものがそこにはあります。それがまことの神とキリストに出会う機会になってくれればと願ってやみません。

この前置きを言った後で極私的な意見を言わせていただきますと、政府や東電はずいぶん頑張っていると思います。誠実に国民に対して説明開示をしようと努力しています。「えっ?何を言っているんですか?!」と反発される人々も多いかと思います。けれども、日本在住の外国人たちがなぜ海外に逃げてしまったのかは、彼らにとって政府や企業はそれだけの存在だからです。自国の政府が隠し、また社会の中でも互いに騙しあうことが頻繁にあるために、災害のような危機に面する時は、全体で動くのではなく我が身の安全を守ることを優先するのです。

むしろ、今回政府や東電が犯してしまっている過ちは、過剰な慎重さにあります。科学的に正確でなければならないことだけに注目し(東電)、また後に国民から批判を受けないように言葉を慎重に選び(政府)、かえってその過剰な実直さから結果的に誤報を流しているのではないか、と感じています。そしてもちろん、目前の問題への対処に明け暮れた挙句、全体像を見ていなかった結果、問題解決する速度がいつも遅れているとも感じています。

政府は信頼できない???

そして本題に入りますが、私が驚いたのは「信頼できない」という言葉に含まれる、「過去は信用していた」という前提です。そもそも政府というのは信頼したり、頼ったりする対象なのか?ということです。

かつて鳩山首相がオバマ大統領に”Trust me.”と言ってみたり、ドラマでは頻繁に「それでも私はその人たちを信じます。」という台詞が美徳となっています。しかし人や政府、その他の事柄をそのまま信じていくということ自体が、実は「すべてを支配されている神」に信頼していないことを表れなのです。

東電についても、「東電はこれまで安全だと言っていたのに」と言っていますが、安全などもともと存在しないのです。むしろ、主の憐れみによってこれまで安全を保っていることができたのだ、というのが正解なのです。今も、放射線物質は原発から漏れていますが、主が憐れみ、守ってくださっているかぎり、絶対に安心なのです。もしそうでないなら、それでも御心の中で起こっているのですから平安です。

つまり、頼るべきお方は神のみであり、私たちの安全は主に属します。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。 (詩篇20:7)

これは国の軍事力により頼むのではなく、主ご自身に安全をより頼もうということで、日本について言えば災害に対して誰に拠り頼むのか、それは政府ではなく主の御名なのだ、ということになります。

そして詩篇91篇全体をお読みください。その一部だけを引用しますが、

主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。(3-5節)

疫病や恐怖は、まさに今、そのまま「放射能汚染の恐怖」に当てはめることができるでしょう。神を信頼している者は、基本的にそれらのものを恐れないのです。恐怖というのは、私たち人間にとっての敵です。神はイスラエルに戦いの勝利を与えられるとき、敵陣に恐怖を植えつけられました。それで例えば、300人のギデオンの軍が13万5千人のミデヤン人に勝利できたのは、彼らが恐れて同士討ちを行なったからです。恐怖は人間を破局的な行動に駆り立てる力となってしまいます。

けれども、恐れないのは無防備になることではありません。マルコ16章において、福音宣教に対する約束として、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、病院に手を置けば病人はいやされます。(18節)」とあります。この聖句を使って、蛇をつかむ集会を持ったりする極端なグループがいた話を聞きます。また無理やり病院に行かせず、適切な治療が受けられなかった信者が死んでしまった話も聞いたことがあります。それはすべて「主を試す」という罪であります。

けれども、福音宣教のように、主の御心を行なおうとするときに、やむを得ず生じる危険に対して、主が必ず守ってくださるし、また医療の手段がなければ超自然的に癒しも行なってくださる、という約束です。ですから無防備になれ、ということではなく、「注意を払うが、思い煩う必要はない。主が守ってくださる。」という立場なのです。ですから、私は毎日ニュース記事を読んでいるし、しばしば大気中の放射線量サイトも開いています。けれども恐れません。東北地方に行くのも、20キロ圏外であれば福島に行くのもためらわず行ないます。

むしろ、不安になったりするのは、本当の危険が迫っているからではなく、余裕があるからなのです。安全圏に自分がある程度いるので、思い煩っているために起こっています。風評についてこのような記事がありました。

まず、風評というのは危険が切迫しているから起きるのではないということがあります。むしろ、その時点での危険は「遠い存在」であること、そして危険回避行動について「選択の自由がある」という条件があって初めて「蔓延」するのです。まず「遠い存在」であることから、実態が良くわからないという状況になります。分からないから不安であるし、政府やマスコミは何かを隠しているのではないか、そんな疑心暗鬼も生むわけです。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/04/post-282.php

そしてあるツイッター記事では、「東京の人々は放射性物質が自分に降りかかる事ばかり考えている。津波の被害を受けて大変な人たちの事もっと考えたらどうか。被災地で原発の話している人は殆どいないと思う。東京より福島原発に近いのに。」という内容がありました。今でこそ少し安定して、テレビでニュースを見る余裕もあるので、被災地では放射能の話をしておられる人々もいますが、基本的にこれは事実です。

思い煩いというのは、「自分で支配・制御できなくなった」ところから来る不安であり、罪です。自分を支配しておられるのは神なのです。私たちはこれまで、自分たちで守るという、自存心、相互への依頼心によって生きていました。だから、政府や行政、その他の機関が機能していないと不安になるのです。けれども、神は機能しておられます!むしろ、頼るべきものが取られたとき、神が支配しておられることを知ることができて幸いなのです。

私の実家も、いろいろなものが神にあって取られました。それで、「すっきりした。これまで思い悩んでいたものが、はっきりと取られて、神の御心をはっきり知ることができた。」と両親は言っています。ある教会の牧師は、「教会堂がなくなってしまって、かえってすっきりした。」という大声ではいえない(?)感想も漏らしています。

主が避難所なのです。「わが避け所。わがとりで。私の信頼するわが神。(詩篇91:2)」・・・興味深い話を聞いたことがありますが、1980年代、老夫婦が核戦争の危機に対処するために、地球上にある住居地をくまなく、細かく調べたそうです。世界中でどこが核戦争の危険を回避できるか、平和と安全を確保できるかを決めようとしていました。研究と旅行をし尽くしました。クリスマスに、その老夫婦は母国の教会の牧師に、新しい住居からのクリスマスカードを送りました。フォークランド諸島です。ところがその「楽園」は、今や現代史で「フォークランド紛争」と呼ばれる、英国とアルゼンチンとの間の戦地になったのでした。

政府は神のしもべ

そして、私たちは政府に対して、また公の機関に対して(東電もある意味で公的な役割を果たしています)、どのような態度を取るべきか、見てみましょう。ペテロ第一2章13-17節です。

人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。

政府や行政は、私たちの神にその権威を与えられた、神のしもべです(ローマ13章1節)。キリストを信じる者は、これら政府などに従属していない神の子供であり、キリストにあって王であり祭司です(黙示1:5‐6)。日本政府も東電も神の御手の中で動いていることを確信することができ、ゆえに、政府を信じるとか信じないとか、まるで彼らの奴隷であるかのようにあたふたする必要はありません。

キリスト者はこのような自由と余裕を与えられているのですから、むしろ、積極的に神が置かれた権威に敬意と誠意を表していきます。善を行なっていきます。これゆえに、私は、批判しこそすれ、政府も東電も意地汚く罵ることはできません。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」とあるとおりです。そして全ての人を敬い、神を恐れ、王を尊びます。「日本人はお上の言うことに従う国民性を持っている」という人たちがいますが、私たちはお上だから従うのではなく、神の証人として従うのです。

それゆえ、私は自分の区にある災害対策室の人と話せたことを幸いに思いました。被災地で自衛隊の人たちと笑顔を交わし、挨拶をし、会話ができて幸せでした。そしてニュースで毎日見る菅首相や官邸にも、感謝しています。「菅首相、ご尽力ありがとうございます」と一言、メールにでも声をかけようかなとも思います。

そして私たちは、信仰は「議論」するものではなく、「行動に移す」ものであることを、ここで「善を行ないなさい」というところで見ることができます。政府や東電が間違った方向に進んでいると感じたのであれば、ぜひ祈ってください。神が私たちのために置いてくださった人々なのです!この日本の復興のために知恵が与えられるように、そして何よりも神の栄光が現れるように祈ってください。そして神のゆえに、彼らを敬ってください。

そして、この記事を読んでいる人で関東圏の人は、東電の恩恵を受けているから読めるのです。関東ではない人も、それぞれの電力会社が、24時間、間断なく電気を供給してくれていることを、主にあって感謝してください。私がいた所では、しょっちゅう抜き打ちの停電でした。デスクトップの人は、それまでのデータが消失することもよくあるのです。主の憐れみによって、このブログを読む電力が与えられているし、またそうした余裕も与えられているのです。主が少し思いを変えられれば、パソコンも津波で流され、火事で消失したり、何でも起こりえるのです。感謝してください。

そして私は今の日本の悲劇は、「指導力の欠如」だけでなく、「指導者が愛されていない、尊敬されていない」ことだと思っています。私たちは民主主義の国に生きている前に、神の国に生きている者たちです。表現の自由を悪口ではなく、尊敬と祈りのために費やそうではありませんか。

(さいごに)政府と東電の発表を信頼できない人へ
あのホリエモンがツイッターで面白いことを言っています。「政府や東電が信頼できないなら、民間のデータを参照すりゃあいい。これまでの膨大な研究結果もネットで閲覧できる。放射線被曝の基準も公開されているし統計的データを参照して作られた。それでも信用できないか?」ごもっとも!

ネタニヤフ首相の米議会演説

続けて、ネタニヤフ首相の米議会演説の話題です。ネタニヤフ氏の米議会演説を先ほど、すべて観ました。

Visit msnbc.com for breaking news, world news, and news about the economy

今、日本語のニュースサイトでこの演説の内容を調べてみると、「強硬姿勢崩さず」という言葉が多く出てきましたが、私は、clarityという言葉を思いました。つまり「明快さ」です。

私が印象に残っている点を書き記します。

***************
イスラエルは、中東の内で初めから民主主義と自由を固持してきました。米国が唯一、中東において民主主義と自由を輸出しなくても良い国です。北アフリカと中東の中にあるアラブ人の民主化運動は、彼らに同じ自由を享受する権利を示しているが、イスラエル系アラブ人はその自由を何十年も持っていました。

米議会は拍手と起立の渦に巻き込まれていましたが、一人の女性が抗議の声を挙げ、少し中断しましたが、ネタニヤフ氏は、「これこそ自由の印であり、反対表明を言えるのだ。」と歓迎する態度を示しました。これを現在の中東で行なうと、実力行使で押し潰されるのは、見ての通りです。

そして、かつても民主化の動きがかき消されてしまった歴史を思い出す必要があります。1979年のイラン革命、レバノンのヒズボラの台頭がその一つです。

イランの核兵器開発は長いこと行なわれていますが、2003年に一時期とまった時があり、同じ時期にカダフィもあきらめています。それは、あらゆる手段を辞さない姿勢を示したからであり、私たち、特に六百万人の同胞を失ったイスラエルは自衛権を有しています。

イスラエルは平和を渇望しています。エジプトとヨルダンとの平和条約が、それが結ばれる前の戦いを考えると、どれだけ貴重であるかをよく知っている。今はパレスチナ人との和平を望んでいます。その為には、痛みを通らなければいけません。ユダヤ人の郷土である「ユダヤ・サマリヤ地方」の一部を放棄しなければいけません。イスラエルは、その地域において外国の占領者ではなく、古来からイスラエル人の土地でした。アブラハム、ダビデ、イザヤ等、歴史の歪曲があってはなりません。

パレスチナ人も、その尊厳と主権と、経済的繁栄を享受する権利があります。それ故、パレスチナ国家が存在すべきです。事実、ここ二年間、私たちが検問所を取り外し、パレスチナの経済は10パーセントの成長を遂げました。

オスロ合意以降、歴代のイスラエル首相が、ネタニヤフ氏も含め、パレスチナ国家を推奨してきました。ところが頓挫します。その理由は明快で、「パレスチナが、その国家を認めないこと」にあります。その国家が、「ユダヤ人国家との共存」を意味することにおいてです。イスラエル・パレスチナ紛争の本質は、パレスチナ人の国家が存在できるかどうか、ではなく、ユダヤ人国家の承認でありました。47年の国連決議で、ユダヤ人の地とアラブ人の地の割譲案に対して、ユダヤ側は承認、アラブ側が拒否しました。オスロ合意以降の首相は、六日戦争でイスラエルが確保した領土のほとんどを譲歩したにも関わらず、拒みました。残念なことですが、パレスチナは子供たちにイスラエルを憎むように教育しています。

私にとって、「パレスチナ国家を承認します」というのが痛いことであるのと同じように、私はアッバス議長にも同じ痛みをしてほしいです、「ユダヤ人国家を認めます」と。

国境線引きは、実際の人口の推移を踏まえなければいけません。すでに67年以降の領土において65万のイスラエル人が住んでいます。そしてエルサレムとその近郊にも既に数多く住んでおり、その現実を踏まえなければいけません。入植地は交渉の場で決着すべきでしょう。ある入植地はイスラエル国家の領域外になってしまうかもしれません。けれども、67年以前の境界線に戻れば、イスラエルの防衛が不能状態に陥ってしまいます。

そしてパレスチナ国家が認められれば、当然ながらパレスチナ難民はその国家内に移動すべきです。ユダヤ人国家は、離散のユダヤ人と難民になったユダヤ人を吸収しました。

そして、交渉の相手は、イスラエルとの和平を望んでいる人々でなければいけません。ハマスは、その憲章でイスラエル懺滅を唱えているばかりでなく、ユダヤ人を殺せと提唱しているのです。ハマスは、パレスチナのアルカイダ版です。

そしてエルサレムは、イスラエルの主権下にあったときにだけ、三つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の自由が保持されました。エルサレムは分割してはなりません、イスラエルの首都であり続けるべきです。
(参照: イスラエル外務省の原稿の起こし
*****************

本当に原則的な話ばかりで、難しいことは話していません。実に、「民主主義」「自由」「安全保障」を大事にした演説です。彼は非常に流暢な英語で、米議会の人々を拍手の渦に導きました。これほど友好関係を築いている二国があるものか、と感心します。

彼が話したことは、私が日頃感じていることのほとんどであり、至極当たり前だと思っていることです。けれども、聖書を信じる立場として、ジョエル・ローゼンバーグ氏は、「神の土地の割譲」と「米国への依存」においてその間違いを指摘し、イスラエルが神に立ち返ることによってのみ平和は可能であることを述べています。

けれども、私はネタニヤフ氏の「パレスチナ国家案」には驚いていません。イスラエルは、その建国当時からアラブ人との共存、二国家、二民族の立場を有しており、戦争をしても、すぐに交渉の席に着き、譲歩をしてきた歴史を読んだので、その延長線上にあると思っているからです。エルサレムをヨルダンから奪還した時も、神殿の丘の管轄をダヤン国防大臣はすぐにイスラム宗教局に譲渡してしまいました。

しかし、何かにつけてパレスチナはイスラエルの譲歩がある度にかえって態度を硬化、そして暴力手段に訴えます。そのため、イスラエルが応戦します。その結果、管理地あるいは領土が拡がります。この繰り返しでした。私は、イスラエル人当人がパレスチナ人へ土地を譲渡する姿勢があっても、神ご自身がその主権の中で、ご自分の地を守られていると感じています。

(さらに、私は戦争が起こるのを望みません。ネタニヤフ氏の原則を曲げない姿勢より、かえって、大きな譲歩を申し出た首相の時のほうが、流血が増えています。そういった意味で、二国家を提案しつつ、さまざまな条件を付ける彼の手法は非常に賢いと思います。)

さらに、パレスチナ自治政府が、周囲のアラブ諸国で起こっている民主化の痛みを通らなければいけません。デモが起こった時に、今の指導層は許すでしょうか?イスラエルは、イスラエルの国を否定する人々の意見の表明までを許していますが、パレスチナ自治政府は、イスラエル国への支持をパレスチナ人自身が発言するのを許すでしょうか?

この点で私はネタニヤフ氏の提案に無理があると思います。自治区内に、真の民主化運動が起こり、激変が起こらない限り、真実な和平相手になることは決してないと思います。一般の人々に民主的思想が根付いてこそ始めての「国家」です。

そして最後に、自治区はもちろんのこと、イスラエル国内でさえその宣教が制限されている点においては、見逃されています。イスラエル国家自体は世俗民主主義なので、信仰の自由がキリスト者にも与えられていることはネタニヤフ首相の言っている通りです。彼は特に、福音派キリスト者に対しては他の指導者以上に寛容です。

けれども、実際は建国当初からユダヤ教正統派を政府の中枢に取り入れているため、さまざまな弊害が国内で起こっています。キリスト者の宣教活動については、そうした人々による反宣教監視活動が繰り広げられているのです。もちろんそれで神の働きが起こっていないということではありません。その制限の中で、福音の戸が開かれています。

(後記)こちらに28歳の時のネタニヤフ氏の討論映像があります。もう33年を経ているのに、彼の基本姿勢は変わっていません。そして論理的・雄弁であり、討論相手に対して紳士的であることも変わっていませんね。

「礼儀と敬意」伝道者ビリー・グラハム氏

以下のインタビュー映像は、ABCの記者が伝道者ビリー・グラハム氏の息子フランクリン氏に対して行なったものです。

主題は「神と政府」というもので、イースター(復活祭)の時にフランクリン氏の信仰を尋ね、また今の米国の政治的状況や、次期大統領選の候補者、オバマ現大統領に対する意見などが盛り込まれています。フランクリンさんは、父ビリーと同じく、単純明快で、大胆な福音伝道の熱意がこのインタビューでも感じ取れました。私も未信者の人たちには、こんな感じで接することができれば、と願いました。

話が、「お父様は、今のアメリカをどのように見ておられますか?」と政治面において尋ねられた時、最近の会話で出てきた言葉を紹介しました。

私が生まれた世界は、今や認知することができない。」つまり、「当時は、一般の人々は互いに礼儀があった。政治家は、たとえ同意できないとしても、互いに敬意を払い、共に働いた。今日の国では、これらが全て変わってしまった。」とのこと。

私も、これを感じています。アメリカもさることながら、日本でも相手に対する敬意と礼儀が失われているように感じます。確かに私たちは、民主主義国家に生きている中で権威のある人々に対して監視を行なわなければいけません。それ相当の批判を加えねばなりません。けれども、もはや二項対立(英語ではpolarization)になるざるを得ないほど、相手をけなし、こき下ろすという雰囲気が満ちています。

私は今回の地震・津波はある意味、幸いに感じます。これまでの豊かな日本、けれども何かを失い、向かうべき方向を失って閉塞的になっていた時に、突然、生活基盤が崩れたことにより、これまで埋もれていた協働の精神や助け合いの精神が生まれてきたからです。物がなくなったからこそ発揮できるようになったのです。このことによって、これまでは自分自身に壁を作り、相手と距離を置いていた人々、重箱の隅をつつくようにして相手の短所をあげつらう態度が、少なくなってきました。

申し訳ありませんが、私は民主党の中に相変わらずその悪い部分がたくさんあるのを見ます。私は政権としての民主党、この有事に際して果敢に取り組んでいる政府には応援したいと思いますが、党内で起こっている引きずり降ろそうとしている姿を見るに付け、「この災難をもってしてもまだ気づかないのか。」とあきれてしまいます。以前「民意の恐ろしさ」についての一連のブログ記事を書きましたが、今の民主党がまさに、最近の日本全体の悪しき部分の縮図であったのではないかと感じています。

私は、「感謝の力」という話題でも一連のブログ記事を書きました。普段なら、在日米軍と自衛隊のことを批判的に見ていた人も、また警察の不祥事などよく思っていなかった人々も、彼らの犠牲的な救援活動に敬意を払わない人がどれだけいるでしょうか?「平和」や「正義」という名を借りた権威や権力に対する謗りを私は以前から感じていましたが、それが少なくなってきました。

行政に対しても、私も昨日足立区役所に赴きましたが、今の危機に際して、最大限、柔軟な対応をしてくださいました。道路会社や鉄道会社の活躍ぶりも世界では賞賛の的になっています。「税金の無駄遣い」とマスコミで非難されていた人々による、その復旧工事のすばやさには誰もが驚いています。

そして今、ものすごく袋叩きにされている東電ですが、私は必要以上に批判したくありません。この災難で彼らは十分に懲らしめられています。まず、千年に一度の未曾有の地震に対して、福島第一以外の太平洋側の原発がきちんと冷却等の機能が働いたことに対して、神に感謝しています。そして「第一」においてでさえ、チェルノブイリのような全面拡散に陥ることなく、東北自動車道を通行止めにする必要の無いほど放射線量が抑えられていることを、神に感謝したいと思います。

そして現に、このようにインターネットを使って意思疎通ができるような電力を今も供給し続けてくれている、大勢の東電職員と下請けの会社の人々に感謝しています。もちろん彼らは営利活動で行なっているわけですが、その労働に対する感謝をなくして、ただ文句ばかり言っているのでは、「モンスター・カスタマー」の何者でもありません。

その上で、これからの原発政策をどのようにすべきか、エネルギー政策はどうすべきか、具体的な、展望的な構想の議論をすべきでしょう。建設的な批判はどんどんすべきでしょう。

この前、近所の武道館の福島原発の被災者への働きかけをしていたボランティアの方々と食事を共にすることができました。いろいろな“変な”人がいたようです。ある市民団体は、被災者の人たちの事はそっちのけで、武道館の前で政府批判を繰り返していたそうです。またあるマスコミの人たちは、ボランティアの人に「被災者の人たちで、何か行政に対する非難、苦情はないですか?」とインタビューします。初めから「行政批判」の記事を書くための裏取りをしているだけです(誠実なマスコミの人もおられたそうです)。

私たちは、二項対立になりそうになったとき、へりくだって、歩み寄りをする努力が必要だと思います。ピリピ人への手紙を思い出すのですが、一致すること、相手を自分より尊いと思う態度、これらが自分自身ではなくキリストを求めることに等しいことを使徒パウロは教えました。

「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:2-3)」

原発より恐ろしいもの

私は、今回の大地震と津波、そして福島原発の一連の動きにおいて懸念しているのは、世界そして日本における「パニック」です。先の記事で、大地震と津波は神の注意喚起であり、日本のクリスチャンの伝道の契機、また日本の人々が福音に耳を傾けるべき神の御声であることをお話ししました。けれども、今回の原発に関わる恐れから生じる混乱は、全世界を巻き込む悪魔の仕業だと考えています。

まず、初めにお断りしたいことは、私はここで原発存続の是非を問うているのではありません。ある方は廃止を訴えるしある人たちは推進します。けれども、今、問題なのはそのことではなく、世界的に起こった現象、マスコミに煽られた一般の人々、そして国々の動きまでも動かしてしまっているほど撹乱していることです。

私は全く同じことを、ブッシュ大統領が指揮したイラク戦争についても言えました。あの時も、世界中から沸き起こったように反対運動が起こりました。マスコミが世界中の人々を煽りました。けれども、それによって蹂躙されていたイラク一般民衆がいて、結果的にイラクが民主化されて、中東全域が安定したという効果についてはどこかに追いやられています。

クリントン政権であったときも戦争を発動していましたが、全く非難がありませんでした。そしてたった今、オバマ大統領が、ブッシュ政権の時とまったく同じ根拠でリビアを攻撃しています。しかも、ブッシュ大統領の場合は、国連のみならず議会も通して行なったことなのに対して、オバマは今回、議会を素通りしていています。そして、「レジーム(政体)転換のための軍事介入」を非難している雰囲気が世界に微塵たりともありません。

ちなみに私はブッシュ大統領の決断には同情的です。またオバマ大統領の決断には賛成です。むしろなぜもっと早く軍事介入しなかったのか、とも思っています。理由は同じで「一般民衆に対する殺戮」を止めるためです。世界の大国だからこそできること、責務があります。今回の自然災害に「トモダチ作戦」によって米軍が真っ先に来てくれたように。けれども、そうであっても戦争の是非は人それぞれであり、それ自体は議論の余地があるのです。今、問題にしているのはこういうことではなく、あまりにも冷静さを欠いた不安と混乱であります。

聖書は「恐れ」や「不安」が神から来たものでないことを教えています。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(1ヨハネ4:18)」

そして神は、ご自分を信じない者たちに対して、この不安と恐れを植えつけることによって裁きを行なわれます。数ある戦いにおいて、その手法を神は使われました。例えば、三百人のギデオン率いるイスラエル軍が13万5千人になぜ勝てたのか?

「それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。(士師記7:21-22)」

恐れと混乱から来る同士打ちです。現在、数多くの在日の外国人が国外避難しています。先日、韓国の人たちの住む東京のある地域を通りましたが、店の大半が閉まっていました。ある所は、教会そのものが閉鎖しています!一般の人たちだけでなく、フランス、アメリカ、中国、韓国、台湾などなど、政府を挙げて根拠に基づかない噂によって行動を起こしています。このことによって、日本に対する世界の評価が下がります。経済活動が停滞します。日本は経済第三の大国ですから、もう既に世界に経済不況に拍車をかけています。そして何よりも、今の被災地救援活動、その後の復興活動に大きな支障をもたらしていることが深刻です。

そして最も深刻なのは霊的影響です。以前のイラク戦争の時には、伝道をするたびに「ブッシュ大統領はクリスチャンなのになぜ戦争をするのか。」という質問を受けることによって邪魔がありました。今回は、このように日本からいなくなる、あるいは来ようとしないことで、外国人のクリスチャンまでがその影響を受けて、日本での地道な伝道活動、また日本への宣教活動に支障が出ていることです。私は今、この領域で悪魔が激しく攻撃しているのではないかと思います。

いくつか原発についての啓発的記事をご紹介したいと思います。一つは、原発で働いていた方が非常に分かりやすく説明しているブログがあります。

http://ameblo.jp/fabridge/

下のブログには、現状の分かりやすい説明と数々の有用リンクがあります。

http://ameblo.jp/satoshitaka/entry-10834940369.html

元原発関連職員であられた方で今は伝道師になっておられる方が、記事にしておられます。

http://sccrblog.blog137.fc2.com/blog-entry-31.html

そして英文ですが、どうか英語の話す外国人の方にご紹介ください。16年間核関連の仕事をされて、今はカリフォルニアにあるカルバリーチャペルの副牧師の方が大変、憂慮されて教会のサイトに啓発的記事を図入りで掲載されています。

Perspective On Japanese Nuclear Issue

【補足】「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳

(補足)アメリカという国は、言わば「文化戦争(Cultural War)」とも言われる、社会的、倫理的価値観の激しい衝突が起こっている所です。(Facebookのプロフィールに、「宗教」「政治観」そして「恋愛対象」と書いてありますね?これは友達を作るときに、必ず知っておかなければいけない背景であり、作成者はその衝突をよく理解しています。)

アメリカがベトナム戦争を起こした時に、反戦運動が学生の間で荒れましたが、それは自然発生的なものではなく、麻薬や東洋神秘、フリーセックスなどを標榜する「ビート・ジェネレーション」と呼ばれる人々の強い影響があります。政治的には極左であり、非常に思想的な人々です。

ちなみに、そうした運動からヒッピーと呼ばれる青年たちが現れ、さらにそのヒッピーたちから「ジーザス・ムーブメント」と呼ばれる、新生したクリスチャンの誕生があり、今、アメリカ福音派教会の指導者の多くがその世代の人たちです。

そしてそうしたビートニック(ビート世代の人々)の影響を受けた人々が今、社会的地位を得ており、大学教授、政治家、マスコミなどでアメリカ全体に影響を与えるようになりました。その結実がバラク・オバマ氏の大統領当選です。

私たちは、彼が演説をしているのを見たときに、「私たちが知っているアメリカのイメージとどうしても合わない。」と感じていました。彼から出てくるものが「暗い」のです。私たちの知っているアメリカ人が持っている、底力のような明るさがないのです。

けれども私たちが知らなかったのは、こうしたリベラルの人々の存在でした。彼らはリベラル(自由主義)と言っても、アメリカの建国精神の基盤であるキリスト教への対抗としてのリベラルを位置づけており、キリスト教的伝統価値観からの自由を強調します。

そして教育や知性を強調します。したがって、意識的にキリスト教の神を否定して、自らを知者であると誇る傾向があります。まさにロマ書1章21節にある、「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは暗くなり、その無知な心は暗くなったのです。」という描写が当てはまるのです。

この箇所の後に、パウロは偶像礼拝と同性愛を挙げていますが、まさにそれをこの流れにいる人々は、そのことをも東洋神秘と同性愛行為によって実現させてしまっているのです。

したがって、アメリカの保守的な人々、特に福音派の人々を、イラク戦争を契機に批判し、日本のキリスト教界までが批判していたとき、私は非常に危惧したのです。彼らを批判するということは、つまり、反キリスト教傾向の強い米国自由主義の台頭を許すことに他ならなかったからです。

これが私が、「アメリカの世界への関与自体を否定すると、もっと大変なことになる。」と言った所以です。

感謝を知らないというのは恐ろしいことです。残されているのは無機質な暗闇と、知識によって高慢になった人々による精神的蹂躙です。そして、愛や平安とは裏腹の、激しい敵愾心と憎悪です。

そして既存のもの、先代のものを尊重しないのは、後に全世界を支配する反キリストを迎え入れることに他なりません。

「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。(ダニエル11:37)」

私たちは終わりの日に生きています。感謝することは、もはや、してもしなくてもいいような選択ではなく、意識的に決断しなければいけない時代に入っています。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は自分を愛する者、・・・感謝することを知らない者(になり)(2テモテ3:1,2)」

「感謝の力」 - ④たとえ敵であっても

アメリカとは正反対の共産主義国は、私たちの国の近くにもあります。言わずとしれた中国です。これまでの話だと、私が中国に激しく反対する意見を言うと思われるかもしれません。矛盾するようですが、私は中国にも感謝しています。30年間の開放政策のおかげで、人々に制限付きですが自由が与えられ、とてつもない問題を抱えながらも、神の御業がものすごい勢いで進んでいるのですから。福音を信じる自由を少しでも与える国は、神が祝福してくださいます。今の経済発展も、神の祝福があるからだと私は信じています。

そしてその制限がかえって、自由民主主義国に生きる私たちにはない純化を与えてくれます。そこには実質的な集会の自由がありません。その代わり、教会は大集会を開いて、商業的に人々を招きいれようなんていう発想をしません。また、情報が制限されていますから、アメリカや韓国で発生するあらゆる教えの風も、そこで遮断されます。また、既存の宗教(キリスト教、イスラム教、仏教、カトリック、道教)以外は「迷信」として禁じています。ですから、変な異端を持ち込む余地も少なくなっています。

イスラム教の国も同じでしょう。そこで回心したキリスト者は、私たちと違って、献身というものをよく知っておられます。神に服従することを彼らはもともと教わってきたので、キリストを主とするということも容易に理解できるのです。彼らに足りなかったものは、アッラーに存在しなかった「愛」です。けれども、キリストの愛を知り、それで激しく主を愛し、仕えるのです。

だいたい、こんな感じです。個人的生活でも、社会的生活でも、そして国民的、世界的情勢でも、「感謝」こそが、私たちを強める力であることを思わされているこの頃です。

「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳

数年アメリカに住んだ者として、私は、アメリカの世界における関与は、非常にその国民性を表したものであり、面倒くさい面もあるが、それ自体を否定すると、もっと大変なことになると感じています。

アメリカは曲がりなりにも、ユダヤ・キリスト教価値観を有する建国精神によって成り立っています。そして、個々人の責任において働くという「自由」の精神を強固に持っている人たちです。それゆえ、彼らが関与するところに小さな規模で不条理や不正義があったとしても、全体的に見ると良い物が生まれています。

例えば、お近くの韓国をご覧ください。今では信じられないかもしれませんが、20年数年前までそこは軍事政権であり、独裁でした。当時の世論は「独裁の韓国、そしてそれを後押しする米国」というものが主流でした。キリスト教会もおそらくそうだったでしょう。でも、アメリカが見据えていたのは、反共への防波堤であり、同じく自由民主主義を掲げる韓国を支援することでした。

たとえ独裁が間違っていたとしても、そこで指導者らは現実的な経済開発を推進し、植民地支配を最近まで受けていたのにも関わらず、日本からの経済協力を惜しみなく受けていた彼らがいたからこそ、今の豊かな韓国があるのです。したがって、独裁制よりも、もっともっと恐ろしい、共産主義・全体主義に対する歯止めを、アメリカは自ら意識しているか、していないかにしろ、実際上行なっていったのです。

そして幸いなことに、韓国民たちが、自らの力で民主化を成し遂げ、かつアメリカとの関係も断ち切ることなくその国を守り続けているのですから、大したものです。

そして日本に、膨大な数の韓国人が来て、交流を深め、日本の教会も多大の恩恵を受けています。もし韓国軍があの朝鮮戦争で血を流していなかったら、米兵が命を捨てていなかったら、どうなっていたか想像してみてください。今、北朝鮮は数年に渡って、世界で信仰の自由が蹂躙されている国として第一位なのです。そこでは信仰者が強制収容所に入れられ、言語に絶する仕打ちを受け、死んでいっているのです。

日本のキリスト教会では「平和論」を掲げ、あらゆる形の戦争を不正義だと断じる傾向がありますが、アメリカ人に聞かなくてよいでしょう、年配の韓国の人々に同じように朝鮮戦争にも適用させて語ってください。顔を真っ赤にして怒られるでしょう。彼らこそ、共産主義の恐ろしさを身をもって味わった人たちですから。

私は戦争は、決して軽々しく起こすものではないと思っています。最大限回避すべきものです。戦争は負けるほうはもちろんのこと、勝つ側にも深い傷を残す悲惨なものだからです。けれども、実際に戦争が起こるときに、それを悪だと断じることは私にはできません。なぜなら、その背景に戦争と同じぐらい、継続的に苦しみを受けている人々が大勢いることが多いからです。

ですから、今の時代にアメリカという国が存在していることを、神に感謝しています。今となってはリベラル左派が幅を利かせていますが、それでも保守派が抵抗して、拮抗している状態です。カナダや欧州では、公共の電波機関を使ったキリスト教放送が禁じられているのです。なぜなら、「同性愛者の権利を守っていない」という根拠です!(ある意味、日本より自由がないのです。)ですから、西洋で唯一、そのユダヤ・キリスト教伝統を残存させているのはアメリカであり、それゆえ私は貴重な国だと思っています。

そして良く考えてみれば(「はげ」がどうして感謝できるのかを良く考えるのと同じように!)、アメリカが私たちを助けこそすれ、何か敵対したでしょうか?多大の経済支援をしてくれました。また思想的にも自由や民主主義の概念を日本の敗戦後教えてくれました。そして一般市民のキリスト者は、何とかして福音を伝えたいと思い、世界中に宣教師を送り出しています。

彼らの世界的視野や「人々に無償で分け与える」という精神的基盤がなければ、今の世界は、そして日本はどうなっていたでしょうか?今の日本人のキリスト者に、経済的に、そして霊的に世界に貢献したいという情熱を持っている人々がどれだけいるでしょうか?「受ける側」で考えずに「与える側」で考えてみたらどうでしょうか?

あれだけ世界が批判したイラク戦争も、民主化された政権下で宣教師が国内に入ることができるようになりました。それでも絶対的に悪であったと断じることができるのでしょうか?その戦争が正しくなかったとしても、神がすべてを善に変えてくださる、という信仰でどうして見ないのでしょうか?

「アメリカが正しいか、間違っているか」という視点ではなく、「神がこの状況を通して、何を行なっておられるのか」「神が、世界に対して魂の救いをどのようにして行なわれるのか」という視点でご覧になられたらいかがでしょうか?

アメリカ人の宣教に、また韓国人の宣教もそうですが、問題がないということではありません。いや、数多くあります。けれども、「もし彼らが情熱をもって福音を伝えてくれなかったら、いったい日本は、世界はどうなっていたのか?」と問い直せばよいのです。どれだけ感謝すべきか分かりません!

アメリカについて神に感謝すべきことは、まだまだあります。

ですから、アメリカの諸問題は問題として捉えますが「感謝しています」という前提をもって発言するのです。