「感謝」の力 - ②私が保守的な訳

そして政治的な見方についてですが、私は日本キリスト教会では少数派の保守的な考えを持っています。米国でその多くを学びましたが、キリスト教的価値観に基づく保守主義です。

それは、本質は「政府」という機関にあるのではない、という考えです。何か社会的な問題が起こると、必ず「政府がいけない」「このような教育を行なっているからだ」という話になっていきます。そして政府や公的機関にさらに積極的な関与を求める考えを多くの人が持ちます。おそらく日本のキリスト教の関係者も大半がそうでしょう。

けれども、私は本質は「神と個人の関係にある」と信じています。政府は神ではありません。政府が何かしてくれるのではありません。神が政府を置いてくださり、その政府が果たすべき役割はありますが、政府にできることはごく限られたものだと考えています。

政府に対して過度に非を訴えることは、言い換えると政府にそれだけ大きな役割を期待しているということです。政府が人を治めるという考えです。けれども、神ではなく「人」が他の人を治める時に、そこには神が生来与えておられる自由と人権を蹂躙するようになる、と感じています。

ですから私は、まず第一に、今の政府、また行政に感謝する立場を取りたいと思います。以前、民主党政権について一連の批判記事を書きましたが、それでも、彼らがマスコミには出てこない地道な努力をされているのだろう、という思いを決して忘れることなく、感謝の気持ちを表したいと思います。

それでもって、政治家に訴え、意見を投稿し、選挙時には深く考えて投票するという姿勢が正しいのだと思います。

そして第二に、問題を専ら政府のせいにしないことです。「自分たちが変わらないで、どうしてその自分を代表する国が変わりえるのか?」という考えです。この個人的責務において自由が与えられたら、それこそ真の民主主義であり、またその国の一市民となることができる、という考えです。

この考えを大きく拡げますと、世界情勢にも同じことが言えます。9・11の米同時多発テロ以降、世界に軍事的・経済的関与を行なっているアメリカに対する世界中からも猛烈な反発が起こりました。イラク戦争においては、堰を切ったように米国を憎む空気が流れました。これは日本のキリスト教会においても同じでした。

けれども、ここにも大きな矛盾があります。それは、世界で起こっている多くの事象をすべてアメリカに結びつけるということは、逆に言うと、世界の中心はアメリカであることを認めていることになります。そして、世界を動かしているのは神ではなく、アメリカなのだと暗に宣言しているに過ぎません。

違います、世界の中心は神ご自身であられ、その神に私たちが礼拝を捧げているのです。アメリカは所詮、世界の一国にしか過ぎず、その果たせる役割はごく一部に限られているのです。そして世界で起こっている問題は、本質的に、それを起こしている当事者の責任であり、彼らがその問題を克服することこそが、真の解決につながります。

今回のエジプトの問題に当てはめるなら、エジプトの次期政権を誰に委ねるかをエジプト人国民が決めることによって、民主化になるかイスラム化されるかが決まるのです。

「感謝」の力 - ①「はげ」を感謝する?

私たちが海外にいた時に、教会の伝道師さんが礼拝で、1テサロニケ5章にある「すべての事において、感謝しなさい」という御言葉から説教をされた時のことを、今でもよく覚えています。

出だしが、ある牧師さんが「自分がはげであることを、どのようにして神に感謝すべきか。」と悩んで、いくつかの項目を挙げたという例話でした。私も30代に入った後で少しずつおでこが広がっていたので(笑)、興味深く聞きました。

その後で、聖書全体から感謝することについて説き明かされたのですが、「感謝」というものをこれまでいかに軽く考えていたかを思わされました。「感謝することは、まさに神の前にへりくだる行為であり、そこから神の力が自分から湧き上がり、神への献身を新たにできる」という悟りです。

その礼拝の帰りに、妻に「今の日本に足りないのは、もしかしたら『感謝する』ことかもしれない。」と話しました。それに関連する記事を「今の政治(そして福音宣教)に必要なのは」という題名で書いています。

このことは、私がキリスト者として政治的なことを考える時、世界情勢を考える時でも同じことが言えるし、また個人的、霊的な側面においても同じことが言えます。

例えば、先に書いた「キリスト者が祈るべき『エジプト』」で、今の混乱のエジプトの現場からの声で、「エジプトで神がいま行なわれていることで、賛美しています。エジプトがニュースで取り扱われることによって、この国の歴史の中で、これほど多くの人がエジプトのために祈っていることはなかったと思いませんか?」という発言がありましたね?日本と比べて桁外れに大きな問題を抱えているその国において、こうした見方を持っているのです。この、神への感謝と賛美に、どれだけ生きた力が働くか知れません。

要は、環境や周囲のせいにしないことです。全てのことが神から来ているという主権を受け入れて、神の前に出ていく時に、試練の中の知恵が与えられます(ヤコブ1:2‐8)。周囲の変化に左右されない、不動の神の見方で物事を見ることができることです。

私は日本の宣教の状況に感謝しています。非常に小さい教会が点々と存在し、しかも働き人が足りないため、教会の戸が閉じられていっていると聞きます。何を始めるにおいても、不足した状態です。

けれども、まず福音を語る自由が与えられています。政治的にはもちろんのこと、霊的にも、先に「韓国の宣教報告」で書きましたが、教会文化が存在しないために、かえって純粋に聖書から福音を聞く耳を持っておられます。

「ネグレクト」と聖書命題

これまで、日本の政治やら世界の動きやら、いろんなことを書いてきましたが、身近な社会問題を考える機会が与えられました。一つは「家庭内暴力(DV)」そして、もう一つは「育児放棄(ネグレクト)」です。

しばしばニュースで出てくる問題ですが、たぶん皆さんの周りでも単なるニュースではなく身近の問題として感じておられるものと思います。

日本は非常に秩序があり、静かさを好む良い社会だと思いますが、それが裏目に出て、いろいろな問題が起こっています。もちろん世界的な問題ではありますが、日本の社会と文化でその出方が特徴的です。

次の英文の記事で、はっとさせられました。

the 68-year-old director spent 15 minutes issuing a stern warning about the dangers and delusions of living through virtual media. “All of our young people today derive their pleasure, entertainment, communication and information from virtual worlds,” he declared. “And all of those worlds have one thing in common: They’re making young Japanese weak.”

Miyazaki ticked off the usual suspects – cell phones, emails, video games, television – and he also included two more categories: manga and anime. “These things take away [young peoples’] inherent natural

strengths,” he continued, “and so they lose their ability to cope with the real world. They lose their imaginations.”
https://www.adbusters.org/magazine/86/private-worlds.html

宮崎駿と言えば誰でも知る人となりましたが、私は彼が「千と千尋の神隠し」を制作したとき、ものすごい警戒心を覚えました。外国の人にはわからない領域かもしれませんが、私たち日本人の幼い頃の、神社にまつわる原体験を使って、ただでさえ閉塞的な日本社会を、仮想の世界に引き込むつもりなのだ、と強い憤りを覚えました。

そして彼はそれを確信的に行っていたことを覚えています。ところが、今になって本人が「今の日本の若者が、楽しみや娯楽、意思伝達、情報を全て仮想世界から得ている。」との警鐘を鳴らしているのです。そして、「携帯、メール、ビデオゲーム、テレビ等が、彼らの内在する力を殺いでいる。その為に現実社会に対処する能力を失っている。想像力がないのだ。」と言っています。

最近、NHKスペシャルで、シベリア抑留者を帰還させるよう圧力を受けたソ連が、彼らを「赤」にしてから帰国させるという政策を取ったことを見ました。けれども、囚人間の競争が激化し、互いに吊るし上げをしている姿を見て、ソ連当局自身が大変憂慮した、という話を聞いて、「これは同じだな」と思いました。

私は、この秩序正しい、静かさを好む日本社会が好きです。けれども日本に戻ってくる度に異様に感じるのは、電車の中で、「携帯電話の使用を控えてください。」というアナウンスがある反面、誰も電話では話さないのですが、半数いやそれ以上の人が携帯の画面に向き合っていることです。携帯で大声で話してうるさいほうがよっぽど健康的ではないか?と思ってしまう程です。

これでは人の想像力を減退させます。自発的に何かをする力を減らします。人々との直接の接触によるストレスはある意味、とても人間存在にとって大事なのに、それから回避することによって「自我」を増大させています。

私たちが今いる所に引っ越したとき、互いの誤解で、実際に荷物を運んでいる若者が怒り始めました。私たちも言いたいことは沢山ありましたが、相手は自分が完全に正しいと思っており、別れ際は、目つきが変わって暴力でも振るうのではないかという恐れさえ感じました。最近の若者は「すぐに『切れる』」という言葉を思い出しました。

そして、ある人から、最近の若いお母さんは、子供に対してすぐに何かを与えることによって静かにさせる、子供に実践的な躾や教育をしない、という話を聞きました。例えば、電車で子供が泣いたりするのはある程度、許容されなければいけないのですが、それをひどくいやがる雰囲気が立ち込めているためか、すぐにお菓子などを与えて静かにさせようとする、とか。

「静か」なのは良いのですが、「煩さ」がないことはある意味、恐ろしいことだと思います。「静かさの中にある緊張状態」とでも言いましょうか、あのぴりぴり来ている姿は恐いです。

「自分」というもの以外の外の世界との接触の仕方が、分からなくなっている感じがします。そして、想像力を働かせて対処する力が殺がれているのです。

特に夫婦の領域、それ以上に子育ての領域は、聖書に書かれてあるとおり、最もこの外との世界の摩擦が多いところです。最も想像力を働かせなければいけない領域であり、そして自己犠牲が最も要求されるところです。もう結婚する時期だから、また結婚したのだから子供を生まなければ、という社会通念上それらを行うのですが、その外の世界との摩擦と接触に耐えられず、すぐに切れる、怒る・・・という風になっているのかなあ、と思います。

急に大声を出して怒っているお母さん・・・よく見ると相手はまだ乳児だったりします。

これと、これまで書いてきた日本の政治と社会、世界の国々の動きなど、一つのテーマが貫かれているように思えます。「自分」です。自分を愛し、権威といわれているものを侮るという世の終わりの兆候なのです(2テモテ3:2、ユダ8)。

読み応えがあった新聞記事は次です。

「児童虐待を考える」

しっかりしたルポ的な取材に基づいています。

そこに共通して出てくる児童虐待と放棄の原因が、「親から虐待また放棄を受けている」というものでした。この負の連鎖を聞いた時に、次の御言葉を思い出しました。

「父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(出エジプト34:7)」

そして、その連鎖を断ち切る福音がエゼキエル書に書いてあります。

「しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。

しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。(18:10-17)」

たとえ親が愛情を自分に注がなかったとしても、御霊によって、キリストにある神の愛が心に注がれることによって、その連鎖を断ち切ることができるのです。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」

Oh, freedom loving America! – What’s the matter with you?

I wrote an article below in Japanese about the news that President Obama supported the building of mosque near Ground Zero.

Obama Slammed, Praised for Backing Ground Zero Mosque

It says that 70 percent of Americans are against the building and Republicans harshly criticized Obama’s statement, saying he is insensitive to 911 victim families.

I can easily assume that Obama, in his political conviction as well as his personal belief, supported the building of mosque. What I don’t understand is, though, Republicans and all the so-called conservatives do not address the fundamental issues behind the building of mosque;

Islam is an evil religion and threat to American fundamental belief.

Any traveler to Israel notices mosques near or on the sites of Christianity and Judaism. A primary one is the Dome of the Rock at the very site where the Temple stood. It’s not an old, ancient story. Several years ago, there were disputes over construction of a mosque near the Church of Annunciation at Nazareth. Their conquest and expansion of Islam is still going on, and it is now taking place in American soil.

Right after 911, I heard Franklin Graham said Islam is an evil religion, but the statement came from a religious minister. I have never heard of politicians who harshly criticized the teaching, theology, and nature of Islam. I believe that a main reason why WTC was attacked, Republicans lost the last presidential election, and America’s losing its power among nations is she abandoned her own principle – Judeo-Christian tradition.

Please read an article written by Mosab Hassan Yousef, a son of one of Hamas founders, who became a believer in our Lord Jesus, and came to America as a political refugee. He blatantly proves equality of Quran with Mein Kampf and Muhammad with Hitler.

An open letter to my Muslim brothers and sisters

Jesus said to His disciples, “if the salt loses its flavor, how shall it be seasoned? (Matt.5:13)” I believe America as a nation in the world has played its important role as a fighter for freedom. Yes, any man has its right to express speech and hold ideas and religion. But what if an idea comes in that the idea would pursue destruction of the human’s unalienable right? That is why America fought against communism. Any immigrant in your country who exiled from communist regimes would tell you what is the nature of communism. President Reagan knew it very well and called Soviet “Evil Empire”.

And ask now any immigrant in your country who escaped from Muslim countries what is the nature of Islam. Who represents their voices right now? Where is a leader who humbly listens to their cry and takes heed to their warning? Who has guts to speak out and fight against Islam among your representatives?

Every time I come back to the States, I am saddened at decadence, apathy, and indifference which I didn’t feel when I lived there in 90s. It is as if you are like a frog in a pot where water is being boiled but still warm, not hot. You are still comfortable with an idea of “religious freedom” but when you wake up, it’s too late. You are already a slave in a cage of oppression.

If you are believer in Jesus, don’t presume that you are comfortably safe in Rapture before it’s too late. I believe many of those who call themselves a Christian are left behind in Rapture. If your country forsakes God, which I think she already did, she is no different than many other countries in the world, where your belief in God and His Son Jesus is itself threat to the country and you may be put into jail for the reason.

Many of our precious brothers and sisters in the world are living a life for Christ under those circumstances. They are beacons of truth that freedom in Christ cannot be taken away by any other power. But you’ve got to be ready and be alert for what is coming and stand for Christ in the hardship.

I gave a promise to Japanese brothers and sisters that I would write the same article as I wrote in Japanese. 🙂

真理を言えなくなった国、アメリカ

続けて、世界貿易センター崩壊の跡地(Ground Zero)の近くに、巨大なイスラム教寺院を建てる計画についてのニュースです。

アメリカで賛否両論に分かれていましたが、オバマ大統領が支持表明を出しました。理由は、「敷地は私有の土地であり、宗教の自由は認められるべきである。」とのことです。

9・11跡地近くのモスク建設、オバマ氏が支持表明

一般のアメリカ人も大方、反対なのですが、共和党議員から強い批判が出ています。政治理念も個人的信条もイスラム寄りのオバマ氏は当たり前の発言をしているのですが、私はここであえて、保守派の人たちに言いたい。

あなたがたの基盤である「ユダヤ・キリスト教価値観」はどこに行ったのですか?

あの同時多発テロでの敗北は、また大統領選での敗北、そしてアメリカという大国の凋落が始まってきたのは、ひとえに「イスラム」そのものを批判する力を放棄してしまったのです。

かつてビリーグラハム師の息子フランクリン伝道師は、「イスラムは邪悪な宗教である」と言ってはばかりませんでしたが、キリスト教会の声ではなく政治家の声として、国の政治思想の基盤である「自由と民主主義」を、イスラムという宗教「そのもの」が攻撃し、否定していることを、知らないのか、あるいはあえて無視しているのです。

これは政治や外交、軍事上の戦いではなく、イデオロギーの戦いであり、信条の戦いであることを、イスラム教の内部を知っている当事者らは口を揃えて話しています。かつてアメリカが、共産主義という思想そのものに、「自由」という思想を内包的に破壊することを知っていたから、反共主義を取ったのであり、かつてのレーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と呼んだのです。

このアメリカの底力、自由のための戦士(必ずしも軍事的戦争だけでなく思想的戦争を含めて)としての存在意義がイスラムという脅威の中で完全に瓦解しているのが現状です。

「ハマスの子」の著者、ヨセフ氏のブログには、ヒトラーの「我が闘争」とモハメットの「コーラン」の類似性を挙げ、それをムスリムの人たちに挑戦状として与えています。

An open letter to my Muslim brothers and sisters

本当は、このような訴えは英語で書かなければいけませんね。(汗)

世界貿易センター跡地付近にモスク建設

このニュースはみなさんご存知でしたか?

グラウンド・ゼロ付近のモスク建設計画に反対意見続出(CNN日本語版)

このニュースの重要性は、イスラエル旅行に行ったことのある人ならば一目瞭然です。ユダヤ教とキリスト教のゆかりの地には必ず、イスラム教寺院が建っています。最大のものはもちろん、神殿の敷地に建てられた岩のドームと、アル・アクサ寺院です。

これは昔のものではなく、例えば数年前もナザレにモスクを建てようとして、バチカンも動いて阻止させました

イスラム教は自分たちが征服したところを、アッラーの勝利の証しとしてモスクを建てます。つまり、世界貿易センターの跡地付近に建てるということは、ムスリムであった犯人たちが、アッラーのゆえに殉教したことを記念したいだけなのです。(左の写真はハイジャックをした犯人たち)

反対団体によるビデオ

おそらく多くのムスリムの人は、上の主張に対して「我々はそんな風に考えていない。」というでしょう。それはもちろん、個々人が意識的に考えることは少ないかもしれませんが、イスラムの神学体系の中でこのようなことが起こっていることは、少し頭を働かせたらすぐに気づくはずです。

英語の分かる方は、「ハマスの子」の著者モサブ・ハサン・ヨーセフ氏による記事もお読みください。彼は、「そんなに『大きな貢献をしたい』というのなら、モスクではなく病院を建てよ。911の遺族に何か役立つものを作れ。」と主張しています。そういう発想ができないその精神構造がイスラム教の中で出来上がっているのです。

人というのは意識していなくても、一つの気質の中で動いていることがあります。昨日「オバデヤ書」を学びましたが、そのメッセージ題は「エドム根性」でした。次に、我々人間にある「エドム人の気質」についての記事を書きたいと思います。

靖国神社参拝について その3

(「その2」からの続き)

「無知」が「凶暴性」へと

けれども、日本ではこのような宗教の「中身」にまでつっこんだ議論はほとんど皆無です。かつてオウム真理教による地下鉄サリン事件が、宗教へのアレルギーを増幅させましたが、では彼らが何を信じ、何を宗教的に実践していたのかについての議論はほとんどありませんでした。日本人は「教理」とか「教義」、そしてその「実践」について無関心、無頓着なのです。

これが単なる無知では済まされず、これが共産主義者と同じ「純粋になればなるほど残虐になる」凶暴性を持っています。それがキリスト教会に対して、戦時中に起こったのです。

ホーリネス弾圧事件

このことについては、クリスチャンの人もあまり知らないと思いますので、上のウィキペディアの記事の一読をお勧めします。そして彼らが罰せられた判決文を引用します。

1934年1月大審院検事局が3教派の共通定義を行った。「神は近き将来に於いて「キリスト」を空中に臨ませ義の審判を開始し戦争その他災厄の充満せるいわゆる患難時代を現出せしめたる後「キリスト」を地上に再臨せしめて我国を含む世界各国の統治権を摂取せしめ「キリスト」を統治者、携挙せられたる聖徒を統治に参与する王、神の選民と称するイスラエル人を支配階級となす千年王国なる地上神の国を建設し次で新天新地と称する神の理想社会を顕現すべきものなりとし、天皇統治が右千年王国の建設に際して廃止せらるべきものなりと做す国体を否定すべき内容のものなり」

もし私がその時に生きていた教会指導者であったなら、まったく同じ訴状で刑に処せられたでしょう。「ロゴス・ミニストリー」が信じている神学・教理体系と全く同じだからです。

「保守」を唱える日本人の人へ

日本国が愚かにもこんな判決を出したから、日本のキリスト教会が保守主義に対してアレルギー現象を起こしていることを、よく考えてください。自民党など保守政党の関係の方がこの記事をご覧になっていれば、(まだ少数派ですが)日本キリスト教会の人たちがなぜ拒否反応を示すかをご考慮ください。私は、他の争点においては保守政党のものと一致している「珍しいクリスチャン」ですが、神学においても保守主義を貫いている私としては、ここは絶対に譲れない「聖域」なのです!

靖国が日本人の「聖域」だと言うのであれば、私はキリスト者としての「聖域」を守ります。この国を愛し、この国のために殉ずる覚悟を日々の祈りでしていきたいと思います。それをキリスト者も追悼することのできる施設を造るのか、あるいは「迫害」という形で応答するかは、あなた(右派と称する人たち)のご決断です。

(「番外編 - キリスト者向け」はこちら

靖国神社参拝について その2

(「その1」からの続き)

日本人の「排他的多神教」宗教観

では、私は靖国に参拝するのか?絶対に「しません」。国とそのために殉じた人々を敬う気持ちがあるにも関わらず、創造主とそのキリストを信仰する者として、絶対に受け入れられないものであることを、特にこのブログを読まれている信者ではない方に知っていただきたいです。

韓国であっても、アメリカでもあっても、他宗教の人が訪問する時には、ある程度の尊重があります。しなくてもよいものをあえてやりなさい、という強要はありません。ところが靖国神社は列記とした「神社」です。それはキリスト者が、「唯一のまことの神のみをあがめる」という信仰として決して妥協できない一線であり、すべてを「神々」として「霊」として「祭る」ことに、聖書の教えの根幹に相反するのです。

日本人の宗教観では、死んだ人は「霊」となり「神」となり、それを「祭る」というのが全てだと思っています。けれども「日本の常識は世界の非常識」という言葉のように、それは日本にしか通用しない考えなのです。

アーリントン国立墓地の説明では、”Consoling of spirits”という単語は出てきませんが、日本語のウィキペディアでは「慰霊」と出てくるのです。そして「敬意を示す(honor)」という言葉は出てきますが、「参拝(going to worship)」という言葉は出てきません。「英雄(heros)」と言う言葉は出てきますが、「英霊(heroic spirits)」という言葉は出てきません。

日本語の死者を追悼し敬意を示すことは、日本ではすべて神道的宗教観から出てくる単語なのです。

聖書では、肉体は地に戻るが、霊は神のところに行くことが述べられています。霊がこの地にとどまっていることは決してないのです。そして神の手中に入った霊は、天に入るか、陰府(地の深い所)に下るかのどちらかしかないと教えています。そして肉体が復活すれば、義とされた者は永遠の至福の中に、そうではないものは永遠の忌みの中に入れられる、と教えています。

このように、あまりにもはっきりした死生観が、中心的教義としてキリスト教には存在します。

ここの部分について、靖国神社参拝を強烈に支持する人々の中に、何一つ考慮がなされていないのです。この無頓着は実は極端な排他主義につながっており、この国のために死んだ人々に敬意を表したいと願っている私みたいな人を、「非国民」と叫ぶのですから、愚の骨頂と言わざるを得ません。

真の右派(保守派)とは?

キリスト者の間で「天皇制」の是非についての討論会に参加したことがあります。キリスト教の伝播のためには天皇制を受容しなければいけないという論者が一方におり、反対している人がもう一方にいました。

反対している人は、参加者全員に尋ねました。「明治天皇の名前を知っている人はいますか?」挙手したのはごくわずかで、なんと賛成派論者本人が手を挙げられなかったのです。答えは「睦仁(むつひと)」です。

「天皇を敬まえ!」と声高々に言っている人が、同じように、天皇家について、また祭事、その意義など尋ねられたらどれだけ答えられるでしょうか?ちなみにこの反対派の牧師さんは、教会では文語訳の聖書を使い、確か俳句なども嗜めておられる方です。「私のほうがよっぽど右翼だ。」と冗談を仰っていました。

それで尋ねます。日本の文化、伝統についてどれだけ分かっていますか?そんなに大事にしなければいけない靖国の神道にある体系にについてどれだけ分かっていますか?そして、それをすることはできないと拒む人々(政治的理由ではなく、宗教的理由で)が、どうして参拝できないのかを、その信仰の理論体系まで考えたことがありますか?

自分の信仰と宗教について大事にする人は、その中身を勉強し、熟知し、それから相手の信仰や宗教も調べ、(同意はしなくても)尊重することを知っている人、これが真の右派です。

靖国神社サイトの英語版の説明にはこうあります。

Shinto Faith
Japan still maintains the culture and tradition of respecting and worshipping the deceased. The Japanese have long believed that spirits of the deceased remain eternally on earth and guard their descendants. Even in today’s Japan,people consider their ancestors as their “guardian deities,” and thus as an object of worshipping because such traditional way of thinking along with the belief of Shinto is still inherited.
http://www.yasukuni.or.jp/english/about/history.html

Worshipping
The difference between Yasukuni Shrine and other foreign memorial institutions for war dead is that the shrine enshrines the spirits of those who died on public duty of protecting their mother land.
http://www.yasukuni.or.jp/english/about/worshipping.html

これを読むまでもなく私の靖国神社理解と一致していました。理解した上で、「私にはここで手を叩くことはできない。」と決めているのです。あなたは、いかがでしょうか?

ある記事でアメリカのことを紹介するのに、デーブ・スペクターとある政治家M氏が説明していました。M氏はアメリカの保守の基盤であるキリスト教についてよく知っていました。キリスト教の背景があることを踏まえて、個々の質問に対して答えていました。デーブはかなりリベラルな人で、むしろM氏のほうがよくアメリカというものを知っているな、と感心したことがあります。私はその人の信仰やまたその生活についてはよく知りませんが、政治家としての見識・発言においては、「保守性」を見ました。

保守や右派の元々の定義は、人間に元々備わっている宗教的側面を大事にする人たち です。

(「その3」に続く)

靖国神社参拝について その1

続けて社会的・政治的なお話を致します。「靖国参拝」についてです。まずお断りしたいのは、具体的な政治的争点において、神はすべての啓示を与えられているわけではないことです。ですから個々のキリスト者によって意見が異なります。私がこれから述べる意見も、必ずしも受け入れなくて構いませんし、反対意見のお持ちの方は適当に流していただければと思います。

終戦記念日(8月15日)が近づいてきました。盆の時期でもあり、この時になると正月と同じく仏教・神道に関わる儀礼が多くなってきます。その中で靖国参拝は、避けて通ることのできない問題です。

私の靖国神社

私が初めてその敷地内に入ったのは、不思議なことに韓国からの兄弟たちの案内をする為でした。日本の人たちは驚くかもしれませんが、韓国人の日本観光名所の一つが靖国神社です。そして二回目には妻と一緒に「遊就館」も訪ねました。まるで戦時中に後戻りし、軍国少年になった気分になりました。

私は他の日本の人たちと同じように、元旦参りやお墓参りなど、神仏に囲まれて育った人間です。大学生の時にその参拝にどのような意味があるのか分からず悩み、そしてキリストの福音に触れて、そこに命に対する明確な解答を見出して信仰に入りました。自然そのものを崇拝する日本の習俗信仰とは違い、自然にある創造主の栄光の輝きを知ることができ、今は本当に幸せです。

けれども靖国神社は、幼い頃から原体験として残っている神社と大きく異なっていました。鳥居も何もかもが黒ずくめで、まるで焼け打ちにあったのではないかと感じてしまいました。

国の戦争に殉じて死んだ人々

けれども、これを「偶像崇拝」というだけで一蹴はできないという気持ちが今はあります。初めは考えたこともなかったことですが、「国のために死んだ人を敬う」というのは、一つの国に生きている人ならばごく自然に湧いてくる感情であることを気づきました。

過去に日本軍が行なったことのみに集中し、そしていわゆる「戦犯」も出した戦争ですから、なぜ敬うのか?と思われる人もいるかもしれません。けれども実戦で戦った個々人の死は、国が責任をもって追憶していくべきです。それがたとえ間違ったと言われる戦争であっても、「国の義務を果たす」ことを行なった人は「国」が敬う義務があります。

聖書の中にも、死者を葬ること、またその人が代々、記憶されていくことは、特に旧約時代において重視されています。むろん新約においては復活の希望が明確になりましたが、その人を追悼するのは「再会」の希望も含まれるようになりました。

靖国参拝に反対する韓国でも「顕忠院」と呼ばれる施設で戦争の殉死者は高く敬われています。キリスト者なら、そこで偶像礼拝に直結する儀礼には関わらないでしょうが、それでもその施設の是非は問題にさえならないはずです。政治的見解がたとえ異なっても、「国のために命を捧げた人」を敬うのは、人間であれば当たり前の感情だからです。

アメリカではもちろん「アーリントン国立墓地」があります。

果たしてこのごく自然な感情を抑えるところまで、神は御言葉の中で禁じておられるのでしょうか?人がどんな宗教を持っていたとしても、これは、人間であれば神が与えられた感情であると私は考えます。

ゆえに、日本のキリスト教会での「靖国参拝反対」の議論の中で、この部分が話題に上げていくべきではないかと感じます。

(「その2」に続く)

在日韓国人の参政権

ある人によるイスラエルに関連するニュース紙をいつものように受け取りました。そこで独立戦争後、避難しなかったアラブ人に対してイスラエルは無条件で市民権を与えたことについて、括弧書きで、「在日韓国人に参政権さえ与えない日本と比べれば、破格的な寛容さである」ということを書いておられました。私の頭の中では大きな疑問符が何個も出てきてしまいました。(ここであえて、その方の名前を書きません。その方はこの日本においてイスラエルとユダヤ人問題についての啓蒙運動に尽力されており、心から感謝しているし、尊敬もしています。だから、不要な圧力を与えたくないというのが正直な気持ちです。)

けれども、このブログの読者の方々にはお伝えしたいことがあります。それはたとえ信仰者と言えども、個々の政治的・歴史的見解には相違が出てくるということです。自分の信仰生活でお世話になっている、尊敬している人が発言するすべてのことを、自分の思考と主が与えてくださった良心にしたがって精査することなく、鵜呑みにしてはいけません。そうでなければ、ちょうど「私はパウロにつく」「私はケパにつく」というコリントの教会の仲間割れと同じく、肉の働きの問題が出てきます。

そのことを踏まえて本題に戻りますが、私が日本の福音界に対して全般的に感じている疑問は、「社会正義を主張している人々、またその主張が必ずしも、聖書的真実を表しているのか?」ということです。具体的に説明してみましょう。

在日韓国人・朝鮮人の問題、そして今、話題になっている外国人参政権の問題ですが、在日韓国人の代表機関である民団はこれを強力に推し進めて、政府にも圧力をかけています。民主党もそれにかなり同情的な姿勢を示し、実際に法制化も考えていました。

一見、少数派の人々、社会的弱者に立たされている人々を擁護しており、それは聖書的に、クリスチャン的に適うことのように見えます。けれども、私はひねくれているのか、別の面を考えてしまいます。「特別視することによって、かえって彼らに欲を起こさせる、あるいは責任感を持てなくさせる誘惑になるのではないか。」ということです。

例えば、身体障害者の人々に「バリアーフリー」とか「ノーマライゼーション」という言葉がありますが、特別視することがかえって差別化をしており、普通化させることこそ真の人格尊重なのではないか?と考えがあります。特権をさらに増やすことによって、ただでさえ悩んでいるアイデンティティーの自我をますます増大させて、苦しめてしまうのではないかと私は考えます。

在日韓国人・朝鮮人は特別永住者という立場で、過去に日本国籍を有していた人々として、永住権よりもさらに権利が与えられています。そして既に帰化する条件は十分に満たしており、その申請をすれば他の外国人よりも容易に国籍を取得できます。そして社会的、文化的、言語的に、一世の人々を除いて「日本人」とほとんど変わることはありません。

残るは自分の民族的自尊心の問題、自分のルーツの問題です。日本は多民族国家という形態を取っていないので、その葛藤はかなり強いものでしょう。そしてほとんどの場合は、いろいろな他の実際的・具体的な事情があって帰化していない、ということでしょう。

私はこれまで、何人もの在日の人々に接してきました。本人たちに聞いたことがないので分からないのですが、在日の参政権についての意見はおそらく分かれることでしょう。「選挙をしたければ帰化すればよい。」と端的に書いている、在日の主婦の人のブログも先ほど読みました。日常生活における「本名」のこと、日本人なら当たり前のように持っている、特に役所における手続きなど、そういったところでの不便を強いられますが、多くの人は「それは帰化していないからだ。」という事実を甘受しています。

そして民団などの団体は、正直、その国の利益を代表する圧力団体です。その中にいる方々にお会いしたこともあり、とても良い方々ばかりでしたが、そうした人柄と切り離して考えなければいけません。政治的目標を持っていますが、それが必ずしも在日の人々の実情を反映しているとは限らないのです。(現に、北朝鮮の代表機関である総連は、在日の参政権に反対の立場を取っています。)

そしてなぜ在日の人たちからのこうした異論があまり聞こえて来ないのか?これはもちろん、韓国の文化と考え方があります。上にいる権力を持っている人々にはむかうのを嫌う性格、まだ一世の人々がいますから年を召した方々に対する心遣いなど、我々日本人よりももっとアジア的であり、年功制、権威主義、反個人主義などが絡み合っています。

そして在日朝鮮人であれば、さらに思想やイデオロギーが絡みます。本国が全体主義ですから、反発したら残っている親族の身が危ないです。マスコミで表明する言葉が、在日韓国人の人たちも、もっと、さらに抑えられたものであることを知らなければいけません。

長く書きましたが、このようないろいろな背景と事情が横たわっていることをお伝えしたかったからです。この問題を、イスラエルが、逃げなかったアラブ人に市民権を与えたことと比較しているのを見たとき、一気に文章の論理が吹っ飛んだ、と感じました。

日本国が敗戦した後、日本の朝鮮併合によって日本人であった彼らは、朝鮮人に戻りました。朝鮮人なのだから参政権も当然ながら失います。戦前には選挙権も非選挙権も存在していたのです。けれどもイスラエルは、アラブ人たちに市民権を与えたというのは、反対に戦争後の休戦ライン内の地を自分の国にしたから与えたのです。市民なのですから、当然、選挙権・被選挙権のどちらもあります。

そして六日戦争によってゴラン高原、西岸、ガザ地区をイスラエルが奪取しましたが、ゴラン高原と東エルサレムを併合しました。そこにいるアラブ人住民(またはドルーズ人)には、市民権を取得できるようにしました(多くが拒否していますが)。つまり「併合」することによって市民権を与えることができ、そうでなければ与えることができないのです。ですから事情が日本とイスラエルではほぼ正反対であり、それで私の頭の中で文章の論理が吹っ飛んでしまったのです。

もしイスラエルとアラブ人の関係を敷衍して在日の参政権を論じるなら、「日本はこれまで困難な歴史があったが、在日の人々の権利もほぼ回復し、帰化が簡単にできるようになった。また在日のままでいても、生活の基本的権利は十分保障されるようになった。」と言うべきです。

私は、日本は民主主義の近・現代国家として卑下すべきではない、十分に成熟した部分があると信じています。過去の歴史を清算する努力を、在日についての問題についても弛まず行なってきたと思います。