自浄努力の重要性

去年のクリスマスの時期の投稿で、小沢一郎氏の「キリスト教は排他的」と発言したニュースを紹介しましたが、この発言を徹底的に批判しているブログ記事を見つけました。

1.剛腕か傲慢か?壊し屋が壊れる日 キリスト教は排他的で独善的だとする小沢一郎氏自身の宗教観を問う
2.小沢一郎氏と福澤諭吉と田中角栄 政治と金と宗教 クリスチャンとイエス・キリストと聖書

この小沢氏の発言の後、キリスト教の団体が抗議をしたようです。そして、私自身、続けて調べたら、クリスチャンの国会議員による小沢発言批判の記事(民主党議員を含めて)、そして小沢氏が批判を撤回した記事も見つけました。

一言、感想としては「小沢氏の巧みな政治的思惑での発言だったのだろう。けれども、日本人の平均的な宗教的無知をさらけ出してしまったようだ。」ということです。上の記事の中に、その中身が徹底的に披露されています。

おそらくこのブログを読まれている人の中にも、未信者の方はおられると思います。求道を真摯に始めておられる方もおられるでしょうし、斜めに、批判的に読まれている方もおられる。後者の方はぜひ、リンク先の記事を読まれることをお勧めします。キリスト教信仰を否定する根拠として「私は仏教徒だ」、「私は無宗教だ」、「私は日本人だからキリスト教にはそぐわない」と言われる方は、いかに近代日本の成り立ちについて(無宗教だという人)、そして仏教の教義と変遷について(仏教徒だという人)、無知であったかを痛感されると思います。

上のクリスチャン国会議員の集まりの新聞記事にありますが、石破茂自民党政調会長は、「キリスト教が排他的とおっしゃる政治家がおりますが、キリスト教は寛容です。ただし、それはあいまいという意味ではない。キリスト教信者として妥協できない領域は確かにあります。・・・」と言われています。そうです、キリスト教は、そして実は仏教も、「ハードコアなファクト」(つまり心情や感情を入れない徹底した事実検証)に基づく信仰なのです。

けれども、以前、民主党による憲法創案で一神教批判が盛り込まれた時もそうでしたが、すぐに行動に移すキリスト教団体の方がおられ、また国会議員また民主党の中におられるクリスチャンの働きかけによって、今回も発言撤回にまで至りました。これが、民主主義の原則が働いた自浄作用であり、良い証しであると思います。

最後に、政治家のたった一言の発言がこれだけ重責を伴ったものであることを考えるにつけ、ヤコブ書3章にあるように、牧師や聖書教師は「言葉」に対してもっと大きな責任を持っていることを思うと、私も背筋が寒くなるというか、緊張が体の中を走りました。

<補筆>

以下は、「多神教の中にある排他性」を取り扱っている良い記事です。ご一読ください。

一神教は排他的で多神教は寛容という虚構

祝主御降誕!

クリスマスの日ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

クリスマスのことを考えますと、クリスマスキャロルや、教会の美しい聖歌など、静かな、清らかな雰囲気を思いますが、相変わらず世の中は嵐が吹き荒れています。新型インフルエンザを始め、世界もそして日本国内も騒がしいです。民主党政権の政治にも、矛盾や欺瞞が見えてきました。

ここで、二つのニュースを紹介したいと思います。

「キリスト教は独善的」と小沢氏、仏教は称賛

記事の中身を見てもらいますと、かつて民主党が新憲法創案の中で指摘したことと同じで、キリスト教の排他性に反発しています。自民党から民主党に動いても、「偶像崇拝 + 権力」 = 「キリスト教迫害」の図式は、日本政治の中に潜在的に横たわっています。かつてのアッシリヤの王が、ユダの王に対して吐いた暴言と通じるものがあります。

おまえは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む。』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『この祭壇の前で拝め。』と言ったそういう主ではないか、と。 (イザヤ書36:7)

そして、もう一つのニュースは、ヨーロッパ連合が、国際通貨基金(IMF)に対して、新たな経済危機を限定するために国際金融取引税を追求すべきだと提唱しました。

The long march to Bethlehem

ここでWorld Net Daily誌の編集長、ジョセフ・ファーラー氏は、かつてローマ帝国が全住民への住民登録(欽定訳では「課税」となっている)と何ら変わらない、と指摘しています。

しかし、そのような横柄で暴力的な国の権力の中で、主がお生まれになり、神の国がへりくだった者の中で始まったのです。

明後日、ある教会で説教の奉仕が頼まれていますが、ダニエル書11章を教えることになっています。そこはギリシヤのセレウコス国(シリヤ)と、プトレマイオス国(エジプト)の間で繰り広げられるシリヤ戦争の預言が書かれており、次に、卑劣で横柄なシリヤの王、アンティオコス・エピファネスの登場、そして最後に世界を荒らし、第三次世界大戦を引き起こす反キリストの横暴さが描かれています。

この預言と、そして静かで、清らかな雰囲気のはずにならなければいけないクリスマスと、どのようなつながりがあるのですか?と主に祈っていた時に、二つの上のニュースからヒントが与えられました。主がお生まれになった時、その環境は静かさと清らかさの雰囲気ではなく、世界の諸国の横暴さと、人々のわがままさ、混雑、騒がしさの真っ只中だったということです。

けれども、その中にある神の主権と、そしてキリストの柔和さの中に、まことの平和と平安があるということを思い出しました。この方こそ、げにまことの神、王の王、主の主であられます!

Merry CHRISTmas!

今の政治(そして福音宣教に)必要なのは?

先日の都議会議員選挙は、自民党大敗という結果が出ましたが、私が今感じている日本の政治の動きについてお話したいと思います。

結論から申し上げますと、次のパウロの言葉です。
「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2:1 )」

今の政治、国民世論には「感謝」が足りないのではないか、と感じています。

今の日本がどこに行けば良いのか分からないままに、国民に税金の無駄を強いてきたのを止めさせるというのが、民主党が掲げる政権奪取の理由です。それも一国の整理としては大切なことだと思いますが、やはり国全体の舵取りを担う政権にするには、あまりにも将来的理念がなさすぎます。

保守(右派)も革新(左派)も、「これまでの米国追従のあり方を変えるべきである。」というものがあり、前者は戦後レジームからの脱却、後者は米国との対等な関係を訴えます。

けれども、そんなに簡単に日本が戦後歩んできた道を捨てて良いものなのでしょうか?戦後民主政治に取って代わる、強固な理念があるのでしょうか?どちらも理想的であり聞くに良い言葉なのですが、日本人の間だけで通用する考えにしか過ぎません。他の国々の間を渡り歩くための説得力のある価値観には到底至りついておらず、必ず孤立化を招きます。

右派の考えで顕著に現れた例では従軍慰安婦問題でしょう。その是非はともあれ、米国の新聞紙に国会議員らが広告を出すに至っては、当時の副大統領で保守派のチェーニー氏でさえ嫌悪感を抱かせました。

左派の、自国の責任を明示しない「米国との対等」論は、日米同盟の根幹さえ揺るがしかねない危険を孕んでいます。リベラル・マスコミが褒め称えているオバマ政権が、自分たち(日本)を極めて冷たくあしらっていることに気づいているのでしょうか?

日本人が、日本人に与えられている自然の才能、特質をわきまえ知るべき時に来ています。

それは、今の日本がどれだけ豊かであり、平和と社会的秩序を保った国であり、今でもアジア諸国を始めとして、世界の国々から模範として見上げられていることに気づくべきです。

右派は「伝統的価値観の回復」を公約に掲げていますが、なぜか不思議なことに、その自信を戦前・戦時中に求めます。なぜ戦後にも求めないのでしょう?

明治維新の時もそうだし、敗戦後もそうですが、「屈辱を味わっても、すぐに外国の制度を取り入れ、それを自分なりに創意工夫し、自らの繁栄に役立てた」歴史を辿りました。戦後で言うならば、戦後初代首相の吉田茂がおり、保守本流と呼ばれる戦後政治の流れの大枠を作った人々がいます。そして日本人の大方は、特定の政治理念を持っていない人であれば、彼らが作った日本を静かに支持しています。

かつてNHKでプロジェクトXという番組が放映されていました。戦後の日本で、苦労して技術開発などを行なってきた人々を辿る番組ですが、今の発展した日本を支えていた背景を見ることができます。けれどもそういう産業界や経済界の人々だけでなく、政治の中にも戦後日本の中にいます。

まず、そうした功績を認め、感謝する時に来ているのではないでしょうか?

日本には黙々と働く人々が大勢おり、誰の目から認められなくてもとにかく最後まで貫徹しようと努力する態度があります。あまり言葉を使わないので、外の人に対しては説得力を持ちません。けれども実績を持っているので、他国の人々は静かにその力を認めざるを得ないのです。

この日本の国力をただ認める時を少し持つべきではないか?と考えるのです。コップに半分水が入っている状態を「半分しか入っていない」ではなく「半分も入っている」と考える時に来ているのではないかと思うのです。

私は変革をするな、ということを言っているのではなく、「今あるものに感謝しない変革は、今あるものをも失ってしまう」という教訓を話しています。これは隣国の韓国で起こった「失われた10年」(金大中・盧武鉉の革新政権がもたらした10年間)にもいえますし、今、オバマ大統領がアメリカ国内外で行なっていることにもいえます。

政治だけではなく、日本の福音宣教も同じです。今のクリスチャン人口の少なさを憂えて、あれこれ考えて、大きなことをしようとしている姿を見ます。その人たちの努力はすばらしいですが、残念ながらどこかでおかしくなってしまう話が、あちらこちらから聞こえます。そして、こうした日本キリスト教の動きを、必要以上にこき下ろしている姿も見ます。

しかし、そんな議論を交わしている間に、こつこつと一人ひとりに伝道をして、一人の魂をキリストに導こうとしている牧会者、伝道者、そして一般の信徒がいます。その人たちは目立ちません。「塵も積もれば山となる」の塵にしか見えないでしょう。けれども実際に、着実に魂の収穫をもたらしているのです!私はこの人たちに軍配を上げたいと思います。この働きを感謝し、喜びたいのです!

小さな教会だけれども、地道に働き、尽力されている牧師先生を私は本当に尊敬しています。わざわざ日本に来て、物価の高さで支援金も足りない状態で、また文化・習慣の違いで不便を強いられながらも福音を伝えようとしている宣教師の方々も尊敬しています。自分の伴侶、親、子息のために、十何年も祈り続けてまだ実を見ていない人たちを、本当に尊敬します。

政治から福音宣教へ話が移ってしまいましたが、「感謝」が今の日本に必要なテーマかな?と思ったので書きました。

牙を剥く「民意」

「何を予期すべきか?」の番外編としてお話します。

今、東京都議員選挙期間中で政治的な話をするのは申し訳ないのですが、これまでここで書いてきたことを踏まえると、私は民主党が強くなってきていることに危惧を覚えています。それは、民主党が、「マスコミによって形成された民意」を代表する政党だからです。

小泉首相以後でしょうか、ここ数年のマスコミ(テレビ、インターネット、週刊誌も含めて)の論調を見ていくと、自民・公明党政権が行なう一つ一つの政策について、それを重箱の隅を突くような、内容の乏しい批判をしているような気がしてなりません。日米同盟しかり、定額給付金しかり、また官僚主導政治でさえその歴史と経緯があり、短所だけでなく長所もあるはずです。

自民党は自らの信念を堂々と主張すればよいのですが、情報媒体によって形成されたこれらの「民意」を気にしすぎ、それをそのまま自分たちの主張としていく民主党に対して、自ら守りの姿勢に入っています。けれども自民党が考えなければいけないのは、マスコミと実際の民意(サイレント・マジョリティー)は必ずしも一つになっていない、ということです。

民主党が政権を取れば、日本は弱くなると思います。目の前にある細かいことにだけ注意を引き寄せ(これが一般の人たちの関心事ですから)、他の国々との関係には無関心になり、より孤立化していくでしょう。

私は、同じものをアメリカの大統領選挙でも見ました。共和党のマケイン候補は、もはやイスラム過激派による脅威について語りませんでした。ブッシュ政権の時から、「キリスト教、ユダヤ教、イスラム教」の神は一つであるという合意が暗黙のうちに形成されてしまったからです。そして、アメリカ国民の情感を上手に吸い取ったオバマ候補が勝利を収めたのです。

でも本当にこれで「世界が変わる」とでも思ったのでしょうか?イランも北朝鮮もイスラム過激派も何も変わっていません。アメリカはこれらの国々や団体に対して確固たる対策を持っていません。無力になってしまいました。国内では、企業の活動に対して極端な介入を行ない、アメリカを社会主義化させています。また、覇権主義を認めないとしていたのに、イスラエル国内の個々人の土地の所有権にまで介入し、圧力をかけているのです。

かつて、「一神教的な唯一の正義をふりかざすのではなく、日本社会に根づいている多神教的な価値を生かし」という文言を日本国憲法改正創案の中に盛り込もうとしたのは、他でもない民主党なのです。なぜか?キリスト教のアメリカとイスラム教のテロリストが戦っていたからです。極めて「民意的な」政党は、信仰の自由においても牙をむき出す可能性があります。

もちろん、かつて日本キリスト者を迫害した国体思想を今も持っている人たちの多くは、自民党の中にいます。安倍元首相もその一人です。けれども、彼はその信念や政策ではなく、他の周辺的な事柄でマスコミに叩かれ、首相の座を退きました。

日本人は神道と仏教の宗教観を強固に持っていますから、確かに国粋主義の台頭には気をつけなければいけないとは思いますが、「世相がそのまま国全体を動かす」過去を学べば、民意だけで動く民主党の動きにも注視しなければいけないと感じています。