(その2の続き)
そして、「(創世記1章と2章の内容を簡単に紹介した後)・・もし文字通りであるなら、なぜ完全に一致しない二通りの話があるのか。」という発言があるそうです。この発言には、私には良い思い出があります。
私が以前、故郷で通っていた教会は純粋な福音主義ではなく、自由主義神学をやや取り入れている所でした。そこで若い奉仕者が、信仰歴も浅い大学生の私に対して、(私が福音主義と自由主義の違いを尋ねたんだと思います)、創世記1章と2章の記述の矛盾についてでした。
これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:4-7)
これが、1章の記述と異なるではないか、ということでした。私には、その疑問そのものが理解できませんでした。新しく信じた私にとっては、「だって、1章で天地創造全体の話をして、2章で人間の創造に焦点を合わせて話しているんじゃないの?」という逆質問でした。なぜ1章の次に2章が起こった、と、あたかも1章27節の男女と2章のアダムとエバが別人物のように考える必要があるのか?という疑問でした。
私たちが話を進めるときに、一通り全体の話を順番に説明して、それから少し戻ってある部分を詳しく話すってことはないでしょうか?実はこの書き方が聖書には数限りなく続きます。黙示録は時間を進めては少し戻り、詳しく話し、また全体を話してさらに前進し、また少し戻る、という方法で話しています。
また、ちなみに、私たちがいろいろなことを話した後で、再びそれを話す時に、一番最初に話した内容から始めるのではなく、記憶に新しいすぐ手前で話したところから戻って、そして逆方向に思い出しながら初めに戻って話していくことはないでしょうか?ちなみに、これも聖書の中でたくさん出てくるものであり、実に聖書全体が「初め」と「終わり」が一つの話になっています。そして真ん中に「イエス・キリストの福音」があり、救いと回復の分岐点となっています。黙示録22章と創世記1章を比べてみてください、酷似しています。ここで初めてようやく神が語られたい初めの内容に戻られた、という感じです。
このように、聖書は一貫性のある、生き生きとした書物であり、博士論文や会計報告のような見取り図ではなく、話を聞かせているようなかたちで心に残るような形式になっています。もっと詳しくお知りになりたい方は、さきに引用した「ゲノムと聖書批判」のブログ記事の続きをご覧ください。