水谷潔さんが、フランクリン・グラハムとその息子ウィル・グラハムが日本でクルセード(伝道集会)を開くことについて、疑問を抱いている牧師さんの下のブログ記事をリンクしておられます(元記事はこちら)。(注:【後記】を書いています、この記事の一番下にあります。)
アメリカ主義が輸入された教会というものを体験した筆者にとって、確かにこの伝道大会とは心理的な距離を取りたいという思いが伝わってきます。日本の教会が、未だに米国の宣教活動に過度に依存していることへの嘆きは、よく伝わってきました。韓国の教会の宣教方法もそれがアメリカ式だという批判をされていますが、そのことも良く分かります。
この方の書かれた終末に生きる神の民についてのブログ記事で、大きく教わるところがあり、私も悔い改めに導かれました。これはぜひ、他の方々にもお勧めする論考です。そしてこの方の書かれた著書もざっと読みましたが、じっくりと聖書に取り組んだ跡が残っています。
「類型化」という過ち
ただ、その論点の背後にある流れには疑問があります。それを一言でいえば「類型化」です。