「感謝」の力 - ①「はげ」を感謝する?

私たちが海外にいた時に、教会の伝道師さんが礼拝で、1テサロニケ5章にある「すべての事において、感謝しなさい」という御言葉から説教をされた時のことを、今でもよく覚えています。

出だしが、ある牧師さんが「自分がはげであることを、どのようにして神に感謝すべきか。」と悩んで、いくつかの項目を挙げたという例話でした。私も30代に入った後で少しずつおでこが広がっていたので(笑)、興味深く聞きました。

その後で、聖書全体から感謝することについて説き明かされたのですが、「感謝」というものをこれまでいかに軽く考えていたかを思わされました。「感謝することは、まさに神の前にへりくだる行為であり、そこから神の力が自分から湧き上がり、神への献身を新たにできる」という悟りです。

その礼拝の帰りに、妻に「今の日本に足りないのは、もしかしたら『感謝する』ことかもしれない。」と話しました。それに関連する記事を「今の政治(そして福音宣教)に必要なのは」という題名で書いています。

このことは、私がキリスト者として政治的なことを考える時、世界情勢を考える時でも同じことが言えるし、また個人的、霊的な側面においても同じことが言えます。

例えば、先に書いた「キリスト者が祈るべき『エジプト』」で、今の混乱のエジプトの現場からの声で、「エジプトで神がいま行なわれていることで、賛美しています。エジプトがニュースで取り扱われることによって、この国の歴史の中で、これほど多くの人がエジプトのために祈っていることはなかったと思いませんか?」という発言がありましたね?日本と比べて桁外れに大きな問題を抱えているその国において、こうした見方を持っているのです。この、神への感謝と賛美に、どれだけ生きた力が働くか知れません。

要は、環境や周囲のせいにしないことです。全てのことが神から来ているという主権を受け入れて、神の前に出ていく時に、試練の中の知恵が与えられます(ヤコブ1:2‐8)。周囲の変化に左右されない、不動の神の見方で物事を見ることができることです。

私は日本の宣教の状況に感謝しています。非常に小さい教会が点々と存在し、しかも働き人が足りないため、教会の戸が閉じられていっていると聞きます。何を始めるにおいても、不足した状態です。

けれども、まず福音を語る自由が与えられています。政治的にはもちろんのこと、霊的にも、先に「韓国の宣教報告」で書きましたが、教会文化が存在しないために、かえって純粋に聖書から福音を聞く耳を持っておられます。

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