(これは前投稿の続きです)
なぜ、このようにムスリム同胞団を穏健と見るのか、あるいは過激で危険であるのか見方が変わるのは、その情報の差異ではなく、各人の人間理解に基づくものです。穏健と見る人々は、「人間は、社会進歩のために努力する善を持っている。」という前提があります。けれども私は、エレミヤ書17章9節にあるように「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」という理解です。
しばしば、性善説と性悪説という対立図で日本人の人は語り、キリスト教は性悪説として括りますが、そういう次元の問題ではありません。性悪説の人たちは極悪人に対する死刑賛成であるとか、常に「自分」以外の他人に向けて語っている。けれども、そのような性質の議論ではなく、「社会的に良さそうに見える人であっても、とてつもない邪悪な性質を持っており、実はこの私がこの性質を持っているのだ。」という、自分が神の前で罪人であるという理解から来ています。
だから、神の憐れみと恵みなしには私の存在は滅ぼし尽くされるのであり、ゆえに神のみ自分を委ね、この世界も神によって支配されているのだ、という理解に至ります。かつて、中期に社会運動に傾いたキリスト者内村鑑三も、後年、この真理に気づき、キリストの再臨の希望に身を投じました。
下の本には、アメリカのリベラリズムと保守主義の対比を上手に行なっています。
リベラリズムと保守主義の対比の表
(リベラル 保守主義)
重要な存在 人間 神
道徳的な重要性 社会 個人
人間にとっての重要性 権利 責任
悪の起源 不正な社会システム 原罪
私はもちろん後者の考えで、そのような見方で人々や日本、そして世界を見ています。
かなり前に一般の掲示板で、天皇について少し否定的な意見を述べました。それは「天皇は神ではない。私は人としての王を認める」というごく当たり前のことですが、その板が炎上してしまいました。猛烈な批判と非難を受けたのです。その管理人が私がキリスト者であることを知っておられたので、こう説明されました。
「天皇制は、単に王の機能を果たしているだけでなく、日本人の仏教と神道の宗教心の根ざしている問題である。イスラム教徒の前でコーランを破るのと同じことです。」
なるほど!と思いました。一般の日本の人は、普段はご自分のことを「無宗教」と言います。けれども自分の根底に流れている信仰心やイデオロギーがあることには、他の文化や価値観に触れていないので気づいていません。私は、人間はもともと思想的あるいは宗教的な存在であると思います。
ローマ人への手紙1章後半には、人は創造にある神を認めず、感謝しないので、知者であると言いながら思いを空しくして、創造主を偶像の神々に取り替えているという言葉があります。これが私の人間理解で、全ての人が何らかの神を宿している、というものです。
しばしば「キリスト教などの唯一神信仰は厳しく排他的であり、多神教の優しさが欲しい」と言われます。そしてキリスト教の名の付く戦争を取り上げますが、実は数十年前に“神道の大祭司”である天皇の名を叫びながら、何十万人、何百万人の人々を死に追いやった、紛れもない宗教戦争であったことには気づいておられません。
自爆テロをしているアラブ人たちが、自宅に貼っているポスターが、あの「神風特攻隊」であることをご存知でしょうか?
そして、私は海外にいる若者たちに、しばしば「年末と年始の一週間で三つの宗教を信じる」ことを話します。そうすると皆が笑います。他の人々にはそのような不可能に思えるようなことが、日本人は無意識に、キリスト教も仏教も、神道的な多神教信仰の中に包括して取り入れてしまっているからであり、決して寛容だからではありません。
私はこれを「神道原理主義」「あるいはアニミズム原理主義」と呼んでもいいかもしれません。深層意識の中に神道の原理を宿しているからです。
ですから、日本の人たちがキリスト者になることは大きな決断が必要です。自分の根幹に関わる大きな変化を受け入れることに他ならないからです。けれども、可能なのです!神の恵みと御霊の働かれるところには、神の慈しみ深さが満ちます。その中で私たちは、悔い改めを行なうことができます。
以上、日本の宗教事情を書いたのは、この国民も、今世界で起こっていることの大きな濁流の中にいるのだ、ということを述べたかったからです。イスラムやキリスト教会で起こっていることは、決して私たちと無縁なことではありません。