数日前、福島原発で実はメルトダウンが起こっていたというニュースが流れて、なおいっそうのこと「政府や東電を信頼するな」「彼らは嘘をついている」という言葉が多くなりました。そして、「風評被害」に対しても実際なのではないかという疑いを言う人たちが多くなってきたと思います。このことに関する私の困惑の思いを分かち合わせていただきます。
日本は良い国
私はアメリカに二年半、韓国にも三ヶ月、そしてまた別の国に五年ぐらい住んでいました。そして日本に再び定住する生活を送っているのですが、日本のことが本当に好きになりました。日本では当たり前にされている制度や習慣、態度が、他の国々では存在しておらず、当たり前に思っていたことが実は尊い遺産であり財産なのだと知るに至ったからです。
さらに、東日本大震災において被災地に何度か赴き、同じ体験をしています。当たり前に与えられていた安全や豊かさが取られた今、そこに残されたのは真の生きる意味でした。これまで安全や豊かさがあったがゆえに、人々が置き忘れていたものがそこにはあります。それがまことの神とキリストに出会う機会になってくれればと願ってやみません。
この前置きを言った後で極私的な意見を言わせていただきますと、政府や東電はずいぶん頑張っていると思います。誠実に国民に対して説明開示をしようと努力しています。「えっ?何を言っているんですか?!」と反発される人々も多いかと思います。けれども、日本在住の外国人たちがなぜ海外に逃げてしまったのかは、彼らにとって政府や企業はそれだけの存在だからです。自国の政府が隠し、また社会の中でも互いに騙しあうことが頻繁にあるために、災害のような危機に面する時は、全体で動くのではなく我が身の安全を守ることを優先するのです。
むしろ、今回政府や東電が犯してしまっている過ちは、過剰な慎重さにあります。科学的に正確でなければならないことだけに注目し(東電)、また後に国民から批判を受けないように言葉を慎重に選び(政府)、かえってその過剰な実直さから結果的に誤報を流しているのではないか、と感じています。そしてもちろん、目前の問題への対処に明け暮れた挙句、全体像を見ていなかった結果、問題解決する速度がいつも遅れているとも感じています。
政府は信頼できない???
そして本題に入りますが、私が驚いたのは「信頼できない」という言葉に含まれる、「過去は信用していた」という前提です。そもそも政府というのは信頼したり、頼ったりする対象なのか?ということです。
かつて鳩山首相がオバマ大統領に”Trust me.”と言ってみたり、ドラマでは頻繁に「それでも私はその人たちを信じます。」という台詞が美徳となっています。しかし人や政府、その他の事柄をそのまま信じていくということ自体が、実は「すべてを支配されている神」に信頼していないことを表れなのです。
東電についても、「東電はこれまで安全だと言っていたのに」と言っていますが、安全などもともと存在しないのです。むしろ、主の憐れみによってこれまで安全を保っていることができたのだ、というのが正解なのです。今も、放射線物質は原発から漏れていますが、主が憐れみ、守ってくださっているかぎり、絶対に安心なのです。もしそうでないなら、それでも御心の中で起こっているのですから平安です。
つまり、頼るべきお方は神のみであり、私たちの安全は主に属します。
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。 (詩篇20:7)
これは国の軍事力により頼むのではなく、主ご自身に安全をより頼もうということで、日本について言えば災害に対して誰に拠り頼むのか、それは政府ではなく主の御名なのだ、ということになります。
そして詩篇91篇全体をお読みください。その一部だけを引用しますが、
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。(3-5節)
疫病や恐怖は、まさに今、そのまま「放射能汚染の恐怖」に当てはめることができるでしょう。神を信頼している者は、基本的にそれらのものを恐れないのです。恐怖というのは、私たち人間にとっての敵です。神はイスラエルに戦いの勝利を与えられるとき、敵陣に恐怖を植えつけられました。それで例えば、300人のギデオンの軍が13万5千人のミデヤン人に勝利できたのは、彼らが恐れて同士討ちを行なったからです。恐怖は人間を破局的な行動に駆り立てる力となってしまいます。
けれども、恐れないのは無防備になることではありません。マルコ16章において、福音宣教に対する約束として、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、病院に手を置けば病人はいやされます。(18節)」とあります。この聖句を使って、蛇をつかむ集会を持ったりする極端なグループがいた話を聞きます。また無理やり病院に行かせず、適切な治療が受けられなかった信者が死んでしまった話も聞いたことがあります。それはすべて「主を試す」という罪であります。
けれども、福音宣教のように、主の御心を行なおうとするときに、やむを得ず生じる危険に対して、主が必ず守ってくださるし、また医療の手段がなければ超自然的に癒しも行なってくださる、という約束です。ですから無防備になれ、ということではなく、「注意を払うが、思い煩う必要はない。主が守ってくださる。」という立場なのです。ですから、私は毎日ニュース記事を読んでいるし、しばしば大気中の放射線量サイトも開いています。けれども恐れません。東北地方に行くのも、20キロ圏外であれば福島に行くのもためらわず行ないます。
むしろ、不安になったりするのは、本当の危険が迫っているからではなく、余裕があるからなのです。安全圏に自分がある程度いるので、思い煩っているために起こっています。風評についてこのような記事がありました。
まず、風評というのは危険が切迫しているから起きるのではないということがあります。むしろ、その時点での危険は「遠い存在」であること、そして危険回避行動について「選択の自由がある」という条件があって初めて「蔓延」するのです。まず「遠い存在」であることから、実態が良くわからないという状況になります。分からないから不安であるし、政府やマスコミは何かを隠しているのではないか、そんな疑心暗鬼も生むわけです。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/04/post-282.php
そしてあるツイッター記事では、「東京の人々は放射性物質が自分に降りかかる事ばかり考えている。津波の被害を受けて大変な人たちの事もっと考えたらどうか。被災地で原発の話している人は殆どいないと思う。東京より福島原発に近いのに。」という内容がありました。今でこそ少し安定して、テレビでニュースを見る余裕もあるので、被災地では放射能の話をしておられる人々もいますが、基本的にこれは事実です。
思い煩いというのは、「自分で支配・制御できなくなった」ところから来る不安であり、罪です。自分を支配しておられるのは神なのです。私たちはこれまで、自分たちで守るという、自存心、相互への依頼心によって生きていました。だから、政府や行政、その他の機関が機能していないと不安になるのです。けれども、神は機能しておられます!むしろ、頼るべきものが取られたとき、神が支配しておられることを知ることができて幸いなのです。
私の実家も、いろいろなものが神にあって取られました。それで、「すっきりした。これまで思い悩んでいたものが、はっきりと取られて、神の御心をはっきり知ることができた。」と両親は言っています。ある教会の牧師は、「教会堂がなくなってしまって、かえってすっきりした。」という大声ではいえない(?)感想も漏らしています。
主が避難所なのです。「わが避け所。わがとりで。私の信頼するわが神。(詩篇91:2)」・・・興味深い話を聞いたことがありますが、1980年代、老夫婦が核戦争の危機に対処するために、地球上にある住居地をくまなく、細かく調べたそうです。世界中でどこが核戦争の危険を回避できるか、平和と安全を確保できるかを決めようとしていました。研究と旅行をし尽くしました。クリスマスに、その老夫婦は母国の教会の牧師に、新しい住居からのクリスマスカードを送りました。フォークランド諸島です。ところがその「楽園」は、今や現代史で「フォークランド紛争」と呼ばれる、英国とアルゼンチンとの間の戦地になったのでした。
政府は神のしもべ
そして、私たちは政府に対して、また公の機関に対して(東電もある意味で公的な役割を果たしています)、どのような態度を取るべきか、見てみましょう。ペテロ第一2章13-17節です。
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
政府や行政は、私たちの神にその権威を与えられた、神のしもべです(ローマ13章1節)。キリストを信じる者は、これら政府などに従属していない神の子供であり、キリストにあって王であり祭司です(黙示1:5‐6)。日本政府も東電も神の御手の中で動いていることを確信することができ、ゆえに、政府を信じるとか信じないとか、まるで彼らの奴隷であるかのようにあたふたする必要はありません。
キリスト者はこのような自由と余裕を与えられているのですから、むしろ、積極的に神が置かれた権威に敬意と誠意を表していきます。善を行なっていきます。これゆえに、私は、批判しこそすれ、政府も東電も意地汚く罵ることはできません。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」とあるとおりです。そして全ての人を敬い、神を恐れ、王を尊びます。「日本人はお上の言うことに従う国民性を持っている」という人たちがいますが、私たちはお上だから従うのではなく、神の証人として従うのです。
それゆえ、私は自分の区にある災害対策室の人と話せたことを幸いに思いました。被災地で自衛隊の人たちと笑顔を交わし、挨拶をし、会話ができて幸せでした。そしてニュースで毎日見る菅首相や官邸にも、感謝しています。「菅首相、ご尽力ありがとうございます」と一言、メールにでも声をかけようかなとも思います。
そして私たちは、信仰は「議論」するものではなく、「行動に移す」ものであることを、ここで「善を行ないなさい」というところで見ることができます。政府や東電が間違った方向に進んでいると感じたのであれば、ぜひ祈ってください。神が私たちのために置いてくださった人々なのです!この日本の復興のために知恵が与えられるように、そして何よりも神の栄光が現れるように祈ってください。そして神のゆえに、彼らを敬ってください。
そして、この記事を読んでいる人で関東圏の人は、東電の恩恵を受けているから読めるのです。関東ではない人も、それぞれの電力会社が、24時間、間断なく電気を供給してくれていることを、主にあって感謝してください。私がいた所では、しょっちゅう抜き打ちの停電でした。デスクトップの人は、それまでのデータが消失することもよくあるのです。主の憐れみによって、このブログを読む電力が与えられているし、またそうした余裕も与えられているのです。主が少し思いを変えられれば、パソコンも津波で流され、火事で消失したり、何でも起こりえるのです。感謝してください。
そして私は今の日本の悲劇は、「指導力の欠如」だけでなく、「指導者が愛されていない、尊敬されていない」ことだと思っています。私たちは民主主義の国に生きている前に、神の国に生きている者たちです。表現の自由を悪口ではなく、尊敬と祈りのために費やそうではありませんか。
(さいごに)政府と東電の発表を信頼できない人へ
あのホリエモンがツイッターで面白いことを言っています。「政府や東電が信頼できないなら、民間のデータを参照すりゃあいい。これまでの膨大な研究結果もネットで閲覧できる。放射線被曝の基準も公開されているし統計的データを参照して作られた。それでも信用できないか?」ごもっとも!
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