今日(昨日?)は、久しぶりにプールに行って泳いできました。そして、ブログで個人的にコメントをしてきてくださった方と有意義な対話をすることができました。
それで、いろいろ原発に関わるいろいろな意見をネットで読みましたが、今日気付いたのは、「日本も北朝鮮と変わらないじゃないか。」ということです。北朝鮮では、「将軍様マンセー」というお題目を必ず自分の意見を発表する時に付けるのですが、日本は「菅政権はどうしようもない」と、どんな問題のことを話していても、出てくるのです!何の関係があるんだ?と思ってしまいます。これは反原発の人たちだけでなく、推進していたり、保守層の人々の口からも連呼のように出てきます。
そんな中で、実にうならされる良い記事を見つけました。
「最悪時」前提に設計見直せ 原発事故に学ぶ 畑村洋一郎 東京大学名誉教授
(上は日経の記事で登録会員にならないと読めないので、この記事を全文引用した福島県民の方のブログをリンクします。事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【1】 事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【2】)
また産経にも同氏に対するインタビュー記事があり、内容は似ています。
こうして感心して読んでいたら、なんと、福島第一原発を巡る政府の「事故調査・検証委員会」の委員長になった方なんですね、驚きました。
初めの日経のサイトの記事ですが、そこには宮古市の防潮堤についての話です。
被災地を回って気付かされることは多い。岩手県宮古市田老地区では、新しい防潮堤は津波で破壊されたが、昭和8年(1933年)の大津波直後に設計された防潮堤は原形をとどめている。
どういうことか。地形を見てみると分かる。新しい堤防は湾口に対して直角に、真正面を向いて建設されている。だから津波の勢いをまともに受けて破壊された。これに対し、古い堤防は湾口に対して斜めを向いている。津波の圧力を真正面から受け止めるのではなく、山の方向へ逃がす設計になっているのだ。
昭和8年には高さ15メートルの大津波が田老地区を襲った。先人はどれだけ巨大な防潮堤を建設したところで、津波を完全に押し返すことはできないと悟ったのだろう。水が入ってきたとしても、退避のための時間稼ぎができればいいという発想だ。古い防潮堤の内側は高台から放射線状に道が延びるなど町全体が高台に逃げやすいようにできている。
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今回の復興でも高台に町を移転するというだけでいいのか。すぐに逃げられない高齢者は高台に住むとしても、むしろ防潮堤はあまり高くせず、いつでも逃げられるように適度な警戒感を持って生活した方がいいのではないか。
昔の人たちの方が、今の科学万能主義の考えよりもはるかに知恵を持っていたのです。「自然の驚異に対して人間の力が対抗できるわけがない、だからその勢いをある程度受け、それをかわすようにする」という発想です。そして「適度な警戒感を持って生活する」ほうが、よっぽど健全で理にかなっています。そして極めつけは次です。
もう一つ、田老地区の古い防潮堤の水門の事例を紹介しよう。筆者が1996年ごろに訪れた際、手動で水門を開閉していることに興味を持った。「なぜ手動なのか」「電動では、電気が来なくなると閉められないでしょう」。案内人は答えた。今回再度訪れたところ、津波が来る前に水門は閉められ、被害を小さくするのに役立ったという。
あまりにも当たり前ですね!電気がなくなるのは。でも、これは頭脳明晰な東電の人たちも「想定」していなかったすぐれた知恵です。
私も常々思うのですが、昔の人たちのほうが今の私たちよりも明晰であったのではないかと思います。キリスト教の中でも言えるのですが、比較的昔の人々の言葉のほうがずっと残ります。「もっと改良しなければならない。」と考える最近の人たちの話のほうが、かえって洗練されておらず、瓦解することが多いです。
東電を責めない
そしてこの方の議論で優れているのは、これを「東電を責める」ことにしていないことです。
しかし最悪の事態を想定しなかったとして、東電ばかりを責めるのはどうかと思う。「あいつが悪い」と指摘するのは「別の人ならばうまくできた」という問題のすり替えにつながり、物事の本質を分からなくしてしまう。
その物事の本質とは何かと言いますと、「日本的企業の体質」であると言います。国の基準を守っているから問題ないという東電の考え方は、緊急事態では機能しない。」とのことです。けれども、これは企業に限らず、個々人の私たちがそういう体質を持っており、災害対策で重要なこととして、「(1)自分の目で見る(2)自分で考える(3)自分で決める(4)自分で行動する。この4つが重要で、第三者が決めたことに従って失敗すると、「自分は悪くない」と言い訳をする。」とのこと。
そう、つまり東電の問題だけでなく、私たち自身が問題なのです。何か問題が起こるとすぐに政府のせいにする、行政のせいにする、学校でも会社でも少しでも不都合なことが起こるとすぐに文句を言う、という「問題の摩り替え」を行っているのです。自分自身が、物事に果敢に対処する、頭を使って状況判断をする、クリスチャンであればそれが「御霊に導かれる」ことである、ということです。
続けて三陸海岸の話をしておられます。
三陸海岸では小学校で津波に対する教育や訓練を日ごろから実施していた。しかし、あらかじめ町や村が決めた避難所に逃げたのに津波にのみ込まれてしまった惨事がある一方で、決められた避難所よりもっと高い場所に逃げないと危険だと自分たちで早く判断して逃げて助かった小学校もあった。
私たちがしばしば行く東松島の被災地においても、仙石線で石巻と仙台を結ぶ列車がそれぞれ上り、下りの二つが走っていて、片方は地震後、マニュアルに沿って避難してその避難所が津波で流されたのに対し、もう片方は車掌らが避難所に誘導しようとしたところ、地元の人がとっさに、「ここは高台だから車内にいた方が安全だ」と叫び、皆、その言葉に従ったそうです。そしたら、津波がまさにその列車の周りに襲って、その高台だけが冠水しなかったとのこと。(運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」 JR仙石線野蒜駅)
この咄嗟の状況判断が、東電はまるでできていなかったこと、けれども当人たちは「真面目に」現行通りのシナリオで動こうとしていたのです。(それでも例えば、現場の吉田所長が官邸や本部の指示ではなく、一時間注入をし続けたという面もあります。)
御霊に従うのは「もどかしい」
ぜひ、使徒の働き27章を読んでください。そこにローマに向かう船の中に、パウロを含む囚人が乗っている場面が出てきます。パウロは人々に注意して、「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます。(10節)」と言いました。けれども、「百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。(11節)」とあります。パウロは状況を見て御霊によって語ったのに対して、百人隊長はいわば「マニュアル」を信じたのです。
けれども嵐の中で死ぬ思いをしていた彼らは、パウロが次に神から語られた言葉はようやく聞く耳をもって、彼の指示に一つ一つ従いました。それで一人も命を失う者はありませんでした。
この前のローマ人への学びは8章前半で、「御霊に従う」ことでした。これが、捉えどころがなく難しいという感想が出てきましたが、その通りで御霊の導きはまさに「捉えどころ」がありません。マニュアル化できないのです。他の人が行っていると言って、それを行ってもうまくいかないのです。そしてある時にうまくいったことも、次にうまくいくかわからないのです。そして、パウロのように信用されなかったりすることもあるし、批判されることもあります。けれども、「これだ」と御霊に示されたことを果敢に行っていくことが必要なのです。
神の御声を聞くことは、たった独りでしかすることができません。他の人が代わりにすることができないのです。けれども、これを行わない限り信仰が芽生えません。これはもどかしいです、けれども聞き従った時に、これまで体験しなかった、不思議で新鮮な御霊の働きを体験できるようになります。