これまで、皆さんがこのブログ記事を読まれている時に、私が必死になって書いている話題の共通点が、「相反する主張、議題をどのように対処するか」ということだと気づかれているかもしれません。
以前はイラク戦争についてでした。私は、米国と米国内の福音派教会に対する過度な批判に疑問を呈し、「米国が中心なのではない。神の預言の計画が一歩進んだだけなのだ。」「神は、このような戦争(善悪を判断せず)をも用いて、ご自分の栄光のために用いてくださる。」「米国を批判する人たちは、そこには生身の人間がいることを知るべきだ。米国人は聖人ではない、怒ることもするし、間違いもする。憐れむべきだ。」ところがこのようなことを書いたら、大変な目に遭いました。教会関係の人であろう人からも、一般人でも決して書くことはない脅しのようなメールも受け取りました。
そして、今は原発問題です。私は一度も原発を推進すべきという立場で書いたことはありません。それよりも、その大きな動きに対して、あえて牽引して、冷静になるべき多角的な見方を提供しようとしたつもりでした。「神の主権の中で政府と東電には感謝すべきだ。(支持するということではなく。)」「これまで事故が起こっていなかったこと、私たちが死んでいないこと、これも神の憐れみの中にある。」「たとえ危険があっても、主が守ってくださる。そうでなくても、被爆するよりも、さらに失ってはならない健康、すなわち霊的健康(平和、愛、寛容)がある。」けれども、どうしても政府や東電を支持しているように受け止められます。これはいったいどうしてでしょうか?
二項対立を楽しむディベート
私は、救われる前後は大学で英語ディベートを行なっていました。その討論は日本国の政策を主題としており、当時(1990年前後)から原発問題は大きな話題でした。民事裁判で、弁護人がどちら側の顧客につくか分からないように、ディベーターは肯定側につくか、否定側につくか直前まで分かりません。ですから両サイドの主張を用意するのです。これは完全に思考ゲームであり、相手を叩き潰すのが目的ではなく、第三者である審判にいかに説得力のある主張をすることができるかの訓練の場です。
ちなみにアメリカでは、ディベートで良い成績を収めた人たちは法廷で働いたり、弁護士や政治家になる人が多いです。福音派のキリスト教大学リバティはこの部門に力を入れており、良い成績を収めています。世の光、地の塩となるべく、世においてキリスト者の立場を弁明することができるようにする、というのが目的です。(CBN News)
そして、私の記憶では、「原発全面廃棄」の政策主張は非常に強固でした。「廃棄すべきである」という議題に対して、肯定側が数多く勝っていました。理論構築が非常に優れているからです。「放射能の被害」の甚大さを示し、かつ、原発放射能漏れの要因を列挙すれば、その要因がどんなに可能性が低くとも、否定側は、時間内にすべての要因を潰さない限り、負けてしまうのです。そして、肯定側にとってアキレス腱である「政策実効性」のところを否定側が叩いても、「原発全面廃棄しても、他の発電方法で十分に賄える」という議論で肯定側は対抗します。
けれども、ディベーターはその結果を見て、反原発になることはありません。なぜなら、「一つの事象には常に二つの視点があり、その対立する項目を擦り合わせることによって、本質が見えるから。」とわきまえているからです。肯定側・否定側のどちらにも付ける利点は、「物事を複眼的に、多角的に見なければいけない。」と思えることです。
二項対立に必要な慎み深さ
したがって、「反原発 対 原発推進」という二項対立は、専門家が議論している相対する論点を自分が第三者として、審判として聞き、自分の頭の中で判定を下せばよい内容のものです。どちら側に付かなければいけない、というものではありません。あるいは、付いても良いのですが、「自分がすべてを知っているのではない。」という慎み深さを持っている必要があるのです。
けれども、反原発運動をしていること自体が間違っているのではありません。あらゆる市民運動には、その達成すべき目的があり、社会において一定の役割を果たします。けれども、やはり、政府があり、行政があり、世論があり、その他の社会構成要素の一部に市民運動があるからこそ、その運動に意味を持つと言う「慎み」が必要です。しかし、運動は先鋭化しやすいです。あたかも万能であるかのように、酔いしれやすいのです。そして、少しでも異見を耳にすると排除し、排斥し、酷いときは粛清するのです。
「反キリスト」の霊
共産主義運動によって死んだ人々は、ナチスが殺したユダヤ人やその他の少数派の人々の人数を超えます。なぜそうなってしまったのか?理論構築をした後に、その理論を実践しようと言う純粋さがあったからです。頭の良い人ほど、そして純粋な人ほど、その過ちに陥りました。
聖書的に話すならば、それは「反キリスト」の霊です。ダニエル書7章8節をご覧ください。反キリストは「人間の目」として登場します。その目は知性を表します。そして小さな角として登場します。「角」は権力を表します。そして「大きな口」があります。それは口がうまいのです。
この口は大きなことを言って、そして角はどんどん多くなり、他の角を切り倒します。そして、ついに既存の法則を変えようとします(25節)。さらに、神ご自身に言い逆らう言葉を吐きます。そして先代ものを一切否定します(11章37節)。我こそが神であると宣言するのです。
要は「高慢になってはならない」という戒めです。
反原発の人たちからの批判
もしこれまでの私の一連の意見を、推進派の人たちが読むならば少し拍子抜けするでしょう。大いに賛同する人はいないと思います。けれども、反原発の人は批判または非難するでしょう。「あなたは政府のこと、東電のこと、放射能のことを何も知らない。」と言って。私はただ、多角的に、総合的に、キリスト者として今の出来事を判断しようと努力しているだけなのに、なぜか推進派のレッテルを貼るのです。これが題名で書いている「二項対立という罠」です。
キリスト教神学にある二項対立
キリスト教の神学の中では、「人間の選択」と「神の主権」の間で、「アルミニウス主義 対 カルビン主義」の議論が盛んです。神は救いを選ばれたのに、信じると言う選択によって救われるのか?という疑問です。事実は、人間の知性では相矛盾するその二つを隣り合わせに神はしておられます。
けれども、アルミニウス主義の人よりも、カルビン主義者のほうが先鋭化しやすいです。それ関連の本を読むと、何か覚醒したような気分になり、そして理論構築のために時間を費やします。そして、反対意見に対する弁証法も身に付け、自分の信仰をその理論で要塞化してしまうのです。そしてむろん、このような極端なカルビン主義に対する反カルビン主義論も盛んです。
イエス様は?
イエス様は、どちらにも当てはまらない方でした。イエス様は「バランス」の中におられました。エルサレムにて律法学者らに試しを受けた時に、例えば、税を支払うことは律法にかなっているのかどうかと試した時に、「神のものは神に、カエザルのものはカエザルに。」と語られました。
サドカイ人が復活について試した時には、「あなたは聖書も神の力も知らないからです。」と言われました。それはパリサイ派の意見と一致していました。だからパリサイ派なのかと言えばそうではなく、むしろパリサイ派の安息日の解釈に真っ向から対立し、それゆえ十字架刑に処せられたのです。
けれども、主はよみがえられました。復活後、そして聖霊によって教会が誕生した後の迫害者は、むしろサドカイ派でした。なぜなら、サドカイ派は復活を信じないからです。そしてパリサイ派の人から信者になる人が多く出ました(使徒21章)。しかし、また他の問題が起こりました。「ユダヤ主義」というものです。異邦人も割礼を受けなければ救われないと主張したのです。
とらえどころのない真理
人間はどうしても極端になります。なぜか?それは私たちの肉を喜ばすからです。「自分」に理解しやすくなります。「自分」で全てを判断できると思ってしまいます。「自分」が正しくなります。肉の働きの中には、「党派心、分裂、分派」があることに注目してください(ガラテヤ5:20)。
真理はとらえどころのないところにあります。真理は、自分で理解・掌握することができないようにし、それに自らがひれ伏し、服従するようにさせます。へりくだって信じ、受け入れることによってのみしか悟れないようにさせます。知性を増幅させることができないようにさせます。
けれども、人間の理解を超えて、思いもつかないような偉大なことを行ないます。良い実を、真理を受け入れた人から見ることができるようにします。その人が無知でも、多くの知識人を賢くします。逆に私たちが人間的に賢くなる時、むしろ神の知恵を失うことになるのです。
日本が今、放射能汚染の危機にある時にこそ、より冷静になり、今、起こっている目の前の現象を見ると同時に、キリスト者であれば、神の視点から見る余裕、複眼的要素が必要なのです。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。(出エジプト記14章13節)」
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