来週の日曜日の夜から、水曜日のお昼まで、静岡城北教会の牧師、見城さんが主催する、有志の仲間たちによる「マラナサ・バイブル・フェローシップ」の集会に参加しに行きます。場所は「富士山麓の村」です。テーマはそのまま「再臨」で、私はテサロニケ人への手紙から二回に渡ってお話ししようと思っています。
そして、私たちが初めて南カリフォルニアのカルバリー聖書学校を訪問した時(1994年)、そこにに通われていた学生の一人が菊地一徳さん(Kaz カズ)でした。彼は今回、もう一人のスピーカーとして招かれています。また久しぶりにお会いできるので楽しみです。
彼は長野県で教会をしていて、「マラナサ・グレース・フェローシップ」と言います。そこにある内容は盛りだくさんで、読んでいてとても楽しいです。そこにある教会の紹介のページに、以下の礼拝の心構えについての言葉がありました。辛口ですが、私たちの心にちっくっと来るところがあるのではないでしょうか(私はありました!)。どうしても形式的になりがちな礼拝です。一度読んでみましょう!
*********************************
礼拝のようで礼拝にあらざるもの・・・
日曜日だけクリスチャンになる事。
日曜日だけが礼拝日だと考える。
特に用事がない時の余暇としての礼拝。
クリスチャンは何処でも、いつ何時でも礼拝できるので、教会にわざわざ足を運ばなくてもよいと言い訳する事。
親睦目的、ご利益目的等、神をほめたたえる事以外の他目的礼拝。
礼拝に遅刻しそうになって慌てて苛立つ事。
教会に着ていく服装のことで口論する事。
礼拝に向かう車中で喧嘩し、教会に到着すると何もなかったかのように敬虔なフリをする事。
礼拝に堂々と遅刻して人目をはばからない事。
教会の椅子を他人の礼拝を観覧する為の客席とする事。
礼拝厳守しない人を蔑視し、さばく事。
賛美を説教前の前座、ウォーミングアップ程度だと考える事。
何も考えずに国歌や校歌のように賛美を習慣的に口ずさむ事。
カラオケのように賛美を歌い自分の歌声に酔いしれる事。
自分に引きつけるような賛美のリード、発表会のような賛美演奏。
人に聞かせる、作文のように読み上げる祈り。
あたかも神が何も知らないかのように情報を並べ立てる祈り。
念仏を唱えるような主の祈り。
長い祈り、美辞麗句のオンパレードが立派な祈りだと考える事。
退屈な決り文句を繰り返す、実のない無味乾燥な祈り。
人の祈りの最中、別のことを考える事。
祈りの課題を他人事として聞き流す事。
礼拝中、時計をチラチラ見る事。
礼拝前に遊び疲れて説教中に居眠りする事。
説教を興味のない講義のように散漫な心で耐え忍ぶ事。
先週の説教内容を忘れる事。
説教を聖書によって吟味せず鵜呑みにする事。
説教をいわゆるお説教として個人攻撃の場とする事。
説教を寄席の興業、独演会のような小劇場だと考える事。
説教を仕込みや下ごしらえを要する手の込んだ料理ではなく、レトルトやインスタント食品のように提供する事。
説教後に説教のポイントを確認するような説教じみた祈りをする事。
神が貧乏であるかのように献金のアピールをする事。
献金を搾り取るような礼拝集金プログラム。
神ではなく、人目を気にしながら献金する事。
会費のように支払う献金。
税金のように嫌々渋々支払う献金。
プレッシャーの伴う献金、プライドの伴う献金。
献金に見返りを求めるご利益主義。
献金で牧師を食わしてやっているという思い上がり。
献金を地域清掃に参加しない出不足金のように考える事。
当番だから、他にやる人がいないから否応なしに機械的にする奉仕。
奉仕に気を取られ、奉仕にかまけて礼拝どころではなくなる事。
主の晩餐よりも今夜の晩餐の方が気になる事。
キリストの裂かれた体と血を象徴するパンとぶどう液をスーパーの試食の如く軽率に口にする事。
同じ礼典でも聖餐式を自分の洗礼式の時のように新鮮な気持ちで受けていない事。
究めつけは、礼拝後が礼拝前よりもキリストの似姿に変えられていない事。
これら全ては礼拝にあらざるもの。私たちは礼拝中に自分が礼拝していない瞬間を断続的に持つ。これら一つ一つを改めていけば、私たちの礼拝はより一層、神に喜ばれるものとなる。礼拝は自分や人を喜ばせるものではなく、神を喜ばせ、主の栄光を現わすもの。天のまことの教会における礼拝者は全てキリストに似た者とされている。そこで私たちは完全な礼拝をほふられた小羊に永続的に捧げるのだ。MGFは地上で礼拝を捧げながら携挙を待ち望みつつ、天の礼拝を目指す。
(http://www.mgf-jc.com/mgf-churchより)
*****************