「改めて『戦争』を考える その1」の続きです。
それでは、戦争をなくし、平和を希求するためにはどうすればよいのでしょうか?
1)「戦争」は、一人一人の心の中にある
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(ヤコブ4:1-2)
国と国との戦いを論じる前に、自分の身の周りで不和の関係になっている人はいないか?私たちの個人生活で、また自分の属している組織の中にさえ平和が存在しないのに、ましてや一・二億人の人間を抱える国家間に、争いをなくすべきだと言ってどうすんでしょうか?まず、根っこにあるのは一人一人の「心の中にある貪りや欲望」なのです。
そして人間関係以前に、「神との関係」はどうなっているのか?自分をこの地上に誕生させてくださったのは神であり、今に至るまで生かしてくださっているのも神であります。この神に背を向けていれば、それは完全な不和状態です。神は、その反抗のゆえに裁かなければいけません。
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2:3-5)
2)キリストが罪を取り除き「平和」となってくださった
キリストがその敵意を代わりに十字架上で負ってくださいました。ゆえに、罪は取り除かれました。国の戦争行為がなくなることが平和ではなく、「キリスト」=「平和」なのです!
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:15)
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:15)
3)平和の君キリストを受け入れるよう招くことこそが、「平和を造る者」である。
イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」と言われました。それは、使徒パウロが言っているように、「足には平和の福音の備えをはきなさい。(エペソ6:15)」というものです。
私も信仰を持つ前は、ヨーロッパにおけるキリスト教に絡んだ戦争の歴史を聞き、またアジア諸国にも帝国主義と共にキリスト教が伝播したのを知るにつけ、戦争についての疑問を持っていました。けれども私が聞かされていなかったのは、例えば中国内陸に入り、現地人と同じように辮髪にして福音を伝えたハドソン・テーラーの話
など、数多くの宣教師の個人犠牲の歴史です。
ですから、私はイラク戦争にしても、その戦争の是非は問いたくありませんでした。それは、それが私たちキリスト者の中心点ではないと思っているからです。むしろ、そのイラクに福音を携えて入っていった宣教師たちに注目しています。これは、はっきりした神の御心だからです。
4)キリストのうちにあるからこそ「一つ」になれる
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)
かつて敵同士であった者がキリストを信じて、親愛の仲になったという証しは数知れません。例えば、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄氏と、日本軍の捕虜となり拷問を受けたジェイコブ・デシーザー氏の出会い、元パレスチナテロリストと、元モサド工作員のユダヤ人がそれぞれキリストに回心し、親愛の仲になることなど、キリストが平和の源であるからこそ、この方を主とする者たちの間には、私たちの理解を超えた深い平和で結ばれるのです!
5)「平和」は、「自分に関するところ」から
国家の戦争をどのように平和裏に解決するのか、ということを考える時があっても良いでしょう。けれども、キリスト者は自分の身の周りで平和を保つように命じられています。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)
そして国に対しては、「服従」と「執り成し」そして「感謝」によって平和をもたらします。
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(1ペテロ2:13-17)
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。(1テモテ2:1-3)
6)「主よ、来りませ!」
そして、この世界全体に平和が来ることを求めるのであれば、それはまさに神が望まれていることです!神は初めに、アダムを造られた時にその平和な楽園を与えられました。けれどもアダムが罪を犯したために、この世界がサタンの傘下に入ってしまい、それで国家間にも不和が生じるのです。
キリストは、初めに来られた時に、私たちにある争いの心を取り除くために来られました。それから次に、この世界をご自分のものし、世界の争いを終結されます。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。(1コリント15:23-25)
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ2:4)
したがって、世界平和を願うのであれば、世界の王であり、平和の主権者であられるイエス・キリストの到来を、熱烈に慕い求めることです!
主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、マラナ・タ(来てください) (1コリント16:22)
「改めて「戦争」を考える その2」への1件のフィードバック
コメントは停止中です。