「ナザレのイエスは神の子か?」

LCFの礼拝が開始して、早7か月になろうとしています。信仰を持たれた方々から続けて出てくる神についての質問、また伝道を試みる時に出てくる未信者からの質問をたくさん受けています。このロゴス・ミニストリーのホームページにも、「イエス様を知らない方へ」というページを設けていますが、キリスト教に関する真摯な質問についての邦訳された良書は次です。

「ナザレのイエスは神の子か?」 リー・ストロベル著 いのちのことば社出版

上のリンクに出版社からの、詳しい紹介と説明がありますのでご覧ください。自分の本棚の図書として置いておきたい一冊です。

私がスクール・オブ・ミニストリーで、”Apologetics”という題名の授業を受けました。日本語に訳すると、「弁証学」あるいは「護教論」になります。信仰を持っていない人の前において、自らの信仰の弁明をすることです。ペテロがこのことを次のように言っています。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:15)

使徒の働きにも、パウロ等が福音を伝えている時に「論じた」という言葉が数多く出てきますが、キリスト教史において、数々の著名な教会指導者は、各時代にあったキリスト教に対する反対論や異端に対して論駁する形で、キリスト教の支柱たる真理の説明を書き残しています。本書のリー・ストロベルのような人も、現代社会においてその遺産を受け継いでいると言えます。

私の学校の授業の先生は、ドン・ステュワートという人で、その分野で多くの奉仕をしている人です。英文ですが、私が受けた彼の講義とほぼ同じ内容のノートがネットで見つかりました。 → Apologetics Course (13年10月22日現在、リンク切れ こちらに新たなサイトがあります。)

本書「ナザレのイエスは神の子か?」では、著者が法廷ジャーナリストということで、現代風にさまざまな疑問をその専門家らにぶつけていますが、それらはほぼ、私が学んだ弁証学の基本を網羅しています。例えば、

「キリスト教も、仏教も、イスラム教も、みな結局は同じことを話しているのです。すべての道は神や天に至る。」という意見に対しては、

「互いに根本的に相反する教えをしているのであるから、同じであるはずがない。」
「イエス・キリストは、他の宗教の創始者とは別格の、独特な存在である。
– 宗教の創始者は『教え』を垂れたに対して、
イエスは自分自身が信仰の対象であるとされた。
– その主張を、証拠をもって見せられることによって権威を示された。
– イエス・キリストは、何百年も前から預言されている
数々の条件をその生涯で満たされた。
– 復活された。」

「・・・と言っても、それは聖書に載っていることだろう。聖書は後世に弟子たちが作り上げた神話ではないのか。」に対しては、

「新約聖書の写本と初期の翻訳を合わせると約二万四千ある。しかも、発見された本文は初めに書かれてから50年以内に書き写されている。似たような時代に、信憑性のある文献として認められている写本は、例えばカトュルス(ローマの詩人)は写本が六つ、そして原本が書かれてから1600年後の写本である。著名な「ホメーロス」も、写本は643で、期間は500年経っている。」

リー・ストロベル氏は、これを「福音書はスクープ記事のような新鮮なものだ。」と表現しています。

そして日本版に直してみますと、私はよくこう訊ねます。「では、豊臣秀吉が存在していたことは信じられますか?」当然、日本人なら誰も疑うことはありません。この人物についての第一資料は大量に残されており、その人生は非常に詳細に浮かび上がらせることができるわけですが、イエス・キリストについての記述も同じように膨大であり、しかも実在してからたいした時間を経ることなく記述されているのです。

そして、同著者は、第二弾として次の本も書いています。

「それでも神は実在するのか?」

これもぜひ手にしてみたい一書です。目次を拾い出してみますと・・・

悪や苦難がこの世に存在する以上、「愛の神」は存在し得ない
神の奇蹟は科学の法則に相反する。よって、奇蹟は真実たり得ない
生命の神秘は進化論が証明した。よって神は必要ない
罪のない子供を見殺しにする神は賛美に値しない
「イエスだけが救いの道」と説くキリスト教は傲慢極まりない
愛の神は、人間を地獄で苦しめたりしないはずだ
愛を説くはずのキリスト教史が抑圧と暴力に彩られているのはなぜか

いかがでしょうか?ある書評では、「こちらのほうが日本人には必要かもしれない。」とありましたが、同感です。イエス・キリストの前に、「神の存在」に対して疑問がわきます。この世の苦しみの現実と、神の愛や公正との間に矛盾があると感じます。

世界に起こる戦争、飢餓、そして地震や津波など、「なぜこのような悪を神は許しておられるのか?」という質問が多いです。特に身近にいる、愛する人が死んだ時にはその葛藤は熾烈になります。原発の被災者の人のブログにも、「人災と言われても、世界中に数多くある原発は安全に稼働していて、なぜ福島だけなのか?」という問いが書かれていました。

私自身も、そのようなお話を聞くとき、自分自身「なぜ?」という問いの重みを体の中で感じます。そしてやみくもに、軽々しく答えを提供したくないと思います。ただその中で分かってくるのは、「神は解答を提供されないが、その苦しみの渦中に共にいてくださり、そして究極の慰めと、永遠の希望を与えてくださる。」ということです。苦しみは、これまで「対人」で生きてきた人が、神に向き合うきっかけになるということは確かです。

ロゴス・ミニストリーの「イエス様を知らない方へ」のページにも、こうしたキリスト教に対する疑問に回答する欄を設けてみたいと思います。

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