いのちのことば社の冊子のウェブ版の、「時代を見る目」の項目の中に二回に渡って、実に大切な提言をされている方の記事がありましたので、ここに紹介させていただきます。まず、一つ目です。
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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 1 巨大津波が露わにしたこと
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪
千年に一度の巨大津波が東日本太平洋岸を襲ってから3か月。被災地域の方々だけでなく、日本のすべての人が、この大災害がもたらした社会の地殻変動におののいている、と言っても言い過ぎでないだろう。
2004年12月26日に発生したインド洋大津波の半年後、復興移行支援のためにスマトラ島で過ごした。家々が立ち並んでいた場所が、今回の日本の震災場面と全く同じように、爆撃後のように無残な土台だけになっていた。そこで一つのことに気づかされた。巨大津波という危機は人々の表面を剥ぎ取り、奥底を露わにするものだと。
日本社会も、奥底が露わにされ始めている。高度経済成長時代を終え、必要が十分に満たされ、航空機なら「巡航高度」に達した80年代後半から日本人が大切にしてきたものは何だったのか、と。経済先進国と同様に、「お金で保障された、すぐに手に入る個人の快適さ、居心地よさ、安心の飽くなき追求」ではなかっただろうか。自分が暮らす地域と世界の隣人の必要に目をとめ、自分の生き方を省みることには目を閉ざして。
巨大津波は、私たちに快適さを保障していた原発の事故を引き起こし、科学・技術への過信は収束長期化をもたらした。私たち日本人にはこの出来事の意味を理解する世界観がないために、不安と無力感で覆われている。
永続する世界観を持つはずの日本のキリストの体が今、問われているのだ。「飽くなき追求」という偽りの生き方を正しいとし、見せかけの「巡航高度」を保ちながら「無縁社会」へと崩壊した日本社会で、キリストが教えてくださった「地の塩」として生きてきたのか、と。
日本経済が「失われた20年」と言われ、情報伝達速度と量が劇的に加速・増大して個人の嗜好が多様化し、すべてが「私」に仕えるような錯覚をもたらす「時代」に、巨大津波が露わにしたのは、私たち日本の教会こそ、時代の見極めと行動を怠ってきた、という厳粛な事実なのかもしれない。
「ことば」が人となり、当時のユダヤの社会に「塩」として生き、11人の頼りなさそうな弟子を残しながら永遠の「神の国」の土台を築いたキリスト。この21世紀の大震災後の日本で祈らずにいられない。「主よ、この目を開けていただきたいのです」と。
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002728)
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そして、もう一つの記事も紹介させていただきます。
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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 2
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪
混迷を深める原発事故は、私たちが知らないうちに何を頼りに生きてきたかを突きつけている。科学・技術への絶大な信頼の底にあるのは「将来を予測したい。私たちはすべてをコントロールして安心を手に入れよう」という思いだ。政府による年金や個人の保険などの保障制度も、将来が変わらないことを前提にした安心保障と言えよう。現代日本社会は科学を駆使し、公私共に保障制度を備え、人生すべて万全の守りで固めて思い通りになる、かのような錯覚をもたらす社会になっている。日本社会が目指すことを言い換えれば「未来のすべてを見通せる神の能力を持ちたい。そして思い通りに未来をコントロールして永遠に安心したい」という願いにほかならない。まさに「神なき人間万能主義」、ヒューマニズムが栄華を極めている社会だ。
が、人間は「万能の神」にはなれない。この主義を前提にした社会で生きる私たちの予測と準備は裏切られ続け、「安心」とは逆に個人の不安は雪だるま式に膨れ上っている。今回の震災ではライフラインを失い、不便で不安な日々を送られた方々が大勢いた。ライフラインを失わなかった日本人の多くも「予想を超えたことが起きたらどうしよう」と不安に怯えた。
私たち日本人キリスト者は、この「人間万能」社会で、どのように生きてきただろう。そう思いながら福音書を読んだ。ユダヤ社会で神に従いたいと願う人々へのイエスさまのチャレンジは、「目先の損を取ること、将来の保障を手放すことを選ぶように」だった。この生き方は、一見、不安が倍増しそうだ。が、そのときこそ、全能の神の指の働きが見えてくる。「人間万能」社会が囚われているもの、すべてがわからないと不安になることから解放され「永遠のいのちを生きるようになる」と。
日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。
(注: 読みやすいように改行を加えました)
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002741)
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非常にするどい指摘です。私も以前、「政府や東電を信頼するな? 」という記事で指摘したことですが、今回の震災で日本人は、究極的なまでに創造神以外の物に対する絶対信仰があったことが暴露されました。これこそが日本人の根本的な霊的問題であり、キリスト者はこれを最大の不幸とみなさなければならないのです。
私は海外生活をしている時は、日本社会では絶対にありえないすごいことが起こっていました。社会的には最低の生活です。実は先進国のアメリカでさえ、医療制度の酷さを妻の怪我や病気を通して体験しました。けれども、その両国にあったのは霊的な自由でした。神にそのまま拠り頼み、神にそのまま祈っていくことのできる自由と、単純な信仰がありました。けれども日本はそれをさせない強い力が働きます。
それでも、生活で苦しみや試練を通して神に近づくことができる人々に出会います。悲しむ人は幸いである、というイエス様の御言葉はその通りなのです!
生活をきれいにまとめて、きれいに整理して、きれいにクリスチャンらしく(?)批評して、そして自分は安全圏の中にいる・・・、で良いのでしょうか?人間というのは、もっともっと、どろどろしているはずです。詩篇のダビデ、創世記のヨセフ、そしてイエス様ご自身が、予想のつかない、そして損をする、計画とは反対のことが起きる、「不便」な生活を送られました。
神への絶大の信頼、これが少しでも日本で生まれ出てくることを願ってやみません。
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