(その1の続き)
私たちは2005年から2010年まで、日本でもなくアメリカでもない他の国に住んでいましたが、三ヶ月後に震災に遭い、その後の日本がかつていたその国に少しにかよったことに気づきました。
一つは、1)の「正常性バイアス」に関連することですが、「予期せぬことが起こる」に慣れていました。最近、自宅の前で水道管工事がありましたが、ポストにその工事の予定を告知する用紙が投函されていました。これは私たちがいたところでは皆無です。抜き打ち工事であり、マンションの住民のことは一切考慮されず、その出入り口を塞いだりすることは当たり前で、すぐそばで突貫工事を真夜中に行なっていることもありました。
その他、卑近な例ですと、歩道だと思っている所に自動車が突然走ってきたり、二メートル先の所で建物の工事現場から燃えている火の鉄の塊が落ちてきたりと、常に「予期せぬ」ことでいっぱいでした。
けれども、そこですぐに感謝できたのは、「その分、余計に神に拠り頼みやすくなった。」ということです。今日の安全は、祈りと共に始まり、祈りつつ与えられていました。自分が生きていることを、こじつけではなく、真実に、素直に「神の守り」であることが実感できました。
その反面、日本は前もって「変化」を伝えるという計画性を持っています。東電の「計画停電」というのはその典型例です。しかし、それは生活基盤の安定した先進国だからこそできることであり、この発展も神の恵みで与えられているということを人々は無視しています。あたかも、家を煉瓦で作り、そこに瀝青(アスファルト)で塗り固めたバベルの住民のようです(創世記10章参照)。
しかし、津波は、自然の威力の前では人の築いた物が無力であることを教えました。それでも私たちは、今でも「自分にはこれらの災いが起こらない」という錯覚を持ちながら生きているのです。災害心理のみならず、霊的にも錯覚した状態で生きています。
次の2)「愛他行動」を考えてみます。この行動は一見美談に聞こえますが、実は悲劇です。真実は、「津波てんでんこ」なのです。意味は次のとおりです。
「てんでんこ」は「手に手に」に接尾辞「こ」が付いたこの地方の方言で、「てんでんばらばらに」という意味。「津波が来たら、肉親に構わず、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」がこの伝承の本来の意味である。津波は到達速度が速く、肉親等に構っていると逃げ遅れて共倒れになってしまうため、「一族を存続させるためにも、自分一人だけでもとにかく早く高台へと逃げよ」という意味があり、また「自分の命は自分で守れ」とも含意しているとされる。また、自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない、不文律にもなっている。(Wikipediaの説明)
日本の人々は、「みなが一緒に生きていく」という優れた国民性を持っています。我先に行動することは醜いとして見下げます。けれども、それには自然の脅威やその他の危機においては通用しないことを今回の津波は教えています。「自分の命は自分で守る」という責任を果たさなければ、家族や共同体さえも失われてしまうという人間生存の原理があるのです。
私たちが、他国の人たちにも福音宣教をしている中で、日本人に特有だと気づくのは、「福音を知らないで死んでしまった家族の人は地獄に行ったのですか?」という質問です。日本人には「これは人間なら全ての人が抱く質問ではないか」と思うでしょうが、彼らは疑問として抱くことはすれ、信仰上の悩みとまではなっていません。家族の間でも、「あなたはあなた、私は私」という自己が確立されています。
けれども、日本においては、初めてキリスト教を布教したカトリック宣教師ザビエルでさえ、受けた質問であり、日本人がいかに「永遠の命」という個々人の問題に対しても、他者と一緒に救われなかったらいたたまれない、という負い目を持って生きているかがよく分かります。
自分自身が救われる、ということついて、「自分が家族の中でどう思われるのか」「先祖の墓はどうすればよいのか」などの心配によって、信仰の決断を後回しにするときに、自分の命を失うばかりか、その家族の命をも死に至らせるということを知らなければいけないのです。「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 (ローマ14:12)」
そして、家族を救うことはできるのは、初めに自分が救われてから、次に、ようやく神の憐れみによって与えられるものなのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)」あくまでも「自分の救い」を考えなければ、自然界だけでなく、罪から来る罰においても、災いを免れることはできません。
そして3)の「同調バイアス」についても、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という考えが日本人の中に横たわっています。真実は、「赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ」なのです!他の人々と異なる行動を取るのを私たちはひどく嫌います。けれども、真理というのは、多くの場合、他の多くの人々と異なる道を選び取ることなのです。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)」
さらに4)の「エキスパート・エラー」について言うならば、これは自分の判断を放棄しているところから来ています。これはまじめな人ほど陥りやすい過ちです。自分で判断することこそが、災害時においての行動基準であることは、防災の専門家の多くが指摘していますが、同じことが霊的識別にも言えます。私たちは、人の与えた規則や意向ではなく、神が与えられた御霊に導かれるという責任があるのです。
日本は極めて、規則正しい国です。法治国家であることはもちろんのこと、マニュアルや行動基準が極めて発達している社会であり、人々もそれにしたがって生きていこうとします。けれども、私たちがいたところでは、その正反対でした。規則というのは単なる“標語”です。実際、守ろうとすればこれほど理不尽なものはないと思われるものばかりなので、守る気にもなれないというのが現状です。
被災地がある程度、そのような状況になりました。マスコミの情報や、役所の規則だけを聞いていれば、「被災地では何の救援活動もしなくてよい」という結論に至ります。私たちの救援活動の第一回目は、石巻を目指していましたが、その途中、被災して掃除と修理をしていた「サンクス」に、「もしかして、この地域は救援物資が必要なのでは?」と何となく感じて、入って聞いてみた、というのが始まりです。二回目には、その直前に、近くの韓国人教会で私が説教奉仕をしていたときに、たまたま東松島の被災者の人と出会って、その方の被災した家の写真を撮ってきましょうか、というのが始まりでした。
そのずっと後、数ヵ月後に、東松島市の方にボランティア活動をしていることを告げました。本当は役所を通さなければいけなかったのですが、私が既に行っている活動と、現地の人たちと直で行なっている旨を話したところ、すんなり、その後の活動も許可等を与えてくださいました。
被災地は、その場その場で決めていかなければいけないこと、そして決まり事ではなく、人と人とのつながりで広げられるものが沢山あります。これは主との関係においても同じであり、律法ではなく御霊の導きにしたがうこと、そして、プロジェクトではなく、人々との神の愛のつながりが霊的奉仕であります。
以前の記事「21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる」の筆者は、次の言葉で文章を締めくくっています。「日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。」
今の日本の危機は、神が働かれる契機なのかもしれないのです!
(その3に続く)
「NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その2」への2件のフィードバック
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