本日、図書館で借りてきて、飛ばし読みですが読み終わりました。この本題に惹かれたのが、「日本語訳の聖書」ならず、「聖書の日本語」と、日本語のほうに焦点を当てているのではないかと思った点です。
以前、「据わらないキリスト教用語」という記事を書きましたが、まさに「目から鱗が落ちる」点が二つありました。
一つは、私たちは「日本のキリスト教は西欧からの輸入」と思っていますが、聖書翻訳について言えば中国訳にかなり依拠しているということです。
日本のキリスト教受容は,西欧人によって伝えられたために,ともすると西欧の影響のみが表立っていた.ところが,今回改めて思い知らされたのだが,日本の聖書翻訳に占める中国語訳の大きな比重は,キリスト教受容にも影響を与えずにはおかなかったであろう.あえていうならば,日本のキリスト教の受容は,聖書語に関する限り,儒教や仏教の経典と同じく,中国経由なのである.(本文から)
もう一つは、日本語には、聖書に使われている言葉がかなり多く定着している、という点です。始めに挙げた「目から鱗」というのは、パウロが水のバプテスマを受けたときに、聖霊のバプテスマも受けて「目からうろこのような物が落ちて」という使徒の働き9章18節から来ています。「豚に真珠」もそうですし、日本語に十分定着しています。
ルター訳がドイツ語の基礎を作ったとは,よく言われることですが,日本語への翻訳の歴史の中でも,聖書はまた格別の意義をもつようです.聖書の言葉,言い換えればキリスト教の考え方が,どれほど深く近代日本の精神に喰い込んでいるか.数々の発見に満ちた,聖書翻訳物語です.(編集部から)
英語と日本語の翻訳の違い、また韓国語と日本語の翻訳の微妙な差異から、説教そのものの内容まで変わるという場面をしばしば見てきたので、聖書の「言葉」というものが気になっていました。
ちなみに、ウィキペディアで、聖書翻訳の変遷の歴史を読むことができます。→ 「日本語訳聖書」
聖書本文の違い
そして、もう一つ聖書説教の準備で大きく立ちはだかるのは、「底本」です。旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシヤ語ですが、現存している写本の校訂版のどれに依拠するかによって、当然翻訳が変わってきます。旧約のヘブル語は「マソラ本文」で統一されていますが、新改訳では、旧約聖書のギリシヤ語訳である「七十人訳」やシリヤ語訳を採用している場合、また直訳ではない言い回しが頻出するので、とまどうことがしばしばあります。けれども新改訳の良さは、頁下にある「引照」です。そこに直訳や、ヘブル語の訳など翻訳の背景になっている説明が数多く出てきます。それを皆さんも参考にされると良いかと思います。
そして、さらに厄介なのが新約聖書です。しっかり聖書を読んでおられる方は気づいているでしょうが、「節」が飛んでいる場合があります。例えば、ヨハネ5章4節を探してください・・・ありませんね!それで引照を見ると、異本には3節後半から4節には次を含む、という説明があります。これは章と節を振った時と、今の翻訳の底本が異なるためです。往々にして、現代の翻訳では省かれています。参考までに、チャック・スミス牧師の「マルコ16章」の講解(日本語訳)を読んでみてください。
私は、本書でギリシヤ語の底本として何が使われているかが参考になりました。明治元訳においては、「公認本文(テクストゥス・レセプトゥス)」が使われていたけれども、英語のRevised Versionを参照した「大正改訳」では「ネストレ校訂文」を使ったそうです。これが、現代私たちが目にする「文語訳」になります。
そして、戦後直後「口語訳」、それから「共同訳」「新共同訳」と変遷しますが、本書では福音派の人たちが使う新改訳は取り扱われていませんでしたが、新改訳も文語訳で確立した基本的な聖書用語はほぼ全て踏襲していることも分かりました。また、新改訳もネストレ校訂文を底本にしていますから、現存している日本語訳聖書で、英語の欽定訳(King James Version)の依拠している公認本文を底本にしているのは、明治元訳以外に存在しないということになります。
ところで昨年、翻訳されたとされる「現改訳」は、ビザンチン・テキストを底本としているようで、とても期待しています。
聖書翻訳の比較
聖書を学ばれるときに、ある箇所の意味が分からなくなったら、まずはその前後を読んで、文脈を把握してください。それで多くの場合、その言葉の意味が分かってきます。それでも分からなければ、他の翻訳を参照することをおすすめします。ネット上にもたくさん存在します。