「バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その1」と「その2」で、バチカンを中心とするカトリックについてお話ししましたが、そこで言及した次の本を、一気に読み終えました。
とても参考になる本でした。前知識のない人々にも十分に理解できるように何度もかみくだいて説明し、まるで一般人に公開された大学の講義のように語りかけている文体になっています。
本題に私はとても魅かれました。バチカンは「聖」つまり宗教的側面があるだけでなく、「俗」つまり世俗性を最大限駆使している、という点です。バチカンは、大国を含む世界の国々が謁見訪問するほどの外交力を持っており、各国もその力を活用していることです。宗教改革者たちは、カトリックを黙示録17章の「大淫婦バビロン」としましたが、そこにはこう書いてあります。
「地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。(17:2-3)」
イエス様が、「わたしの国はこの世のものではない」と言われたにも関わらず、その発祥から世俗国家に対して権力を行使する教会体を築き上げたその重厚な、目に見えない力は物凄いものがあります。そしてバチカンは、国連を好んで言及するようです。国家を超越する世界的機関による管理を好みますが、この女が乗っている獣はまさに世界統一された国家であり、その総統である反キリストであります。
そして「聖」に関してですが、著者は文明論から、バチカンが日本にとって良い外交相手になることを、「一神教」を唱えながら「多神教」も取り入れている現実主義を採用していると言って、プロテスタントと比較しています。長文ですが、引用してみます。
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<その3> 「中間項」の維持 ― 工夫・妥協の名手
考えてみれば、カトリック教会は、二千年を「生き延びる」過程で、あるいは「世界性」を達成・維持する過程で、多くの「工夫」をしてきました。たとえば、中世初期ケルト族への布教の実をあげるべく、地母神信仰を取り込んで聖母信仰としたこと、各地で民衆の尊敬を集めた人を「聖人」や「福者」として顕彰し、民衆の心を引き留めたことなど、カトリック教会の示している柔軟性、工夫の事例と言えます。
そもそも、創造主(神)だけではあまり抽象的であるということで、神と人間の間にキリストという「中間項(パラメーター)」を設けることで生まれたのがキリスト教です(イスラムはそのようなパラメーターを設けていない)。その後、それだけではまだ足りないということで、聖母、聖人・福者、聖遺物、法王、教会など様々な「中間項」を追加しました。その結果、「分かりやすさ」「親しみやすさ」は格段に増しました。それに対し、個人はキリスト・聖書と直接向き合うべきで、「中間項」の如き「不純物」は不要だとして、聖母信仰、聖人・福者尊崇などを排除し、ローマの法王庁に反逆したのがプロテスタントでした。まさに、イデオロギーの純粋性にこだわる「純化思想」であり、「原理主義」です。カトリック教会はイデオロギーの純粋性より、民衆にとっての分かりやすさ(現実性)を優先させており、プロテスタントとの対比で言えば、「清濁併せ呑む巨人」との形容が可能でしょう。
(太字は著者。41-42頁)
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クリスチャンであれば、「プロテスタントとカトリックの違いは何ですか。」という質問を受けていると思いますが、私もしばしば受けます。礼拝前に教会案内のチラシを配っている時「キリスト教も教派がいろいろあるからな。」という言葉が耳に入りました。近いうちに、初心者向けの「プロテスタントとカトリックの違い」の記事を書いてみたいと思います。
上の文章でお分かりのように、カトリックの過ちは「歪曲した教えを唱えている」ことではありません。そうではなく、「純粋な神への信仰と福音にたくさん付け足している」のが問題です。私は、以前、長崎のキリシタン名所とカトリック教会を訪問する旅行に行きましたが、なぜ戦国時代、日本に至る所にキリシタンがいたのか容易に想像できました。土着化に非常に長けているのです。
(その2に続く)
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