(その1からの続き)
そして著者は、文明論的に日本人がプロスタントよりもカトリックのほうが馴染むのではないかという理由として、次のように述べています。
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純化思想であり、「型」の文化(注:「中間項」にある形あるもの)」に欠けるプロテスタンティズムは、「個人の内面に神の声を聴く」というような主観的解釈を生み出し ― つまり、個人に下駄を預ける度合いが強い ― 極端な解釈に突っ走る危険性を内包しています。もう少し砕けた言い方をすれば、「プロテスタントは、何を言い出すか分からないところがある。」ということです。この点は、プロテスタントの影響が色濃く残る米国社会を眺めれば容易に気づいてもらえる点だと思います。また、プロテスタントの流れを汲みつつ、西欧北部を中心に強まりつつある「新しい信仰(注:「科学信仰」「表現の自由信仰」「人権信仰」「環境信仰」などの「脱キリスト教文明」のこと。)」にも同様の体質 ― 独善的になりがち ― があります。
(太字は著者 116頁)
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捕鯨に強行に反対するシー・シェバードの例も著者は出しています。日本の人たちは、クリスチャンも含めて、米国にあるキリスト教原理主義の政治への介入を問題視していますが、それは欧米社会の一面だけの見方です。その背後には、極端にキリスト教価値観に反対して、反キリスト的になっている動きが政治の中にも浸透しているという現状があります。実は、そうしたリベラルな人たちも、著者のいう「一神教的プロテスタンティズムの原理主義」から脱却できていないのです。
本書を読んで、自分自身や周辺の目を向けてみました。私たちは確かにカトリックの作り出した「中間項」を持ってはいけません。自分自身が、聖霊の力によってキリストご自身に出会い、聖書ににらめっこしていく過程が大前提です。そうでなければ、まさに偶像崇拝の罪を犯しており、黙示録が警告するバビロン化を免れません。神はご自分の「言葉」によって世界を造られたのであり、そして「言葉」によって私たちと親密な語らいを持ってくださいます。ちょうど仲の良い男女が、その容姿以上に、よく語り合って互いの人格を知るように、です。
けれども、使徒ヨハネは、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 (1ヨハネ4:20)」と言いました。またヤコブは、「さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』(2:18)」と言っています。見なければ、分からないのです。言葉だけでは分からないのです。真実に、行いをもって兄弟を愛し合っていることが、また貧しい人に施しをすることなどの慈善、また実際的な純潔が(ヤコブ1:27)、聖書の定義する「中間項」なのです。私たちにありがちなのが、「私を見ないで、イエスを見てください」という態度ですが、ペテロとヨハネは、「私たちを見なさい(使徒3:4)」と堂々と言えました。
個人の内面のみを強調するあまり、極端な解釈に突っ走る傾向が、特に他のクリスチャンと交わることを好まない人々に顕著に現れます。また、単に文化的な活動を教会に取り入れただけで、「それは異教的だ」と断じる人たちもいます。
私は以前、ハワイのクリスチャンたちによる「フラダンス」に反対する人に対して、聖書的に許容されることを弁護しなければいけませんでした。けれどもカルバリー所沢や、カルバリー府中などの、ハワイ出身の宣教師の良いところは、祭りをしたり、ご飯をたくさん教会で用意したり、いっしょにただ時間を過ごして遊びにいくなど、ごく自然にクリスチャンが交わる場を提供できており、それらによって、神の愛を肉眼の目で見ることができる中間項を設けていることです。
あと一ヶ月もすればクリスマスですが、その時に、今、何をしようかなと考えています。神が肉体を取って現れてくださったことを感謝するために、聖霊様が、礼拝後の愛餐等の交わりにおいてもご臨在してくださることを期待しています。
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