益川敏英氏の「積極的無宗教」

先の「科学はキリスト教を否定する?」の記事で参照した本の一冊が、「 『大発見』の思考法」でした。山中伸弥氏と益川敏英氏の対談です。私の記事の一番下に、お二人が交わした進化論についての話題を引用していますが、どちらも進化論を信じていません。iPS細胞の第一人者である山中氏においては、「そのうち、ダーウィンの進化論は間違いだった、ということになるかもしれない」とまで言い切っています。

他の対談の内容の中でも、科学理論というのは徹底的な批判精神をもって検証するものであって、信じ込んではいけないという姿勢が見られ、やはり科学者のほうが、一般人よりも科学の限界というものを知っているんだな、と感心しました。私も高校時代に、化学の先生が教科書に載っている公式を「こうじゃないかもしれないからね」という紹介をしてくれた時に、科学とは何ぞや、というものを垣間見た気がしました。

けれども、益川氏は興味深いことを話しています。山中氏は生物学を専門にしていますから、「これは神様にしかできない、と思うようなことがたくさんある。」と告白していて、益川氏も呼応して、こう言っています。「医学系の先生の中には、ここ二十年ぐらいの間にクリスチャンになっている方がけっこう多い。子供の頃からクリスチャンというのではなく、五十歳前後になってから洗礼を受けられているんです。(183-184頁)」とのこと。これはすごい!お医者さんの中で小さなリバイバルが起こっているんですね、と思いました。

けれども、益川氏は「積極的無宗教」と自称して、それは「信じない」のではなく、「信じている人をやめさせる」ほうだと仰っておられます。

「神」というのが、自然法則を説明する時によく出てくる。例えば雪の結晶には一つとして同じものがなく、実に不思議だ。」と誰かが言った時に、「神様がお作りになったのだ。」と神様を引き合いに出して説明するのが、いちばん手っ取り早い、とのことです。

こうすれば、とりあえず問題は解決したように見えるけれども、近代科学は、せっかちに答えを求めることなく、「答えがわからなければ、わからないままにしておけ」という態度だ、ということです。山中氏が「一つの理論を証明するには、これ以上疑えないというところまで徹底的に突き詰めて検討するのが科学の常道」と言っている通りで、徹底的な批判精神が大事だということです。

私も、確かに雪の結晶がすべて独特であることについて、科学者に「神がなさったのだ」と言ってもらいたくはありません。(笑)それは信仰者また私のような聖書教師が伝えるべき職分であり、科学者の方には、まだ解明できていない自然法則に果敢に立ち向かってほしいと願います。

けれども益川氏は、「宗教」ことに「キリスト教」の性質について勘違いしておられると思います。ご自身は科学者の職分として、安易に神の帰することをやってはいけないという強い戒めの表れでしょう。けれども、その科学者として生きていくのみが果たして人生の全てなのでしょうか?山中氏は、ご自身の宗教について「苦しい時の神頼みはします。(笑)」とこぼしておられますが、仕事において、また家庭生活において、そして「死後」という、科学では絶対に検証不可能な、けれども百%明らかな「事実」に対して未解答であることこそ、「人間としては不全の状態、宙ぶらりんの状態」とは言えないでしょうか?

日本男にしばしばありがちな、「何ふりかまわず仕事だけやっていて、後は何も残っていない」ということにはならないでしょうか?

そして益川氏は、「宗教は嘘」だとして、その理由は「入信させるという『結果』が宗教において重要視されるのであって、『論理の過程』は必要とされない点で近代科学の考え方に真っ向から反する」と言っています。それで信じさせるためには、いくら嘘をついても良い、と言っています。

実に面白い論理です。けれども、これもキリスト教の性質の勘違いから来ている言葉です。

もし人が小難しい論理なしに、純粋に単純に神に信頼すれば、それにこしたことはありません。けれども神が、人が信じるに値する真実な方であることを示すために、いろいろな事象や論理を提供しています。これは神に対する態度のみならず、対人関係でも同じではないでしょうか?すべての実証を済ませて、ある人に信頼を置くのでしょうか?違いますよね、その人を信じるに至るには、すべての知識がなくても、どこかで信頼するという過程を踏んでいます。まさか、あらゆる人に益田氏は疑い深くなっているわけでもないでしょう。キリスト教は、俗にいう「入信」が目的ではなく、人と同じように人格を持っておられる「神」を知ることが目的です。

そして、嘘があることの例として、創世記5章にあるアダムからノアに至るまでの系図を益田氏は取り上げています。「アダムとイブの子孫の誰々は何百歳まで生きてから子を産んだという記述もあるけれども、それはとうてい信じられないので、人の寿命を百年として計算してみました」と言われていますが、なぜ現代の寿命と昔の寿命が同じだと言う前提に立つのでしょうか?科学者らしからぬ非論理性ですね。昔の環境と今のとでは同じなのでしょうか?もし違っていたら、長寿もあった可能性も十分にあり得るわけです。

そして人類の歴史を計算すると聖書では、「せいぜい六千年かそこらしかならなかった」と言って、「それよりももっと昔から人類がこの世に存在したことは、すでにいろいろな事象により明らかになっている」と言っていますが、そもそも計算を勝手に寿命百年にして勝手に本文を歪めているところに問題があります。自然現象に謎があるからといって、分かり易くするために検証された事実を歪めたら、それは捏造というもので、科学者としては犯罪です。嘘つきは宗教のほうではなく、聖書の謎めいた部分を自分の理解の中で勝手に解釈する方です。

聖書を解釈するときにも、「分からないものは分からない」にしておくという鉄則があります。そして、分からない箇所があっても文脈から、また聖書全体に流れているものから、それが書かれたであろう目的を見出すことができます。そうした聖書釈義という学問があり、それには近代科学に類似しているものがたくさん存在しているのです。下手にキリスト教が人間の歴史の中で存在していたのではありません。前述のように、近代科学の父祖たちは、聖書に立脚したキリスト教の中で、秩序、絶対の真理、一定の法則というものがあるに違いないという信仰によって、数々の発見をしてきたのです。

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