(前記事の続き)
進化論にとどまらず、今の日本社会、そしてキリスト教内にまで侵入している強い哲学が「唯物論」です。
唯物論とは
唯物論についてウィキペディアで見ますと、「唯物論(ゆいぶつろん、マテリアリズム、英: Materialism、独: Materialismus)とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。」とあります。(こちらは、浄土真宗の信者によるブログですが、唯物論についての分かりやすい説明があるので参照してみてください。)
次いで、ウィキペディアはこう説明しています。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。
例えば、世界の始まりは神の創造によるものであるという考えは排除し、「ビッグ・バン」によって物質の爆発であると考えます。けれども、ビック・バンでさえ、「宇宙には始まりがある」とする創世記の記述により近づいたのであり、一世紀前には、科学ではなく宗教だと考えられていたのです。ダーウィンが思想的に強い影響を受けたライエルの斉一説(昔も今の自然現象と同じであったとする説)が主流でした。
そして、次の説明を読んでみます。
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。
これは、先に説明したとおりです。さらに、次も読んでみます。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
教会に浸透している唯物論
これらの説明を読んで、私は、意外にも、日本や世界のキリスト者は唯物的な考え方にかなり侵されていると思いました。
進化論で言えば、「有神的進化論」という立場を取る人たちがいます。進化の過程に神が介在されていた、とする考えです。しかし、その進化の過程そのものが唯物論に立っているので、両者が成り立つはずがありません。そのような人は、創世記1章と2章の間にある記述に矛盾があると言うのですが、実に基本的な聖書釈義をわきまえていない初歩的なミスを犯しています。
そして教会の中には意外に精神的に病んでいる人たちが多いです。そこで教会の中で、精神医学や心理学が取り入れられて、「鬱は脳の化学物質のアンバランスによって生じているものであるから、薬を飲めば大丈夫だ。」と平気でいう牧師がいます。実に乱暴な意見です。そして、精神的な病に対して、実に簡単に専門家に頼めばよいとする向きがあります。しかし、精神医学の専門家の間で、その危険性や弊害が盛んに議論されているのです。(例えばこちら)
そして、例えばアメリカの中東政策に関して、経済格差のために過激派が生じているのだ、その貧しさを引き起こしているのはそのようなアメリカの経済支配のせいである、とするマルクス主義をそのまま信じている教会指導者もいます。イスラムが、ユダヤ教とキリスト教の発生の延長として出てきた、極めて私たちの信仰体系に関わっている宗教であるにも関わらず、その神学と思想体系を学ぼうとせずに、「経済の形態やその変化」によって語るのです。
聖書には、イスラエルの民とその敵が衝突して戦っている姿が、そして中東を中心とする世界が広がっているにも関わらず、「現代は理性によって社会が進展した」、したがって“文明間の対話”によって平和を構築することができるのだ、と考え、事あるごとにイスラエルやアメリカの軍事行動を批判する人も、やはり唯物的な史観に立っているのです。
共産主義・社会主義は唯物論
米国の人たちは共産主義に対して生理的嫌悪感を多かれ少なかれ持っていますが、日本人はそこまでの抵抗感がありません。けれども、これが何をもたらすかは、先ほど参照した唯物論の説明を引用すれば分かります。
もし人間が機械でしかなく、心(感情も含め)は電気信号でしかないなら、愛情も電気信号で何らかのプログラミングの一つでしかないわけですね。その笑顔も、感謝の言葉もつくられたもの。涙流しておわびしているのも全部誰かのシナリオ。こころから 悪いなんてさらさらおもっちゃいない
もしすべての人が機械なら、心からのおわびを期待するのが間違いですね。愛情をもとめるのもおかしい。そんな心はないのだから。あったとしても所詮はつくりものだから。
自分の機械なら(たとえばパソコン)を分解しても文句をいわれる筋あいはないし、違和感も感じません。ではあなたが購入したペット(犬とか猫とか)も同じように分解してもいいことになりますね。人間を殺しても機械を壊したレベルの話しですよね。本当にそれでいいんですか?
「そんなことを思うはずないではないか?」と思われるかもしれませんが、事実、スターリン、毛沢東、ポルポト、そして昨日死んだことが発表された金正日は、みなこのことを平気で行ってきたのです!アメリカのCIAが、ちょっとテロリストに拷問をしてしまった、という領域の話では全然ないのです。そして社会主義国にありがちな、平気で嘘をつくこと、環境破壊、子供を人身売買で売ることなど、これらはみな唯物的な考えから来ているのです。
偶像崇拝より悪い唯物論
私は幼い時の原体験として、神社があり、年越しや元旦参りがあり、その反動として神社や仏教の伝統行事に対して強い反応をしますが、唯物論は、神道的価値観、多神教よりも悪いものだと思っています。
「彼(=反キリスト)は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。(ダニエル11:38)」
キリスト者は、もちろん宗教に関わる伝統行事には参加しません。けれども、それはあくまでも自分自身が天地を創造された神を愛しているからであり、その背後にある共同体の意識や、自然を超越したところに何かがあるとする考えそのものを否定しているのではありません。むしろそれらを大切にしない人々の中には、自分自身が神となっています。自分しか信じていないのです。そして何をあがめるかというと、「とりでの神」つまり、武力という物質を崇めているのです。これこそ唯物論でなくて何なのでしょうか?
しばしば、米国内を中心にして、「私たち教会はキリスト教原理主義にある反知性に陥ってはならない」という意見がありますが、むしろ逆に、「私たちは、物質を絶対化する価値観に対抗しなければならない。」というのが真実ではないのでしょうか?
科学は検証可能なものだからこそ成り立つものであり、その理論が絶対真理ではないことを、科学の健全化のためにも訴えるべきです。科学を相対化していかねばなりません。そして、精神病や深刻な人間関係の問題の時に、専門家に委ねる時があるでしょうが、専門家の見識や力を過大視してはいけません。長血を患った女は、医者にかかってますます悪くなりました。
私たちはもっともっと、キリストの御霊に、その愛の御霊により頼まなければいけません。心傷ついた人に必要なのは、カウンセリングの専門知識以上に兄弟姉妹にある愛と祈りであります。専門家がどんなに分析しても、それを全きものにする実体は専門家には存在せず、私たちの間におられるキリストなのです。
そして、信仰をまだ持っていない方へ - 神は、人間が作り出したものだとお考えでしょうか?そうではなく、神がおられて、その中に人間が生かされている、と考えたほうが自然ではないでしょうか?なぜ、机上の空論ではなく人間の根源が問われる時、つまり苦しむ時に「神様」と叫ぶのでしょうか?美しい絵を見たときの感動は実在しないのでしょうか?唯物論的にいえば、それは単なる色彩を持つ化学物質にしか過ぎないのです。薬が本当に人の心を癒すのでしょうか?今は、精神科医の出す薬の依存症という病まであるのです!「物」というのは、目に見えない価値に服従してこそ存在目的があるのではないでしょうか?
後記:「社会主義も唯物論だが、資本主義もそうではないか」という、資本主義の中にある危険性を指摘してくださった意見を頂戴しましたが、私もその通りだと思います。
進化論の発表から社会進化論なるものが出て、それから「自然淘汰」という言葉が社会的にも使われるようになりました。産業発展の中にある、弱者切り捨てていく土台になり、その問題は今にまで続いています。ただ、その対抗として社会主義思想が出てきたのですが、それもやはり唯物論思想に基づくものであり、どちらも私は唯物的発想だと思います。
ただ、マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘されているように、「正直であること」「勤勉であること」などの聖書的価値観が、市場経済の中で生かされうることは確かです。
そして弱者救済においても、私は日本の社会福祉制度は優れていると思っていますが、「国」の果たす役割もありますが、「教会」が主体的に関わっていく自発的な救済がもっと強調されていいのではないか、と思っています。(今回の、キリスト教団体の主体による被災者救援はその良い例です。)国はその性質から官僚主義に陥りやすいし、それに頼ることも神への信頼を疎外することにもなっています。
そして社会主義国家の中では、政治的自由や信教の自由は制限されますが、霊的自由については、神の主権によってかえって守られている、という部分があります。教会が迫害によってかえって清められ、前進するという神の原則です。信教の自由のある国ほうが、しなくてもよいことを行ってしまう、肉が働きやすい余地が多く残されており、私たちは彼らにはない克服すべき課題を持っています。
「唯物論という敵」への2件のフィードバック
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