初めから物語る歴史 - イスラエル その1

「今」を知るための物語

この前の日曜日、午後礼拝の後の交わりはとても楽しいものとなりました。来年のイスラエル旅行に思いを馳せる人が何人かいて、私はさっそく、今のイスラエルを知るための基礎知識を紹介しようとしました。けれども、今のことを話そうとしたとたん、私の口は聖書時代から話し始めていたのです。「今」を語るためには、連綿とつながっている歴史そのものを語り継げなければいけないことに気づきました。不思議に、一つのことを話そうとするとそれが数珠繋ぎになって「初め」へと戻されるからです。

聖書の中には、何度も何度も「物語」を語り継ぐ場面を発見します。誰もが、今の自分たちに至るまでの歴史を語り継げて、それで今の自分を見つめ、主に従うことを指導者は勧めます。申命記というモーセの説教しかり、ヨシュアの晩年の言葉(24章前半)もそうですし、ソロモンは逆に神殿を建てた後に、これからの歴史、つまり預言を祈りの中で行いました(1列王記8:27以降)。

モーセも、同じように過去のみならず、一つの「歴史」としてはるか終わりの日まで語り(申命記28-30章)、その父祖ヤコブも死に際に、息子たちに未来の歴史を語りました(創世49章)。神は、私たちに一貫した物語を人生として与えておられ、それをご自分の作品にしておられるような気がします(エペソ2:10)。

後世は、詩篇の著者が105,106,136篇など、いろいろなところでイスラエルの歴史を語り継ぎつつ歌をうたっています。バビロン捕囚からエルサレム帰還後にも、ネヘミヤ記9章においてレビ人らがイスラエルの歴史を初めから語り、神に祈り、悲しみの思いを告げています。

これは新約時代に入っても同じです。ステパノは、「律法に逆らう言葉を彼は話している」「神殿をこわせ、と彼が答えるのを聞いた。」という告発に対して、そのまま答弁するのではなく、イスラエルの歴史をアブラハムの時代から語り始めたのです(使徒行伝7章)。パウロも、ピシデヤのアンテオケの会堂で、出エジプトからイエスが現れてくださったことに至るまでの歴史を語っています(同13章)。

したがって、イスラエル旅行に行く時は、もちろんイエス・キリストが辿られた足跡を追うことが主目的ですが、その舞台であり文脈となっているイスラエルを知るには、初めからの歴史を順番に追って知っていくことが必要です。

聖書時代以外の歴史

私たちキリスト者、特に聖書が好きな信者たちは、聖書時代のイスラエルまたエルサレムの歴史は知っているでしょう。アブラハムから始まり、約束の地にヨシュアが入り、ダビデの時代にイスラエル王国が立てられ、その時にエルサレムがユダヤ人のものとなり、バビロンによる七十年の離散の歴史を経た後、帰還したということ。けれども新約の時代に入るまでに、ローマがその地を支配して、ユダヤ人には自治のみが許されていたことはご存知でしょう。

けれども、実は意外に知られていない二つの時代が聖書には書かれています。一つは「中間期」と呼ばれるものです。バビロンからの帰還の生活がエズラ記とネヘミヤ記に書かれていますが、その時代はバビロンを倒したペルシヤの時代に入っていました。そして旧約の最後のマラキ書はペルシヤ時代のものです。それ以降、イエス様がお生まれになるローマまでの時代は書き記されていないと思っていましたら、間違いです。「預言」として、いくつかの預言書に書かれているのです。

一つは「ダニエル書」です。ここに一番詳しく書かれています。ネブカデネザルが見た「人の像」には、バビロンから始まり、メディヤ・ペルシヤ、そして次にギリシヤとローマの姿が映し出されています。さらに、ダニエル自身が見た四頭の獣もバビロンとペルシヤの他にギリシヤとローマがありました(7章)。さらに8章には、ペルシヤとギリシヤの姿が詳しく描かれ、特にギリシヤ時代に出てくるアンティオコス・エピファネスと呼ばれるシリヤ(ギリシヤ帝国の四分割の国の一つ)の王がユダヤ人をギリシヤ化すべく大迫害を行なうこと、そしてそこからマカバイ家による反乱と、神殿の奪還の歴史が預言として記されています。さらに11章には、ギリシヤが四分割した後に、プトレマイオス(エジプト)とセレウコス(シリヤ)の長い戦争の歴史が記されており、詳細に中間期を描いているのです。

もう一つは「ゼカリヤ書」です。9章にはギリシヤの歴史、11章にはローマの歴史、特に紀元70年にエルサレムの神殿を破壊し、ユダヤ人を世界離散の民にした出来事が預言として記されています。

そして聖書時代を越えて語られているのは「離散と再集合の歴史」です。イエス様は、ユダヤ人が神を退け、実にその御子までをも退けたことによって、エルサレムが破壊されることを泣きながら予告されました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。(マタイ23:37-39)」

「荒れ果てたままに残される」ということが紀元70年から始まり、厳密に言えば今に至るまでその状態が続いています。エルサレムに神殿がなく、他の者に荒らされているということであり、「神殿の丘」に、イスラムの「岩のドーム」がある事実がそれを物語っています。

そしてそれが終わるのが、ユダヤ人指導者が「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と言う時であるのですが、それはイエス様が再び戻ってこられて、彼らがイエスこそがメシヤであることを気づく時です。そしてルカ21章24節によると、「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:24)」とあり、この時代が「異邦人の時」とイエス様は呼ばれます。

したがって、その後の離散の歴史とエルサレムが異邦人の支配を受けていた時代を知ることは大事なのです。

その2に続く)

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