ものすごく過激に聞こえる題名ですが、今横たわっている虐待にまつわる問題のことを考える時、また結婚などの男女関係にかかわる問題を考える時に、結論はこれだと思いました。これから、この女性と男性の間にある支配関係のことを書いてみたいと思います。これまで、家庭内暴力や性暴力、そして何と教会の牧師がそのような犯罪に加担しているというニュースも見聞きして、その中で深く考えさせられることは、男と女の違いであります。
「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(創世記3:16)」これが、エバが蛇に惑わされたために神から受けた呪いの一つです。女性は、相手に拠り頼み、信頼を寄せることに全神経を使いますが、その女の依頼を男が自らの支配欲によって利用するという醜い関係が描かれています。
家庭内暴力の問題を抱えている方が自分の悩みを打ち明けてくださったり、または人づてで話を聞いたことがありますが、どちらも「自分が耐え忍べば、夫は変わってくれるかもしれない。」という期待をかける場合でした。私がいつも思うことは、「本当に相手を愛しているのであれば、警察に彼を連れ出さなければいけない。」ということです。彼が自分のしていることの結果を刈り取ることによって、彼が改悛する可能性が出てくる、と私は思っています。けれども、その点が女性の理解しにくいところであり、どうしても自分に原因があると思ってしまうのです。
男というものを考えてみましょう。聖書の言葉を、フェミニズム(女性同権論者)の人も封建的な人も、いやクリスチャン自身も曲解していることがありますが、それは「男は女のかしらである」という言葉です。このことによって、女は男に従わなければいけない、という従属関係を教えていると話します。また男はこれを梃子にして「女が自分に従っていない」と嘆きます。とんでもない話です。この「かしら」というのは、女が男に従うということ以上に「男が女のことについて全責任を負う」という、人間的に乱暴に言えば、ものすごく男に不利な(?)宣言であります。
アダムが罪を犯しました。エバが罪を犯した、とは聖書には書かれていません。蛇に惑わされた、とだけ書いてあります。もちろんエバも人間として罪を犯したのですが、神は人の救済史において、アダムが神の声を直接聞き、そしてそれに反することを行なったので、彼によって全世界に罪が入った、としています。これが「かしら」の始まりであり、男女において男は第一に責任を取らなければいけない、という意味です。
そして、第二のアダムとなられたキリストは、ご自分がすべての人の罪をご自分になすりつけるということを行われたことによって、信じる者たちに対する「かしら」となられたのです。男はこの方にあって初めて、女に対するかしらの務めを果たすことができます。
現代になって、「男たちに男らしさがなくなってきた」と言われるようになりましたが、それと共に男が女性を精神的・物理的に蹂躙する事件が増えています。(母親が幼児虐待する事件も増えていますが、それも結論から話しますと問題の根っこは同じです。)これは一見矛盾しているようで、実は一つなのです。男が、勇気を出して神の前でへりくだることができなくなっているので、その責任のなすりつけを女や他の弱いと見える人に対して、暴力やその他の攻撃性を示すことによって表現しています。
こちらのブログ記事で、牧師による性暴力の事件が取り扱われていますが、その被害者女性(自殺によって他界)の母親が実名を出して小冊子を出しています。インターネット上でもその概略をご本人が書いたものが掲載されています。その一部を引用します。
- 性暴力の加害者はあくまでも、力や地位や権力や脅しを利用できる状況をしっかり「選択」し、容易周到に準備していることがほとんどです。「性欲」による「反応」が加害であるとは言えません。
- 加害者が利用できる状況をしっかり「選択」し、用意周到な準備をして被害者に接触することがほとんどです。宮本の知る限りでは宗教界での事件の多くが加害者は高度なテクニックを使います。
- 性暴力加害者に共通するのは「自身の弱さ」です。弱いからこそ、持った「地位、権力」を確認するために、あるいは持っている以上の力を誇示しようとするために、自分より弱い者を被害者にする、あるいは、自身の男としての力「こうあるべきとの思い込み」の確認もあります。
- 力関係の中での性的行為で、自分が絶対的な力を持っている場合、その行為は、他のセックスよりもより刺激的になります。(妻や特定の女性がいても同じです) 加害者はエスカレートしていきます。何度もくり返したくなる最も強い誘因は、セックスの刺激と力を感じることであり、一度これを手に入れると、やめられなくなります。
ですから、これは単に男の情欲だけの問題ではないことです。性的嫌がらせの被害者は、女性のみならず男性もいるとのことです。なぜなら、その根底に男女に関わりなく「自我の増大」があり、それを満たすための「支配欲」がありますからです。そして存在感の弱い人、「おとなしい人は加害者にはならない」ということではなくむしろ、自分よりも弱い人を捜していて、その相手に「自我をぶつけていく」ということを行ないます。しかし自分は弱い者(劣等者)であると思い込んでいるので、自分が加害行為をしている意識はまずありません。
ですから、性的虐待のみならず、他のいろいろな虐待やまたは支配関係の中で、共通の問題が横たわっているのです。
(その2に続く)
「男よ、お前が悪いのだよ! その1」への1件のフィードバック
コメントは停止中です。