(「「反対」の中にある福音宣教(1) - 金日成とキリスト教」の続き)
なぜここまで説明したのかと言いますと、これは福音宣教に深く関わることだからです。主は不思議にも、悪魔をご自分の栄光のために用いられました。神に反逆する悪魔とその手下どもが行なうことを、そのままご自分の計画の中に取り込まれます。最大の御業はもちろん十字架です。神の子を殺す、という最大の犯罪を、全人類の贖いという究極の、永遠の御心とされたのです。
キリスト者に強硬に反対し、迫害した使徒パウロは、「とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ。」とイエス様から言われました(使徒26:14)。「とげのついた棒」とは牛のくびきにつける突き棒であり、若い牛がくびきをいやがって足蹴りをすると、突き棒で痛くなるようにしているものです。サウロは、ステパノの証言を聞いていました。それが突き棒になっていました。そして彼はついに、復活のイエスに出会って突くのを止め、降伏したのです。
数年前のカルバリーチャペル宣教会議にて、Jay Smithと言う人が来ました。私は彼の宣教方法とその生き様に感動しました。ロンドンの広場で、イスラム教の過激派と論戦をすることによって福音を伝えています。彼はこういいます。「イスラム過激派に福音を伝えるには、同じように過激なキリスト教で応じるべき。(”The only way to deal with this radical form of Islam,” he asserts, “is with an equally radical form of Christianity.”)」彼は宣教会議でこう話しました、「私は過激派の彼らが大好きです。私たちの聖書を持ってきて、たくさん下線を引き、ポストイットを貼り、矛盾だと感じていることを論じてくるのです。私が彼らのその熱意に敬意を表します。」
彼はキリスト教の神学校でイスラム教を専攻し、イスラム教の教義については精通していました。けれども「文化」を知らなかった、と言います。イスラムの国やムスリムの共同体にいて、長年かけてこのことを学びました。そして過激派ムスリムをキリストに導くには、気に触るようなことを避けるのではなく、むしろ反対に、自分が信じていることに強い確信をもって語らなければ伝わらない、と確信するに至りました。(以上、記事Unapologetic Apologistから)
私たちはこれが必要なのです。第一に、「伝道対象相手を知ること」です。そのためには言語はもちろんのこと、その文化や生活習慣、社会体制、その他諸々のものを体得し、体感しなければなりません。イエス様は神の身分であられたにも関わらず、肉体を取られて、人々の間に住まわれました(ヨハネ1:14)。この方こそが宣教の先駆者であり模範であられます。そして第二に、御言葉に精通していることです。そして本当にそれを信じていることです。ある無神論者がこう言いました。
俺は今までずっと、伝道しない人なんて尊敬しないと言ってきた。全然尊敬できないね。もしあんたが、天国や地獄があると信じているなら、また、地獄に行ったり、永遠のいのちを持てなくなったりすることがあると、本当に信じているなら、いかなる場合でも伝道するはずだろう。伝道すると社会ではやりにくくなるとか、相手は「俺に構わないで、信仰は自分だけのものにしてくれよ」なんて言う無神論者だとかいった理由で、伝道しないのなら、それはおかしい。永遠のいのちがあることを知っていながら、それを伝えないのは、その人を憎んでいるのと同じことだ。どれくらいの憎しみを持てば、伝えないでおれるのかな。例えば、トラックが前方から走って来て君をひきそうになる。俺なら、君がひかれる前にタックルして、君を助けるよ。伝道するかどうかは、トラックにひかれそうになっている人を助けるかどうかよりも、もっと重大なことだろう。
Penn Jillette gets a gift of a Bible(Youtube)
ブログ記事「福音って「いいね!」 福音を「シェアする」」から)
福音伝道は、伝道プログラムを学習するような単なる技法ではなく、体と体がぶつかり合うような熱意なのです。
(後記:エジプト人のコプト神父ザカリア・ボトロス氏も同じような、イスラム教徒への直球宣教を行なっています。日本語による報告記事はこちらから。)
私たちはみな宣教者
では、今の私たちはどうすればよいのか?「ジーザス・フリーク(イエス気違い)」になってください。キリストの愛でいっぱいに満たされ、この方をいつもほめたたえ、この方に霊をもって熱心に仕えてください。
次に、御言葉をしっかり学んでください。御言葉を教えるのは牧師がすることという丸投げはいけないのです。キリストの弟子になり、牧者が教えていることを今度は自分自身が教えることができるようにする、ということを目標としてください。時には神学校や聖書学校が必要になることもあるかもしれませんが、それよりも、自分が御言葉を十分に教えられる奉仕者とならなければいけないのだ、ということを大前提に持っていてください。
そして次に、伝道対象である人々の中に住んでください。「自分」というものを捨てて、虚心になりその人たちの生き方や考え方を知って、自分自身もそれを身に付けてください。そうすれば、心からその人たちのことを愛せるようになります。他の人にはさげすむようなこと、嫌悪するようなことも、自分自身は愛着心を持つことができます。あるジャングル奥地の宣教師はこう言いました。「私たちは最高に幸せです。子供たちも最高の教育を受けています。昆虫が好きなのですが、ここは生きた博物館だからです。」
パウロはギリシヤ人にはギリシヤ人のようになり、ユダヤ人にはユダヤ人のようになりましたが、その根底にあるのは「全ての人の奴隷になる」ということでした(1コリント9:19-23)。それは迎合ではなく、自分を低めることです。自分を低めるときに、周りの人は始めて自分のうちにキリストを見る事ができるようになります。
「「反対」の中にある福音宣教(2) - 過激なキリスト教への招き」への3件のフィードバック
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