福音の立体的骨格を伝えるには? その1

米国から戻ってきたばかりの時の逆カルチャー・ショック

私たちが米国にいて、日本から訪ねて来られた人々に直球の伝道をしていたことがあります。ホームステイで短期に来られた人々に、そのままイエス・キリストの十字架の意味を教え、そして決断もお薦めするというようなことを行なっていました。かなり考え込んでくださっていましたが、それで信じた人はいませんでした。けれども、それでも伝えられたということで満足でした。

ところが日本に戻ってきて、その葛藤は深刻になりました。「四つの法則」に代表されるような福音の提示だけが果たして福音伝道であるのかどうか、ということです。特に、アメリカ人家庭でイエス様を信じたという日本人が帰国すれば、そのほとんどは初めから信じていない、ということが多かったのを見て、「イエスご自身を、立体的に輪郭をもって伝えられていないのではないか?」と疑問を持つようになりました。

文化習慣的な要素があることは確かです。米国のレストランでは自分の好きなメニューを瞬時で選んでウェイトレスに伝える姿を見ると、論理的に考え、選択をすることが日常で行なわれている欧米人には良いのかもしれないが、例えば、「阿片戦争」という映画で、英国人がYesかNoかと中国人官吏に迫っていたときに、腕を込んで考え込んでいる姿に表れているように、二者択一の決断がなかなかできない要素が多分にあるのではないか、と思いました。

そして人間関係が重要です。東洋人は相手を尊ぶがゆえに「はい」と答える傾向があります。相手が語っている内容に同意するのではなく、その人を重んじているのです。

けれども、それだけが要素ではないと感じています。一番大きな要素は、やはり重厚なユダヤ・キリスト教の歴史を欧米は持っているということです。イースター(復活祭)についても、例えば一般雑誌に「イエスは果たして復活したのか?」というようなことが特集記事になる程であり、読まなくても家庭に聖書が一冊あるほどなので、四つの法則で最終的な決断を勧めても問題ないところまで来ているのではないか?と感じています。

けれども、「四つの法則」は誰もが学ぶべき基本的知識です。伝道をするときに、この法則を念頭に入れておくのとそうでないのとでは歴然とした違いがあります。そこには、神の救いのご計画が実に見事にコンパクトにまとめられています。そして、最近米国では伝道者レイ・コンフォートが提唱し、実践している十戒を使った伝道方法も、注目に値します。反響を呼んだ”180“というビデオは、伝道する時に「考えていない人に考えさせる」という触発を与えるのは良いことであることを教えられました。

神の与えておられる接点

今、私が落ち着いている伝道するときの立場は、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たぬ人にはそのように」という使徒パウロの姿勢です(1コリント9:19-23)。そしてイエス様がニコデモとサマリヤの女に対して行なわれた伝道です。

私は全ての人が神からの知識を持っていると信じています。自然界に神の創造が現れているのはもちろんのこと、そうでなくてもその人が持っている興味、これまで歩んできた人生、自分の今の考えなどによって、そこに神が介在しておられると信じています。

イエス様は、聖書に精通しているニコデモに対しては聖書から話され、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女に対しては「水」から永遠の命を語られました。新しく生まれることを話したイエス様は、サマリヤの女に対しては「霊とまことをもって礼拝する」と言われて、巧みに言葉を変えて同じ真理を伝えておられます。ペテロも、イスラエル人に対して、「ぶどう酒に酔っているだけだ」という反応を取り上げて、そこから聖書を語り始めました。語る福音宣教者が、聞く者の中にある言葉や関心事、知識を土俵として、それを導入として語り始めるのです。

パウロの宣教を通して、数多くの人がイエス様を信じていきましたが、けれども彼はユダヤ人の会堂に初めに行って伝道しました。そして異邦人でも改宗者や神を敬う人々に向かって語りました。すでに聖書の知識を持っている人々、創造の神を求道している人に語ったので、それで信仰に至りました。反面、自分が願わぬ形で、テモテとシラスを待っていた時、独りで伝道したアテネでは、「知られざる神」という言葉から天地創造の神、そしてイエスの復活、そして再臨とその後の裁きを宣べ伝えましたが、多くの人はあざ笑うだけでした(使徒17章)。しかし、ここでも彼は、どこかで接点を見出して、そこからイエス様を語ろうと努力したのです。

私は以前、神道の信者に伝道したことがあります。その方は私が教会の者だと分かるとかえって興味を持って話しかけてこられました。その時に私が行ったのは、神道の葬式について質問したことです。目的は、相手とどのような接点があるのだろうか、相手が何に興味を抱いているのか、どのような価値観を持っているのだろうか、などを見極めることでした。-「自分が分からなかったら、素直に聞いてみる」ということは大事だと思います。- そして、ある程度の神道の信仰体系をお伺いして理解してから、それから永遠の命、そして罪と死について話したのだと思い出します。

また、死刑制度について話していた方がいました。自分の家族が殺されたら、自分は決してその人を赦すことはできない、そいつが与えた同じ苦しみをもって、苦しみを与えたいという感情が沸くだろう、ということを仰っていた人がいます。ここで、「それは罪だ。赦さないといけない。」と説教するのは極めて間違っていると私は思いました。なぜなら彼女はまだキリストを知らないからです。むしろ、その人の心に「報復の神」が啓示されていると思いました。私はこう答えました。「全くその通りです。苦しみを与えた者には、それにふさわしい報いを受けるべきだと思います。けれども私たち信仰者は、それを神がしてくださることを知っています。神が復讐してくださることを知っているので、正しい裁きが人間によって行なわれなくとも、神が行ってくださるという希望によって支えられているのです。要は、神を信じることが大事です。」と答えたかと思います。

パウロは、「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(1コリント9:22)」と言いました。自分の語る言葉を振りかざすのではなく、むしろ相手の僕となることによって、相手の土俵から福音の真理を語り始めます。相手が求める説明に対して弁明するような形で語るのです(1ペテロ3:15)。

そのためには、私たちは神だけでなく、神のお造りなさった人にも関心を示さねばならないでしょう。それには労力が伴います。自分が相手に教えるのではなく、初めに相手を知り、学んでいく必要があります。その人のところに届く宣教者とならなければいけません。その人の言語、その人の社会、その人の文化があります。そこに入ることによって、私たちが「イエス」というお名前を発するときに、相手にとって単なる言葉あるいは音で終わるのではなく、人格のある存在として伝わっていくのではないか、と思います。

その2に続く)

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