欧米的・福音的キリスト教に反発する人々

米国キリスト教で起こっていることは、英文でその情報が私のところに入ってきます。そこで従来の福音的なキリスト教会に対抗する形で、さまざまな運動が起こっています。教会としても、また神学としても起こっています。今回は教会として起こっているものを取り上げてみたいと思います。具体的にEmerging Church、もう一つリック・ウォレンの「目的主導」の教会成長について言及します。

近代キリスト教の流れ

その前に欧米におけるキリスト教の近代史を少しかいつまんで見る必要があるでしょう。欧米キリスト教は、近代になって「近代主義」というものが出てきました。「自由主義神学」とも呼ばれます。かいつまんで言えば理知主義であり、理性で理解できないものは捨て去る考えです。聖書に出てくる超自然的な記述は非合理であるから、それは当時の他の文献から比喩的・寓話的に書かれたものであるという解釈の仕方が生まれました。目に見えるものしか信じない物質主義的な考えです。

それに危機感を抱いた人々が、「信仰の根本原理」ということで、聖書の無謬・無誤性、キリストの処女降誕、奇跡、そして十字架後の復活、昇天と再臨を根本に信じていかなければいけないという動きが起こりました。それがしばしばファンダメンタリズム(根本主義)と呼ばれています。「原理主義」とも呼ばれ、揶揄されたり、警戒されたりするのですが、もしこの記事を読んでいる方が、「聖書は神の言葉である」「キリストは処女降誕された」「この方は完全に神であられ完全に人である」「私たちの罪の代償としてキリストが十字架につけられ、三日目に体をもってよみがえられた」「天に上げられ、体をもって地上に再臨される」という、これらのことを信じているならば、それが根本主義の主張なのです。

そして、この真理をしっかりと握って福音を伝えなければいけないという動きが起こり、その延長線上に「四つの法則」で知られるキャンパス・クルセードや、ビリー・グラハム伝道協会などがあります。米国にある宣教団体が世界にも働きかけています。

そして現代はポスト・モダニズムすなわち「近代主義の後」の世界にいるのだ、という人々がいます。つまり、近代主義のように物質的なもののみに真理があるとすることもせず、そして根本主義のように絶対真理があるということもせず、すべては感覚や感性であり、絶対真理というものは存在せず、それぞれが感じ取っていくものである、という考えです。それが米国内ではEmergent Churchとも言われ、「説教」ではなく「対話」、「教義」ではなく「経験」、「絶対真理」ではなく「相対主義」という考えをもって行なっています。

このEmergent Churchは、今は若者にかなり流行っているようなのですが、必ず「内なる混乱」が起こり破綻することでしょう。人間は感性や感情だけで造られているのではなく、知性や知識が神から与えられており、それを全否定するやり方は必ず人間混乱を引き起こします。

私個人は、神学的には、根本主義と聖霊運動の流れから出てきたカルバリーチャペルの影響を強く受けていますので、二つ目に書いた根本主義の遺産を継承していると言って良いと思います。使徒の書いた新約聖書(そして、もちろん使徒が旧約聖書の成就だとして主張したその旧約聖書も含めて)のいう「言い伝え」をしっかりと守りなさいと命じられたとおりに行なわなければいけないと信じている者です。四つの法則や、先日のフランクリン・グラハムの東北における伝道の働きにおいても、私は非常に感謝しているし、日本や宣教地域で有効活用していくべきだと思っている一人です。

その中で、もちろん米国福音派の動きだけに頼っているのでは決してありません。私は日本人ですけれども、日本に遣わされた宣教者だと思っています。つまり他文化において福音宣教の働きをしているわけであり、したがって米国内のキリスト者には見えてこない聖書的視点が与えられています。しかし、米国発信の福音的キリスト教が間違っているという批判をするつもりはなく、むしろその霊的財産(遺産)に敬意を払って、それでもって神が遣わしてくださったこの地でキリストから教えられて生きていく者であるでありたいと思っています。

反発した新しい動き

ところが、むしろ米国内で従来の福音的キリスト教に反発している動きがあります。その一つが上に挙げたEmerging Churchです。彼らは「教会堂の席に座り、正しい教理だけを詰め込まれるのが教会ではない。」という強い反発を持っています。根本主義者が強調するキリストの再臨にも強い反発を示し、この地上における幸福を大事にします。地獄の教義は生理的に嫌悪しています。もっと感情や感覚、自分の思ったこと、感じたことを大切にしたいと思っています。そして、ろうそくを灯したり、カトリックや正教会の儀式の一部を取り入れたり、神秘的アプローチも取ります。

そして、保守的な欧米のクリスチャンは、これらの動きは実に危険であり、福音の真理かから逸脱しているという思いを、いろいろな媒体で表明しているわけです。

私は、このような異端的動きが起こっていることに対して、確かに欧米キリスト教会に欠けているもの(そしてそれを輸入した日本のキリスト教会にも欠けているもの)を見ています。教会史において異端や他の教えが出ている時には、必ずと言ってよいほど教会自体の不足や盲点が浮き彫りにされていたときです。例えば教会が腐敗していたときに、アラビア半島からイスラム教が台頭しました。

Emerging Churchからの批判について言えば、現代キリスト教会には「生活」がありません。日曜日に教会堂に行き、そこで歌と説教を聞いて、それで家に帰って終わり・・・という生活がはたして、新約聖書で教えられている教会の姿でしょうか?むしろ、教会とは共同体であり、誕生したばかりのエルサレムの教会では文字通り財産を共有して生きていました。「互いに」という言葉が使徒の手紙の中に頻繁に出てくるように、キリスト者の間における生活の関わりが密接に行なわれていました。

しかし、それがEmergent Churchになるのか?というと、そうではありません。聖書は「交わり」だけを話していません、初代教会は「使徒の教え」を堅く守っていて、パウロや他の使徒は、主の言葉、神の計画全体を教えることに多くの時間を割いていました。そして神の家を真理の柱と言っていたように、言葉で宣言できることが可能な信仰によって成り立っていたのです。Emerging Churchにはそれが完全に抜けており、自分たちが何を信じているのか分からない、そして結果的にキリストご自身を捨ててしまうということになるのです。

リック・ウォレンの提唱した「目的主導」の教会成長にも同じことが言えます。(注1)確かに福音的キリスト教には、世に対する「言葉」を失いました。この世界に生きる人々に届かなければいけない福音なのに、キリスト教文化の垣根の中でしか通用しない言葉を生み出し、教会内と教会外で壁を作ってしまったのです。聖書的キリスト教は、「ギリシヤ人にはギリシヤ人のように、ユダヤ人にはユダヤ人のように」という、仕える姿で福音を伝えることでした。

そこで地域や社会に貢献できる教会を目指したわけですが、問題はその逆のことが起こったのです。「教会が世に届くのではなく、世が教会の中に入ってきた」のです。キリスト教とイスラム教を融合させるような発言を彼が行なったとして多くの批判を受け、彼は激しく反論しましたが、けれども傍目から見てやはり融合しているとしか思えない、いわば政治家のように八方美人になって語る、相手によって言葉を変えている状態です。

そして、根本主義的教会は携挙を強調し、キリストの地上再臨を強調して、この地上に対する関わりをなくしたとし、「自分たちでキリストの御国を立てるのだ」という考えで運動を進めています。個人としては「五つの目的」で知られる自己啓発の哲学に基づく書物が売れ、教会としては政治・環境運動とあまり差異のない人間主導の活動を行っています。

「欠けたもの」への反発から「必要なもの」を捨て去る

二つの動きに共通しているのは、従来の福音的キリスト教に見過ごされていたもの、欠けていたものに焦点を当てながら、それに反発することによって、肝心のもの、絶対必須のものも捨ててしまうという現象です。

これを放射能汚染に例えてみましょう、原発事故で放射性物質が発散されましたが、では私たちは空気全体をどこかに移動することはできるでしょうか?海水にも汚染水が出て行きましたが、海全体を取り替えることはできるのでしょうか?いいえ、もし空気を移動したら窒息します。海水を取り替えようとするなら、海の生物は死滅します。魚介類はもちろんこれから食べることはできません。多少汚染されていた空気であっても吸うことが必須であり、吸わなかったら被爆よりもはるかに即時的に、確定的にその人は死亡するのです。けれども、そうしたことを「反発」という動きによって霊的に行なっているのが現状です。

もっと聖書的、霊的に言えば、問題は「かしらなるキリストに結びつく」ことを忘れてしまったことです。

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2:8-10)」

あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ2:18-19)」

現代の教会のあり方に反発を抱いているのであれば、まずはこれまで、自分自身がキリストにしっかりと結びついておらず、聖書的ではない動きに振り回されていたことを悔い改めなければいけません。聖書を読みながら、実は「聖書を読む」というプログラムに自分の身を任せてはいなかったでしょうか?伝道しながら、実は、聖書に基づくキリストの愛に押し流された、御霊による伝道の努力ではなく、伝道プログラムの中に自分の身を任せてはいなかったでしょうか?キリストの切迫的来臨を聖書で見ながら、初代教会と同じようにこの方との再来を待ち焦がれ、慎み深く地上での生活を歩むのではなく、「レフト・ビハインド」に代表されるような小説でただ熱気立っていたのではないでしょうか?(注2)キリストではなく、教会で行なわれている一つの空気の中で自分が生きていたのではないか?という、自己に対する疑問を呈してみたらいかがでしょうか?

Emergentや目的主導のような動きが批判している、今日の福音的キリスト教の問題点は、福音的キリスト教が元々信じていたはずなのにどこかに置き忘れてしまったもの、信条としては信じているのに実践されていなかったものなどが、ほとんどです。教会のあり方を批判している人々に同調して、他のところ、他の人、他の動きに飛びつくのではなく、むしろキリストに立ち戻るのです。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15)」

注1:リック・ウェレンについての日本語による記事はこちらをお薦めします。
非聖書的人間主導型世俗化教会成長論 その栄枯盛衰の狭間で翻弄される日本の弱小教会

注2:私個人は「レフト・ビハインド」を評価しています。伝道用文書としてすばらしい小説だと思っています。以前にブログ記事を書きました。

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