「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その1

今朝、私の愛用しているLogos4(聖書研究PCソフト)のフェイスブックでN.T.ライトという新約聖書学者がインタビューに答えている動画を見ました。彼の著作が七割引だということ、そして彼の書いたマタイ伝の注解書に興味を示しました。サンプルもあり、内容的にはとても良かったです。それで続けて調べましたが、日本人の間では読書会が出来上がっているようです。

それで、いろいろと欧米では極めて人気を博しているこの新約聖書学者について調べてみますと、二つの流れを感じました。一つは、「見事だ、実に鋭いところ、かゆいところに手が届かないところを言葉に表してくれている」ということと、反面「誤解を教会に与え、物事を複雑にしていく」ということです。

ライト氏の主張の一つは「聖書は死後の天国を永遠の住まいとしていない」ということです。「地上での生活に神の豊かな意図がある。天に入ることが全てで地上での生活が狭められているのが聖書的キリスト教ではない。天に魂が行ってしまうことが終わりではなく、体をもった復活が主要な内容であり、永遠はむしろ天が地に下りてくる『新しいエルサレム』なのだ。」という主張です。

これは実に深い示唆であり、一見、異端的に聞こえますが、実は聖書が描く終末そのものであります。「死んだ後の魂の状態」よりも「死者の復活」に非常に大きな重点が置かれています。そして、神の国は地上に迫ってくるものであり、どこか宇宙の遥か彼方の空間に存在するのではありません。天は私たちが考えるよりも間近にあり、実に天が地における事象を支配していると言って過言ではありません。

日本の人に、「死後にどこにいくか気になりませんか?」と尋ねても、この世の生活を考えるだけで精一杯だという答えが返ってくる中で、伝道として新たな回答を用意できるのではないかと思いました。

私たちは、イエス様が間もなく来られることを待ち望んでいます。そして私はキリストの再臨によって、この地上に神の国が建てられることを堅く信じています。ゆえに、今の世界における生活・政治・文化・経済などにもある程度の関心を寄せています。そうでなければ、神の国の骨格さえ分かりません。

米国において韓国人宣教師が、私の導く聖書の学び会において面前でいかに私がカルト的であるかを説き(その学びでは語っていなかった「千年王国」を取り上げていました)、そしてこう言いました。「再臨は大切です。けれども、もっと大切なのは救いです。」私は唖然としました。「再臨をなくした救いって何なんだ?!」これは典型的な「魂が天に入ることが究極の目的」だと考えている、ギリシヤ思想に影響されたキリスト教神学です。NTライト博士の指摘するとおりです。

主はこの世の事象に極めて関心を持っておられます。人の心の状態の魂だけではなく、地上に起こる社会の動き、国のあり方など、旧約聖書から概観すればそのように結論づけることができます。その中でバプテスマのヨハネが「天の御国が近づいた、悔い改めなさい。」と説き、パウロは、今にでも地上に下る神の裁きから免れることを説きました。

そして天においては復活の体を身にまとうまでの中間状態については、どうなっているのかは明示していないのに対して、復活そのものが前面に現れています。キリストを初穂として我々が復活するというのが、パウロが第一コリント15章で詳細に説明している通りであります。(まだ調べたことがないですが、もしかしたらコリントにある教会はギリシヤ思想に影響されて、死者の体の復活を軽視していたのかもしれません。)

その2に続く)

「「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その1」への2件のフィードバック

コメントは停止中です。