「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その3

その2からの続き)

「携挙にさようなら」??

そして私が最も困惑したのは、彼の携挙に対する考えです。彼は、「携挙にさようなら」と言って、その教えを一蹴しています。この英文を読み、英語そのものは理解できても内容がさっぱり理解できませんでした。実に、「読み込み」を行なわないと出てこないような比喩的解釈であります。

「携挙→大患難→キリストの地上再臨」という教えを至極批判する人にありがちですが、「この教えを信じれば、地上に起こっていることには無関心になり、地球がどうなってもよいと思っている。」と思っています。冗談じゃない!と言いたいです。まず、個人的なことを言わせていただきますと、主が今にでも来られるから教会の開拓を始めました。一人でも魂が救われて欲しいと願っています。主が間もなくこられるかもしれないから、東北の救援活動も精力的に行ないました。「この世は悪くなり、主がその中に深く関わっておられるから、その中で光として輝きなさい。」という主の命令が、切迫再臨を信じることによって心の中で見えてくるのです。

そして私の知っている人々で携挙を強く信じている人が、主に関することで忙しくしていても、関心を示さずに呑気にしていることは全くいません。時々、インターネットなどでそういう人は見かけますが実に嫌悪感が出て来ます。

同じ「神の恵み」を信じている者でも放縦に走る者はいるし、「永遠の救いの保証を」信じている者で「罪の生活をしていても救いは保証されている」と曲解する者はいるし、どの聖書的教えにおいても歪曲し、汚れと不正の中に生きる者たちはどこでもいます。

やはり、私と同じ反応している人は多く、例えば彼の著書に対する以下のコメントがあります。「ある人は携挙を信じて、丘の中に隠れた生活をする。他の人は携挙を信じて、主の仕事に忙しくしている。予定論についても考えてみよう。ある人たちは誤って、他者に伝道する必要はないと考える。一方、愚かな宣教によって、キリストの声を羊が聞くと信じている。根っこが同じでも、このように異なる実が出てくるのだ。」

実は既に信じているよ!

そして、博士は欧米キリスト教の誤謬を批判しながら、実はその神学体系の中に彼の主張がそのままあることが多いです。携挙の話を続けますと、このように言っている人がいます。私もまったく同感ですが「私は、これからいうことで大声でディスペンセーション終末論を擁護するのではないが、ディスペンセーション神学の中で、携挙こそが『信者の死者の復活』になっていることを指摘したい。これこそが実は、新天新地の前に訪れる『死後の命の後の命』なのだ。」

「死後の命の後の命」というのはライト博士が好む言葉であり、「死後の天における命よりも、その後に来る復活の命に聖書は重点を置いている」と言うのですが、携挙はまさしく信者の復活が実行に移される一大イベントであり、だからこそ私たちはその希望に大いに喜び踊っています!

実はこのことが他の神学の領域でも起こっています。「信仰義認」といえば宗教改革の中核であります。それを大事にしているのは「改革神学」という体系を信じている人たちです。米国には有名な教師ジョン・パイパーがいます。ライト博士が従来の信仰義認について極めて否定的な見解を展開していたので、彼は苦言を呈しました。「極めて誤解を生みやすく、不必要に複雑だ」

このことに関して日本人の神学に詳しい牧師さんが記事に残しているので、ご参照ください。

N.T.ライトの魅力と限界についての単なる思いつきのメモ

ライト博士の主張
「本来的に聖書において「義認」が意味することは有罪判決の撤去を意味するのではなく、「契約の民に入れられること」である。」

この牧師さんの反論
「贖罪があってこその契約共同体への参加なのである。キリストは我々を罪から救うために来られたことは、聖書が創世記から黙示録に至るまで、ありとあらゆるところで語っていることであって、覆いようがない。」

あまりにも当たり前なのですが、少なくとも私たちのような聖書知識の凡人(?)には、この牧師さんの反論がすぐに思い当たるのです。そして大事ことを彼は述べています。

ライトは「子とすること」と「義認」とを混同している。・・・今の時代、ライトのような主張が人気を得る背景としての伝統的プロテスタントの問題は、義認論にエネルギーを傾けるあまり、契約神学における神の民に入れられるという意味での救いを軽んじてきたことである。また、それは・・・「義とされること」「子とされること」「聖とされること」のうち、「子とされること」を軽んじて来たことでもある。

「契約の民に入れられること」すなわち「子とされること」は、すでに改革神学の中で教えられています。けれども、それが「義とされること」を強調するあまり軽視されてきました。それでライト博士がその部分を強調し、強調するだけでなく、大切な「義認」の教えにも触れてしまっているのです。

つまり、題名に書きましたが「欧米キリスト教の「盲点」を突きながら、新たな盲点を生み出している」ということです。

市井のキリスト者のことを考えて!

ライト博士の著書に期待しているけれども、自戒してその内容を教会の現場に卸すことを控えておられる牧師さんの記事がありました。

教えの風とならないように

欧米で聖書論を巡って激しい論争が繰り広げられているそうです。そのことを懸念して、ある神学校教授がこう指摘しました。(以下は意訳です)「専門の学者が、福音の世界の一般人にどのような影響を与えるかを考慮せずに、自分の研究発表をごり押しする傾向がある。専門外の人が誤解しないように、注意して自分の資料を提示することが必要だ。これは意思疎通の訓練であり、残念なことに学者はこれに食指が向かない。不必要な敵意が時に新しい解釈に向けられるのだが、それは、一般のキリスト者に対する十分な配慮を欠いたまま提示されているからだ。」そして、日本で適用されるまでは、半世紀の月日が必要なのではないかということも指摘されています。

聖書研究ソフトLogosで、好きな聖書学者で一位になったぐらいですから、以上の私の見解は、この学者が好きな人からの風当たりは相当強いと思います。けれども、自分がそのまま素直に感じたことを述べました。私がそう感じているのですから、おそらく私の周りにいる普通に信仰生活を送っている兄弟姉妹も、同じ事を感じるだろうと思うからです。

前記事のテーマと同じですが、「教えの風」には吹きまわされずに、地道にキリストにあって成長していくことに集中していきましょう。(後記:英文ですが、彼の著書へのコメントで良い題名がありました。中身も良いです。”Good Scholarship Bad Theology(学識はあるが神学が駄目)”

【後記】(2012年9月22日)

N.T.ライトについて、ようやく一つの神学が分かりました。これは今、流行っている”New Creation Theology“(新創造神学)というものです。要は、今の世界の中で神の原初の創造を回復させる働きを積極的にやっていこう、とするものです。この単語を入れて検索にかけると、沢山の情報を得ることができました。批判的考察の記事を紹介します。

N.T. Wright and the New Creation
牧師さんが、ライト博士の講演を聞いた後で本人に質問した時の話が載っています。彼もまた聖書理解と実践におけるこの神学の適用に混乱し、困惑しています。

Rethinking the Gospel?(福音の再考察?)
こちらは著名な改革神学博士のブログで南部バプテストの代表が寄稿したものです。紹介した改革系の牧師さんの内容と同じであり、現代キリスト教が個人主義に陥り、福音が宇宙的な再創造にまで至らせる壮大なものであることを忘れている、という点ではその通りだが、「福音の中心は、人が救われること」であると強調しています。

もっと調べますと今の流行が少しずつ分かってきました。今は「目に見える世の中に入っていこう」という傾向が極めて強いです。ライト氏もそうですし、マーズヒル教会のマーク・ドリスコル牧師らが提唱するmissional churchもそうですし、そしてemerging church等、「世と一つになる」という宣教方法、また神学が流行っています。したがって、この世が滅びるであるとか、この世との分離という側面を排除しようとするのです。

キリスト教会に流行は存在しません。福音はいつまでも変わりません。しかしこの“古臭い福音”が、その時代にあって革命的な変化や新創造をもたらすのです

(「補足」に続く)