(その3からの続き)
フェイスブックで、モリエルの森さんとこのブログ記事についての意見交換をしました。その一部をここに転載します。「その1」から「その3」まででお話させていただいたことの具体的事例です。
森さん
・・・天に関する意識として多くの人が「死後の状態」のイメージを持っているのは疑いようがないと思います。ですが、多くの人が見落としているのはその前に地上での千年の王国があるということではないでしょうか。もっと突き詰めるとクリスチャンがただ新約聖書のギリシア語から教理を形成し、ヘブライ的な書物であることを忘れている点に大きな問題があると考えます。
たとえば預言がただ予告と成就から成っているという考えから多くの教理が作られていますが、聖書のユダヤ的な預言は明らかにパターンです。千年王国(または神の国、天の御国)という考えはイスラエルの地を相続したヨシュアから出てきたことは明らかです。そのためヘブル3章・4章では約束の地に入ることが「安息」と呼ばれ、私たちもその安息(私たちにとっては復活)に入るように勧められています。そうすると約束の地に入れなかった者たちは背教者であること、また「正しい者はいつまでも動かされない。しかし悪者はこの地に住みつくことができない」(箴言10:30)のような箇所が理解でき、「正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか」(コリント6:9)とある箇所は信者の旧約聖書理解(約束の地の相続)を前提としていることが分かります。
要約すると、新約聖書だけを切り離し、ギリシア語またギリシア的解釈のみで教理を作っているためにそのようなN.T.ライトさんの問題が発生するのだと思います。それを見て私たちは聖書全体の文脈・思想を考慮することが必要なのではないでしょうか。携挙の後に私たちが地上に帰ってくることを説明した説教があるので良ければお読みください。
私の返答
森さん、書き込みありがとうございます。モリエルのセミナーに数回参加させていただいた者として、預言の見方のパターン(「モチーフ」とも言っていましたね)はとても役に立ちました。私も元々そのような考えを持っていたのですが、以前よりずっと鮮明になっています。聖書講解の準備をするときにも助けになっています。
アーノルド・フルクテンバウムの「新約における旧約預言の取り扱い方」も参考になっていますが、彼は1)文字通りの成就、2)型としての成就、3)単なる適用、という区分けをしています。例えば、十字架の下で兵士たちがくじ引きしていたというのは1)でしょうが、幼子イエス様がエジプトに下ったときに、ホセア書にある出エジプトの記事をマタイが引用したのは、2)の型になるわけです。
そして聖書講解を、創世記から順番に行なっていると分かってくるのは、新約において旧約にある神の原則が潤沢にあるということです。旧約なしで新約を読み続けたら(未信者や新しく信じた人ならまだしも)、ちょうどトランプで家を建てているような、ぐらぐらした状態になるでしょう。
NTライト氏は、むしろユダヤ人の考え方を重視し、新約時代のユダヤ教と初代キリスト教の背景を専門としている人です。彼のマタイ伝の注解は子供でも読めるような平易なものであると同時に、その舞台を私たちでも肌で感じ取ることのできるような歴史背景を説明してくれています。
森さんのご指摘にしたがって説明しますと、ライト氏の問題はその後にあります。彼は「千年王国」の考えを、「新天新地」にまで持ち込んでいます。他の神学の領域でも起こっている「混同」の問題です。(注:「その3」で話した、「義とされることと」と「子とされることの混同の話です。)
森さんもご存知のように、千年王国から新天新地に行くまでには、はっきりとした断絶があります。まず、悪魔が取り除かれます。また悪魔に惑わされる者たちも滅ぼされます。それから最後の審判があります。命の書に記されていない者は火と硫黄の池に投げ込まれます。そして以前の天や地の万象が跡形もなくなるという「衣替え」が起こるわけです(ヘブル1:12)。それから新天新地があるわけであり、確かに「天」と「地」という認識ができるような状態でしょうが、完全な再創造がそこに存在するわけです。
その世界を、「現在の地上の連続」として描こうとしている、いや、描こうとしていると誤解されるような主張を展開していくのです。
森さんの「千年王国」のご指摘は全くその通りで、私も今日のキリスト教会に欠けているものだと思います。それでNTライト氏の強調点は「かゆい所に手が届かないところを語ってくれた」と称賛したい気分になるのですが、それはつかの間で、さらに「新天新地」にまで手を伸ばして、これまでキリスト教会では問題視されていなかった、一致を見ていた部分にまで触れているのではないか、という懸念を抱いています。
それで、「天」における爆発的な栄光の幻を地上のものに「引き下ろし」、そして地上にいる者が天に「引き上げられる」という携挙を非常に嫌っている、というような印象を受けました。
要は、ある人が言っていましたが「学識はあるが神学がだめ」なのです。聖書の各箇所の知識背景を知らせるのには長けていますが、聖書全体を知るための体系、また、私たちの全生活に関わることとしての教えを垂れる、ということに対しては極めて脆弱であるという感想を抱いています。・・・
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この後に、森さんが「N.T.ライトさんは新約時代のユダヤ教と初代キリスト教の背景を専門としている人でしたか、すみませんでた。理解不足でした。」とおっしゃっていますが、実はここが、私が一連のブログ記事を書いた目的であります。つまり、我々聖書に取り組んでいる者が読んでも、誤解をしてしまったり、理解困難なことが多すぎるということです。
そして最後に、私たちクリスチャンはNTライト(いや、全ての聖書学者、神学者、聖書教師・説教者を含めて)を理解するために努力するのではなく、聖書を理解するために努力するべきです。他の著書を理解するのに努力して、それから聖書を開いていたのでは、「目覚めよ」を読みながら新世界訳を開いているエホバの証人と変わりなくなってしまいます。この本末転倒だけは止めたいものです。
「「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 【補足】」への1件のフィードバック
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