「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21)」
「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。(1テサロニケ2:19)」
「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ1:18)」
「ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」(1サムエル30:23-24)」
主の御霊が働かれるところには、喜びがあります。そして、それは主の豊かな恵みによるものであり、関わっている全ての人に分かち合わざるを得ない性質のものです。良い知らせを受けて、それを自分だけに押し込めておくことは罰を受けてしまうだろうという思いが生じて、他の人々に分け与えます。だれも、あふれるばかりの主の恵みを占有することはできないのです。
私たちは海外宣教の経験から、二つの原則を見ます。一つは、「神はご自分の御霊で働かれる時、その妨げとなる既成のものを時に壊される。」ということです。もう一つは、「ぺっちゃんこになったところに、神は灰から花を咲かせるように、復活の命を吹き込まれる。」ということであります。(参照記事:「私たちはよみがえります」)ちょうど、神が、人々が地に広がる、地に満ちるようにするために、人間の力と知恵で築き上げたバベルの塔を、言葉をばらばらにすることによって無理やり散らされたように、私たちの肉の力で築きあげたものをばらばらにされることがあります。
東日本大震災において、神の御霊が働かれました。私自身東北出身の人間として話しますが、「みちのく」(道の奥)という言葉があるように、東北の人々は「こもる」傾向があります。内向きであり、外から来るものを受け付けない傾向を持っています。ですから、地元の教会も共に働くという機会は少なかったし、また開拓伝道は実に難しいところです。けれども地震と津波によって、真にキリストにあって助け合う空気が教会間に生まれ、そして地元の方々が新しく来たボランティアに対して暖かく迎える空気が出来上がりました。それは、私たちの経験した海外宣教に、より近づいたものになりました。
形や組織、儀礼というものは取っ払われ、機動性のみが重視されました。ある地元の牧師さんは、「地元の人々は、初めに来てくれた二つのグループの人々を知っています。自衛隊とクリスチャンたちです。」当事者たちが自分たちに何が起こっているかを把握することができないほど、主の働きが先行し、それに追いつくようにして、自然発生的に様々な教会が被災地に突き進んでいったのです。
そして、伝道、弟子訓練、開拓伝道というのはプログラムではありません。生身の体を持つ人間相手の働きです。人と人とのぶつかりあいによって進んでいきます。宣教において必要なのは、主が肉体を取られて人々の間に住まわれたように、その現場の中に一つになることです。そして東北という村社会が色濃いところですから、共同体というものの中にある原則を、ちょうど潜水して息を止めるように、その中でじっくりと観察していかなければいけません。プログラムを押し付けることはできず、中にいて、そこに働いておられる主に自分自身が出会うのです。そこから、外から与えられる福音ではなく、内から湧き上がる福音、キリスト者らを通して広がっていく生きた福音が必要であります。
しかし宣教において必ず起こるのが、人間的な組織化です。例えば、「この伝道対象地域は、だれの管轄か。」という縄張り意識。「この救われた魂は、どこの教会に属するのか。」という、これまた縄張り意識。既存のものがぺっちゃんこにされ、だれがどこの教会に行くのかなど、どうでもよかったものを、いや、誰かがどこかの教会につながれば、皆で一つになり、大声で喜びを分かち合うことができるものを、そのような意識に縛られて、形を壊しながら働かれた神の御霊を結果的に打ち消しています。
アメリカで実際に起こった話です。ある牧師はずっとある国に短期宣教旅行に行っていました。現地の人々とのつながりができ、御言葉を教える多くの機会が与えられていました。ところが、その教会の他の部門を担当している人が、「あなたの通っている宣教地域は、アメリカの●×教会の牧師が管轄になったから、その人に許可を得てから行かなければいけない。」その牧師は唖然としました。それで電話し、聞いてみました。その、宣教地域の管轄を任された牧師とも実は知り合いの仲でしたが、彼はこう答えました。「私に許可なんか取る必要はありませんよ。」
このことを分かち合ってくださった牧師は、「これは残念ながら、有名な宣教団体でも多かれ少なかれ起こっていることです。」と言って、他の例も挙げてくださいました。いずれにしても、私たちが人間である以上、いつでも起こりうることだということです。
そして組織を作ってしまうと、恐いのは、その組織を維持することに多くの気力を使うことが可能になってしまう、ということです。その組織を運営していくことこそが、主に仕えているのだと勘違いしてしまうことです。これはもはや、ミニストリー(=主への奉仕)ではありません。(参照:「ミニストリーの基本」(原稿 ・ 音声))
そして、その宣教の現地の話に戻ると、十年ぐらい経った今、その管轄の牧師が実際には管轄しているのではなく、地元の教会の牧師たちが共に協力し合い、自立して動いていこうという機運が生まれています。そして、そこには豊かな平安と喜びが留まっています。再び御霊は、人が形あるものを作り上げようとしているのを壊し、人々の内側から御霊が働かれ、ご自分のわざを成し遂げようとしておられるのです。
「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3)」
「聖霊によって始められたのですから、聖霊によって続けましょう!(「カルバリーチャペルの特徴」チャック・スミス著 第九章「聖霊によって始まった」65頁)