(「その1」からの続き)
私は安易な謝罪には反対
私は、この問題を取り扱うときに、一種の恐れを感じています。それは、ナチスの反ユダヤ主義に最も露にされた「人の憎しみと怒り、ねたみ」と共に、「それでも救いの手を指し伸ばす神の愛と救い」という重い主題に入っていくからです。
私は個人的に、メシアニック・ジュー運動に一般の日本人信者が深く関わることに懐疑的です。誤解をしていただきたくないのですが、私が敬愛している聖書教師の多くがユダヤ系です。デービッド・ホーキング、アーノルド・フルクテンバウム、またジョエル・ローゼンバーグなど、聖書をユダヤ人であるからこそ、神から与えられた賜物を生かして説き明かしてくださることから大きな恩恵を受けています。そして、私はメシアニックの会衆の礼拝や過越の祭りにもアメリカで参加したことがあります。さらに、アメリカにはユダヤ系の兄弟が数多くいましたし、共に祈り、交わりもしていました。
けれども、私が彼らを愛しているのは、他民族の異邦人信者と同じく、「国や民族を超えたところにあるキリストの愛」によって、御霊の一致があるからです。それに加えて、選ばれた民であるがゆえに召命と賜物があるため、そこで霊的な徳が高められる部分が大きいです。「キリストにあって一つ」であることが大前提であり、そして「神の与えられた賜物」を尊んでいます。
私はユダヤ人に対してキリスト者として謝罪するときに、「反ユダヤ主義」というものにある、霊的、神学的、そして歴史的重みのかなりの部分をすっとばして、簡単に言うならば「口だけで」謝っているとしか思えないのです。私は、日韓クリスチャンの間にある「謝罪運動」にも懐疑的ですが、近隣の国でさえその歴史の重みを知らないのですから、ましてやユダヤ人に対してはあまりにも畏れ多くて、謝ることができません。
以前書いた記事「真実に福音に生きるために - 戦責告白と「悔い改め」を問う」の中で、ホーリネス教会の上中牧師が書いた一部をここに引用します。
その一つは、当事者でないために、事実を知ろうとしなくても、おおよその情報だけで、自らの心を探られずに悔い改めができてしまうことである。教会は痛みも恥も感じずに、笑顔で悔い改め、謝罪することもできる。
さらに悔い改めることで、自分たちが善良なキリスト者であると、無意識のうちに自負することさえできる。主イエスの譬えに登場するパリサイ人が自分が《この取税人のようではないことを、感謝します》(ルカ18・11)と祈ったように。
日本の教会は、簡単に悔い改めすぎてはいないだろうか。それは何も自由主義史観の人々のように自虐的であってはならないということではない。むしろ真剣な悔い改めが必要であるが、しかし教会の罪の意識が薄く、それでいて罪の告白や謝罪の言葉が簡単に発せられているように思われる。
同じことが、ユダヤ人への謝罪についても言えます。(ちなみに、カトリック法王が謝罪する、というのは極めて意義あることだと思います。けれども、一般信者の謝罪にどこまでの意義があるのか・・・、ここが疑問点です。)
「メシアニック・ジュー運動」というのは、「ヨーロッパを舞台にした反ユダヤ主義」なくして、発生することのなかった運動であります。先に説明したように、新約聖書時代に既にヨーロッパに存在していた反ユダヤ主義がキリスト教会の中に浸透し、それによって「ユダヤ人」と「クリスチャン」というのが正反対の言葉とまで発達するほど、歴史と文化と社会がその違いを形成していきました。ですから、イエスを信じるということは、「ユダヤ人であることを捨てる」という、とてつもない葛藤が生まれるのです。イスラエルで出会った、数年前に来日されたジョアンさんと交わって、彼女は、「日本人のクリスチャンとユダヤ人信者は似ていると思う。」とおっしゃっていましたが、それは「日本人がイエス様を信じようとするときに、日本人であることを失うのではないか、という恐れがあると聞く。」とのことです。その葛藤をなんとか修正しよう、ユダヤ人のままでイエスを信じることができるのだ、という主張が、メシアニック・ジュー運動です。
メシアニック・ジューの諸課題
そして、その相反する定義の中で翻弄されているユダヤ人信者が数多くいる、という現実を決して忘れてはいけません。私たちと仲良くしてくださっているモリエル・ミニストリーの創設者、ジェイコブ・ブラッシュさんの見解を下で読むことができます。
ジェイコブさん自身ユダヤ人であり、イスラエル国籍も有しており、かつメシアニックの会衆に集っておられる方です。けれども、やはりその運動の中にある「揺れ」に注意喚起をしておられます。一部引用します。「今あるメシアニック運動の70%が無知でおかしな人たちによって運営されており、聖書の教理を何も知らない人たちで、偽りのタルムード的ユダヤ教をまねしようとしています。」そしてコメント欄には、イスラエル在住の日本人の兄弟が、メシアニックの会衆にある様々な揺れを報告しています。それでも、彼らに同情し、愛している姿も見ることができます。
それもそのはず、私たちに与えられている「キリスト」という頭から離れては、どんなに霊的、聖書的装いをしても、どんどん彷徨ってしまうのです。
私たちは果たして、マルチン・ルターの反ユダヤ主義よりも優っているのでしょうか?私たちは簡単にユダヤ人に謝罪することはできても、彼らに伝道をしているでしょうか?ルターはそのことを行なったのです。その結果、彼は神に祈り叫ぶのではなく、苦味を抱いてしまったのです。けれども伝道は試みたのです。謝罪して伝道しないのと、伝道して苦味を持つのと、どちらが反ユダヤ的でしょうか?私はさほど変わりない、いや、前者のほうが反ユダヤ的だと思います。
エルサレムで奉仕をしている兄弟から、1999年にその働きの困難さを聞きました。ユダヤ人がいかにかたくなで、うなじがこわい民であるか、そして匙を投げて「ルターが、彼らを犬と呼んだように」あきらめたくなる誘惑もある。けれども、そこから始まる、「それでも救いの手を指し伸ばす神の愛がある」という内容を分かち合ってくれました。
私たちが、これまでのキリスト教徒が行った反ユダヤ行為を、人差し指でさすことはできるのでしょうか?私たちが日本人にでも、誰にでも、伝道を熱心に行って、それで人が誰も救われないどころか、かえって自分の信仰を変えてしまおうと迫ってきたら、それでも私たちはその人たちを愛せるでしょうか?・・・このような内容なのです!だから、私は「一種の恐れを感じる」と言いました。とことんまでかたくなで、拒んでいる人に対して、それでも、愚かにも愛し続けて、祝福を与え続けるということができるかどうか、です。
真の反ユダヤ主義とは?
だから、メシアニック・ジュー運動に一般の日本人信者が深く関わることに、私は霊的な意義をあまり見出せません。いや、意義を見出してみましょう。具体的な適用としては、在日イスラエル人に伝道を試みることです。この言葉を発したとたん、壮絶な霊の戦いに入ることになるでしょう。イスラエル国内では「宣教」という言葉は禁句です。日本国内でも、ちょうど宗教の自由が制限されているようなところに宣教に行くのと同じように、用意周到な霊的備えが必要です。
しかし、それでも福音を伝える、という人が本当にユダヤ人を愛しています。パウロと同じ情熱を持っています。彼は激しく、「ユダヤ人に対する神の御怒りは極みに達した」といいながら、かつ、「同胞のためなら、自分が呪われたものとなってよい」と言いました。そして欧米では、数多くのユダヤ人信者が異邦人の証しを通して救われています。
BBCの調査を再び見ますと、イスラエルの人にとって「アラブの春」は、ぜんぜん春でないことが分かります。これまで独裁制で抑えられていた反イスラエル感情が、エジプトで噴出しています。ヨーロッパでは、従来の反ユダヤ主義がじわじわと、鍋で料理を煮込んでいるような醸成が行なわれています。そして不思議に、中国や韓国、そして日本でも反イスラエル感情が増えています。けれども、少なくとも日本では言論空間にとどまっていることでしょう。歴史的に、反ユダヤ政策は国として採用しておらず、ドイツの政策に枢軸国でありながら距離を取っていたという経緯があります。けれども国内では戦時中、言語統制の手段として反ユダヤ思想が猛威をふるいました。
最後に聖書預言として、反ユダヤ主義の背後にある動きを見ましょう。
「自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。(黙示録12:13)」
「男の子」とはイエス・キリストのことです。そして女とは「イスラエル」のことです。それを追いかけたのは「竜」、つまり悪魔のことです。イエスをこの世に生み出したイスラエルが、その後、悪魔に追いかけられるというのが終わりの日に起こることであり、その枠組みの中で人間の歴史に反ユダヤ主義が存在します。
そして、ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、かたくな民に対しても変わらず抱く神の愛を、私たちがどこまで受け取ることができるのかが、私たちに与えられたチャレンジ(課題)です。
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