(その1からの続き)
イエス様という、多彩なお方
イエス様という方は、まるでたまねぎの皮のように、剥いても剥いても、また新しい側面を見出すことのでき、あらゆる働きの源である方であることに気づいています。ここ数年は、海外宣教の働きを始めたことによって新しく見えてきたイエス様がおられました。それは天から地に下るという、人々の生活の間に入られた方であることを知りました。言語はもちろんのこと、その人々の習慣や文化、社会制度に至るまで、罪ではない全てのものと一つになり、その中でキリストを自分のうちに見出してもらう、ということです。
けれども、イエス様は宣教者であられるだけでなく、大牧者でもあられます。なぜイエス様は、弱い人、苦しんでいる人、罪人の中におられたのか?そしてなぜ、あれほど、特にパリサイ派との確執があったのか、弟子たちの無知と無頓着にどうしてあれだけ忍耐されたのか、また何よりも、なぜあんなに父なる神に祈ることができたのか?これらの鍵は、「羊を世話する羊飼い」であります。「教えていることだけでなく、自分の命さえ捧げる」という愛にあります。これが牧者の思いです。
自分を変えるチャレンジ、ぎこちない愛
大きなチャレンジは、私自身です。先日、このブログでも紹介させていただいた、東松島の月浜地区の海苔産業の復興を目指す「月光グループ」の食事会が開かれました。月光の漁師さんにお会いできただけではなく、月浜を支援している他のボランティアの人々にも会えました。その一人の方が、こういう言葉を残しています。
そして今、私自身も単なる聖書教師から牧師・教師への転換の喜びを味わっているのかもしれません。
そしてもう一つ、「愛」ということについてです。昨日、ある人の紹介によるビデオを観て感動しました。
なんと、これはタイ国の生命保険会社のCMなのですが、こんなに素朴な愛を短い時間で描いているのは珍しいのではないでしょうか?私がこれを見て思ったのは、このような愛を兄弟姉妹に持てるだろうか?というチャレンジもありますが、同時に、「こんな不器用な私でごめんなさい」という、口の利けない父と同じ思いがしています。
牧者という働きの中に身を置いて、不思議な体験をしました。これまでになかったことでした。それは、「神が与えられた人々を愛せる」という喜びでした。上からでなければ決して来なかった愛情です。だから、私自身が愛情深いとかそういうものでは決してなく、神がご自分の栄光のために、キリストを頭としている教会においては、愛を満ちあふれさせるようにしてくださるのだ、という実感です。
けれども、それをどう表現すればよいのかが自分に分かりません。下手くそだなって思います。とにかく御言葉を提供することに専念してきた生活を送ってきました。背後ではたくさん泣き、たくさん時間を使い、たくさん祈ってきたのですが、それをどう伝えればよいか分かりませんでした。不器用だなと思っています。でも、不器用だからといって落胆せず、愛がその欠点さえも乗り越えて押し流していくことを、切に祈りつつ奮闘していきたいと願っております。
今、教会に来られている方々は、私のことを愛し、支えてくださっていることを感謝します。またこれから教会に来てみたいと思われる方は、以上の通りですので今後とも何卒よろしくお願いします!
(参考文献:”Love: The More Excellent Way” by Chuck Smith)
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