「聖書預言の力と目的を再発見する」 その2

(「その1」の続き)

残念なことに、ここ米国また世界の多くの牧師や教会奉仕者は、聖書預言を教えていません。私の見るところでは、これには四つの大きな理由があります。

第一に、多くの牧師が預言を教えないのは、神の御言葉の力を信じることに欠けているからです。悲しむべきことに、今日の牧師の多くが、聖書を、霊感の受けた、無謬で無誤の、権威ある神の御言葉であると信じていません。主イエスは一度サドカイ人を、聖書を誤って解釈しているので諫言しこう言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。(マタイ22:29)」あまりにも多くの今日の牧師や司祭が、このような感じです。聖書全てを注意深く学んでいないのです。「神のご計画の全体(使徒20:27)」を理解しようとしていないのです。預言が神から来ていると本当に信じているわけではないので、これらの預言を教えないし、神がなぜ預言を授けたかを理解するように人々を助けるわけでもありません。しかしながら、聖書の諸預言は私たちを興奮させます。なぜなら、全てを知り、全てを見、万能であられる、全宇宙の神の思いをいわば傍受した情報だからです。

預言は、神のお心にあるものを教えてくれます。ある行動を止めるように警告しています。また、聖くなること、主にもっと近しく歩むことを励まします。将来の出来事について、嵐のような警告もあります。劇的な出来事が来ることも伝えており、これらの瞬間が来た時に私たちが用意し、忠実な者として見いだされるよう備えていなければいけないことを教えてくれます。預言は、私たちが大胆さと勇気をもってキリストに仕えるよう呼びかけています。それによって、近くない将来にこの方の前に顔と顔を合わせて立つ時に、恥ずかしくないようにするためです。聖書は、神が私たちに預言を与えているのが、キリストに従う者たちを建て上げ、励ますためであると言っています。使徒パウロはこう書きました。「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。・・預言する者は教会の徳を高めます。(1コリント14:3-4)」すべての信者は、徳を高められ、勧め(励まし)を受け、また慰められる必要があるのではないでしょうか?

第二に、多くの牧師が、聖書預言についての知識が不足している、また健全な訓練を受けていないために、預言を教えていません。聖書が神の御言葉そのものであると信じている人々は、もちろんたくさんいます。けれども、様々な理由から、自分自身で注意深く聖書を学ぶ時間を取ったことなく、あるいは、神学校や聖書学校で詳しく、深く教えられたことがありませんでした。したがって、これらの預言にある真理を解き明かすように手助けするには、自分は準備ができていない、不適格であると感じてしまっているわけです。

預言の中には、もちろん複雑で混乱させるものも一部にあります。預言に言及されている名前(例えば、エゼキエル書38‐39章にある、「ゴグ」「マゴグ」「ゴメル」など)は、見慣れないものであり不明瞭です。それらの意味しているところを見極めるためには、歴史を探索するような労力が必要です。それで、牧師にはそうした研究をして自分の会衆にはっきりと正確に教えようとする興味もないし時間もないと決めてしまい、預言を教えること自体を放り投げてしまうのです。それはよく理解できます、それで私は、牧師が預言を学び教えることができるよう、最善を尽くして資料を作ろうとしてきました。また、自分に助けになった優れた資料を取り上げてきました。今こそ、預言の力と目的を再発見する時だからです。聖書ははっきりと、神が終わりの時の預言を学び教える者を祝福すると、教えています。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示1:3)」アーメン。

【きよきよの一言】
<第一の理由>聖書を神の言葉としてまともに信じていないというのが、そもそもの間違いです。そして教団や教派の信条告白には聖書の霊感を唱えていても、実際上は信じていないことが極めて多いです。そしてジョエル氏が挙げている問題は、「聖書全体を学んでいない、教えていない」という問題です。ロゴス・ミニストリーまたLCF教会では、創世記から順番にそのまま読んでいって、説教を聞き礼拝を守っています。そうすれば、神が全体のご計画の中で、キリストの十字架とよみがえり、そして再臨を頂点にする救済をお心に止めておられることは明白になってきます。昨日の礼拝でも、1サムエル記1-3章を学びましたが、ハンナがサムエルの誕生で歌った賛歌が、まさにキリスト預言でした。内村鑑三が、再臨信仰に目覚めた理由も同じでした。新約聖書の最初の言葉、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ1:1)」も再臨の希望なくして読むことはできません。霊性や敬虔に生きることにとても敏感だった内村氏は、これこそ信仰の支柱にしなければいけないことを悟ったのです。

そして、聖書預言について教えている人の間でもそうでない人の間でも陥っている過ちは、興味本位や好奇心だけで留まっている、という問題です。霊性だけを求めているような人には、ゆえに聖書預言が有益であると思えないし、学んでいる人は知的満足で留まっています。けれども、ジョエルが言っているように、預言をまともに心に留めたら、自分が今の自分ではいけないのだ、という切迫感を抱きます。罪の悔い改めも迫られます。そしてキリストへの愛が増し、他の人にもキリストの愛を伝えたいと願います。興味をもって学んでいる人たちは、自分に果たしてキリストの形が聖書預言を学んだときから造り出されてきたかを吟味すると良いでしょう。

<第二の理由>おそらく、大部分の福音派(注:日本では聖霊派という分類もありますが、聖書を神の言葉だと信じている人々全てを含みます)教会の牧師の方々が抱えている課題だと思います。ある方が教えてくださいましたが、「神学校の授業では組織神学は、どうしても終末論が最後に来るので、さらっと流されてしまう。そして、「諸説があるので自分でどれが正しいかを判断し、決めるのがよい。」という言葉で終わってしまう。結局考える時間もなく卒業、現場での教会活動の中に入る。」とのことです。

幸い、私はじっくり学び考える時間が与えられていました。カルバリーチャペル・コスタメサのスクール・オブ・ミニストリーでは、組織神学の授業で、終末論についてはかなりの時間が割かれていました。私も教科書になっていた黙示録の注解書をじっくりと読み、自分も興味をもって調べていきました。渡米する前に、聖書の初めから、啓示されているキリストと御国の幻と、その預言的発展について、その初歩的知識をある人から教えてもらう機会があり、その時に、あまりにも恐ろしくて、畏怖の念に打たれて眠れなくなったことがあります。再臨のキリストが目の前に信仰の中で見えたのです。その後、いったいどのような預言的発展になっているのかが、知りたくて知りたくて仕方がありませんでした。その結果、帰国後、「聖書預言の旅」という拙書も書かせていただくことができました。

(「その3」に続く)

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