前記事「米大使館襲撃事件とイスラム信仰」の補足になります。
ある小冊子に、カルビン主義の「予定説」は、清教徒に見られるように、今のイスラム教と似たようなことを行なってきたことを指摘している文章がありました。秘密警察を置いてみたり、異端者を公に燃やしたり、オランダ改革教会における南アフリカでの人種隔離政策、カルビン主義者同士の殺し合い、そして南部バプテストやメソジストによる奴隷制支持などがありました。なるほど!です。
イスラムでは、「インシャ・アッラー(=アッラーの意志のままに)」という言葉がそれに当ります。
プロテスタント教会史の汚点
神が一方的に憐れみをもってある人を救いに呼ばれたということを、「予定説」では、「ある人を天国に、またある人を地獄で永遠に苦しませるために意図的に創造した」と教えています(=「無条件的選択」)。これは聖書的に間違っているだけでなく(1テモテ2:4、エゼキエル33:11等)、福音伝道の必要性と大宣教命令に矛盾します。これをいくら論理的な説明を試みたところで、神の予定ならず「運命」あるいは「宿命」の神という、聖書とは異なる決定論的な神を予定説は浮き彫りにしていきます。
したがって、霊的救いだけでなく社会的にも敷衍して、例えば黒人が奴隷であることが神から決定されているものとみなし、それを変えることに躊躇したのが当時の人々でした。そして、極端になるとそれを変えることが神の決定を妨げることになるから排除しなければならないと考えます。予定説を唱えている人は否定しますが、「神の意志」というものを哲学的な決定論の中で捉えているために、こうした過ちが起こっているのです。(今はさすがに奴隷制支持者はいませんが、大衆伝道集会に一部の過激カルビン主義者らが、イエス様を受け入れる決断をするため説教壇の所まで行こうとするところを、「選択はできない(No Choice!)」と書いてあるTシャツを来て、それを阻もうとしています。)
予定は、神との、愛の中での自由な営みの中にある
神は計画を持っています。予め初めから全てのことを知っておられて、予めすべてを計画しておられます。しかし、神は同時に、人のすべての営みに介入しておられます。人の細かい一つ一つの心の動きさえ、それを知り、痛みがあるならば共に痛み、喜ぶならば共に喜んでくださり、制限のある人間と一つになっていてくださいます。
その被造物との関わりが究極の形で現れたのが「十字架」です。神が一見、弱者に思われるようなところまで、一つになってくださったのです。
真理とは決定論の中の真理ではありません。「真実」と訳したほうが良いでしょうか、人の自由な営みがあって、なおのこと不変で不動の存在があり、それが真理なのです。
神はひとりなのですが、三つのの位格(父・子・聖霊)があるからこそ、このことができるのです。「全ての主権者」であると同時に「人の弱さ」に一体化することが可能になるのです。イスラム教は、御子を否定することによって、人の弱さに同情できない神を造り上げました。けれどもカルビン主義の予定説は、キリストが全人類のために血を流し、あらゆる人の所まで溢れ流れたという恵み深さを、「選定された者だけ」という決定論の中に押し込めました。
したがって、私が聞くのが好きではない祈りが、「どうか、あの人を、あなたの御心であれば、お救いください。」であります。そして、まだ生きている時に、救われたのかそうでないのかを、その人の歩みを見て決めていこうすることです。そうではありません!こう祈るべきです。「あの人のために、あなたはキリストを十字架の上で死に渡されました。ですから、救ってください、お願いします!(涙)」であります。そしてその人が死ぬまで、最後の最後まで、しつこく祈り続けることです。その執拗さの中に、主はご自身の予め決められていた御心を現してくださるのです。
自由意志を用いた愛の交わりの中に「真理」が存在するのであり、そして、その真理はすなわちキリストご自身なのです。
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