教会で起こる人間関係について、いくつかの投稿や記事を紹介したいと思います。
石の心と肉の心
今日、フェイスブックでとても感動した文章を読みましたので分かち合います。以前、拙書「聖書預言の旅」を出版していただいた編集長の谷口和一郎さんの文章ですが、何度読み返しても心が洗われる気持ちになります。
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取材をしていると、クリスチャン同士の葛藤のようなものにぶつかることがある。牧師と信徒、信徒同士のぶつかり合い。それをもたらすのは、どちらか一方、また双方にある「石の心」である。石と石がぶつかり合うと火花が散り、石の心と肉の心がぶつかり合うと、肉が傷つき血を流す。
では、どうすれば「石の心」が柔らかい心になるのか。それが実現すれば、教会内のあらゆるトラブルは終息していくはずだ。
聖書は「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36章26節)と書く。つまり、それは神の業であるということだ。人の力や知恵にはよらない。
このエゼキエル書を16節から読んでみると、神が、ご自身の「御名」のために行動を起こしておられるのが分かる。御名が汚されたのでイスラエルを散らし、御名の名誉の回復のためにイスラエルを回復された。その流れの中で、イスラエルの民に「肉の心」が与えられている。
ヒューマニズムの影響を受けた福音は、「私たちのために」ということを強調するが、聖書の神は、まずもって「神ご自身のために」行動を起こされる。だから、神の御名が汚されないように、神の御名があがめられるように行動することが人間の務めである。
その結果、神が働かれて「石の心」を持つ人物が変えられ、「肉の心」を持つようになる。
私たちは、石の心を持つ人を何とか変えようとするけれど、それは変わらない。私たちが神の御名の栄光を求め、そのために行動する教会になるとき、神が働かれて「石の心」も取り扱われるのだ。
今日も、主の御名があがめられますように!
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その後にも、次のような有意義なコメントが寄せられています。
「まさしくその通りですね。日本の多くの教会が直面している課題。解決の道は「神の言葉」の中にあるのに、「この世の慣わし」に意識を奪われ、摩擦が耐えない。多くの牧師はこのことを教会の中で語っているのに、変えられないのはどうしてなのでしょうか。語る側に不足がある?それとも受ける側に問題がある?」「石の心と肉の心がぶつかり合うと、肉が傷つき血を流す.十字架上のイエス様のようです。肉の心を与えられた者は、まだ与えられていない方々のために執り成すべきなのですね。」「主に従う道というのは、石の心を持って相手と戦う自由を捨て、傷つきやすい肉の心を保ちつつ歩むことなのでしょうね。主はその傷も癒し、最終的な主の勝利を与えてくださいます。」
頭を御国の事でいっぱいにする
次のブログの内容も、同じことを語っています。その一部を引用します。
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何が大切なのでしょうか?
私たちは、それを十分に知っています。
「相手を愛すること」、「相手のために祈ること」
と簡単に言ってはいけません。
聖霊により、
まずは、
自分のマインドセットが解放されなければならないのではないでしょうか。
まずは、
自分の内に神の御国が建てられる必要があるのです。
相手のことを知っているのは神様だけだと理解すること、(2cor: 5:16)
自分は何もコントロールできないことを理解すること、
何度も赦すことなどが、(2cor: 2:10)
頭に浮かびますよね。
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どうぞ、上のリンク先のブログ記事全体をお読みください。
主を喜ばせる事は簡単
ある方がこう書きました。「人を喜ばせるのは難しいですが、神を喜ばせる事は簡単だと思います。人はなかなか認めてはくれませんが、忠実であれば必ず神は認めてくださいます。」
アーメンです、慰められます。私たちが人のために奉仕していると思えば、落胆してしまいます。いや、主に対してしていても落胆するでしょう。けれども、その自分を支えるのは「神ご自身」です。忠実であれば、神は認めてくださっているのです(1テモテ1:12)。
愛による叱責
これもフェイスブックでの投稿です。
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オズワルド・チェンバーズは「神は決して脅さず、サタンは決して警告しない。」と語っています。
私たちは「脅し」と「警告」を時々取り違えてしまいます。しかし、チェンバーズは、そのふたつを区別する原則を見つけました。脅しは自分の利益のため、警告は相手の利益のために使われます。つまり、脅しは、自分の力を守るためです。
一方、警告は、相手を危険から守ろうとして発せられるのです。
サタンは、神の愛情豊かな警告を、私たちが「意地悪な脅しだ」と勘違いするように仕向けます。
チェンバーズは語ります。「警告とは神からの愛と忍耐によって我々を奮い立たせようとする注意書きです。」
神の命令には「あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになるためである」(申4:40、12:28)というみことばが対になってついてきます。
愛し合っている人たちは、不幸を招く愚かな行為をしないよう、互いに警告し合います。不健全な人間関係では、無理難題を吹っかけて、それが出来ないと罰せられると互いに脅し合うのです。
自分の人間関係を省みて、自分がアドバイスや指示を出すときの動機を考えてみるのは良いことです。自分を守るために「最後通告」を出していませんか。相手を危険から守るために、親切心から警告していますか。
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このことに関して、ある学びの後の交わりで有意義な分かち合いを持つことができました。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。(箴言27:5)」という御言葉がありますが、相手に真実を伝えるのは勇気が要ります。けれども、相手がプライドを捨てているならば、その人にとって大きな成長のきっかけになります。またその言葉を語る自分自身が試されます。だから自分自身も成長します。そして上に書かれているように、いつもいつも、相手のことを思って話しているのか、それとも自分を守るために話しているのか、その動機を確かめないといけません。
愛されるのは奇跡
神の愛について次の記事がありました。
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「私たちの神は焼き尽くす火です」(へブル書12-29)
信仰者はこのようにして堕落をしていく。『神は愛だ』→『神は私を愛すべき存在だ』→『私を愛してくれるのが神であって、愛してくれないのは神ではない』
こうして、本来は神が座るべき宇宙の中心に自分を据え、神を信じているように自称しながら、実は自分を愛しているに過ぎない人間となる。心理学者エーリッヒ・フロムが言うところの、「神を宇宙株式会社の社長にする輩」となる(大会社の社長ほどお飾りだから、神も単なるお神輿の一種になって…しまう意)。
だから時々、こういうことを考えることは重要だ。
神は神であって、人ではない。
我々を怒ろうが、滅ぼそうが、宇宙の中心は神である。
神が我々を愛したし愛しているのは、当然の業どころか、全くの奇跡であって、愛するどころかむしろ憎み滅ぼされるべき、蛆虫のように全く価値のない人間のために、神はご自身の御子を死に渡された。
我々は、愛なる神が、正義の玉座に座っていることを忘れてはならない。
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とても大事な点ですね。神からまた人から愛されて当然だと思っていると、恵みと愛を受けるのではなく、要求することになります。そのため、自分自身が苦しくなってくるし、また相手に噛み付き、傷つけてしまうことになります。
付き合い方の違い
私たちはなぜ、人との関係を断ち切ってしまうのでしょうか?断ち切ってしまうほど、よほど重大なことだったのでしょうか?よく考えると些細なことが多いです。次は私が、韓国人・中国人・アメリカ人との付き合いで体験したことを書き記しました。
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韓国の人、中国の人、そしてアメリカ人との付き合いは多いですが、それぞれに人間関係の対処の仕方が異なります。日本の人で残念なのは、クリスチャンで言うならば、どこか他の教会に移るときに、何か関係が悪くなってから移ろうと考えること。そうではなく、祝福をもってその教会から送り出されるということが大事。
韓国の人は仲が悪くなって離れても、どこかで、いつかまたよりを戻せる方策を取っていること。人間関係が情で癒着していて、長期的には絶縁ということがあまりないように思う。
中国の人は、その場で激しく喧嘩する。けれども、その場で終わってしまう。その後、個々人がまた自分の道を進んでいくという印象。
アメリカ人は、自分の考えを表明するのが上手。だから日本人からするといつもディベートをしているみたい。けれども、その言葉のやり取りが人間関係の悪化になることは少ない。
けれども、みな人間。国や民族に関係なく人の弱さは同じで、対人関係ではそれぞれが苦労している。それでも、他の国の人々から学ぶことは大きいです。
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日本は「和」を大事にする文化のため、人に真実を語ることが未熟で、かつその真実を受け取ることが苦手のような気がします。それでかえって「和」ではなく「断絶」をもたらしているような気がしてなりません。人間関係はもっと気軽に考えないといけないんじゃないのかな?と思います。特にキリストの教会の中心は、私たち人間ではなく、神とキリストご自身、そして神の国なのですから。
以上、脈略がありませんでしたが、教会と人間関係についての私の思いを徒然なるままに書きしたためてみました。