ここが変だよ!池上彰さん (その1)

今週火曜日に、他のカルバリーの牧師や宣教師たちとの聖書の学び&朝食会に行きました。そこで出てきた話題が「マスコミ」についてですが、私が日頃感じていたこと、「マスコミは嘘をつく」ということをアメリカ人の牧師も話していました。状況は日本だけでなくアメリカでもそうらしいです。
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今日は、今人気のニュース解説者である池上彰さんのことを取り上げてみたいと思います。この前の総選挙の速報で、政党代表への直接質問で挑発また虚偽発言があったので、気になっていました。私個人はこの人に対しては好感を持っていますし、影響力を持つ政治家に対して、挑発的になっても鋭い質問はすべきだと考えていますので、その姿勢には共感できました。

ですから彼のことを殊更に取り上げたくはないのですが、彼を通して今のマスコミの潮流を如実に見ることができるので、そこで、あえて挑発的な題名「ここが変だよ!池上彰さん」にしました。(さん付けにしているのは、彼個人に対する悪い感情は抱いていないという敬意の表れです。)

池上さんの特徴は三つあるでしょう。

「中立」
「ニュースを分かりやすく伝える」
「上手にまとめる」

彼の番組や著作物には、宗教関連のこと、また中東関連のものが多く含まれます。宗教また中東情勢は決して無視できない存在であり、それをお茶の間に伝えて啓蒙したい、という情熱は感じられます。そして今や中東情勢について政治家にも意見や助言をするぐらいの影響力を持つ存在になりました。だからこそ取り上げなければいけないと感じています。

結論から言いますと、宗教と中東という話題と、彼の持っているニュース姿勢がそもそも噛み合わないのでは?と感じています。

宗教には元々「中立」という概念は存在しません。宗教というのは、頭の中で整理して安心するような知的対象ではなく、「今の自分を生かす」という根本的な真理を追究するものです。喩えると、交通事故で大怪我をした人に救急治療をしている医者が、看護師や助手に対して指示する断定的、速断的な言葉を「排他的」と非難するようなものです。目の前の患者が死に掛けているという危機的状況においては、その指示は当然ながら排他的であります。

池上さんの宗教と中東についての解説を聞いて、日本の人の感想で「よくここまで信じられるものだと感心します。」というのがありましたが、その通りであります。信じている本人たちにとっては自己存在を生かす真剣な作業なのですから、「中立」という視点からは真実は見えてこないし、実際に信じている本人たちに対して不誠実な対応となります。

それよりも「ありのままを伝える」という姿勢のほうが、必要なのではないか?と感じます。解説よりも、取材に答えている人々が語る言葉をその文脈からなるべく逸脱しない形で流すことによって、視聴者に判断を委ねるというほうが、この類の話題を取り扱うにはふさわしいと思います。

そして「ニュースを分かりやすく伝える」というについてですが、その対象はお茶の間の日本人です。したがって、分かりやすく伝えようとするあまりに、中東発の宗教を日本人の宗教観や神観にあわせようとする恣意を感じます。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を取り扱ってはいるのですが、日本人に説明している過程で、それぞれの宗教においてこれこそが自分の信仰だとする核心的な内容は取り扱わない、いや曲解していることに気づきました。

しかし宗教では「分かりにくい」という難解さを経て、初めてそれが真理だと悟るという過程そのものが大事になってきます。人生や死後のことについてすぐに解答が得られるのであれば、それはまさに自動販売機のような神になってしまい、真実からかけ離れた存在となります。じれったさの中にある忍耐こそが、真実を知るのに必要な要素です。

そして、「上手にまとめる」という特徴ですが、そこで本質に迫るには必要な事実の多くをすっとばし、表面的に綺麗にしてしまっています。その過程で物事をあまりにも単純化してしまい、池上さんの思想や趣向を強く残してしまう形で最後は終わってしまいます。そして、そのまとめの作業において、偏向、事実誤認、あるいは嘘も入っているのではないかという懸念があります。

宗教そして中東情勢という大きな課題については、「まとめる」のではなく、「悩ませる」ことが必要なのではないでしょうか?まとめようとして多くの事実を隠すのではなく、むしろ見せることによって、視聴者が、快適に安全に暮らせている自分自身に対する問いかけを敢えてさせる内容を提示してみてはいかがでしょうか?

池上解説は、ちょっと一日の仕事の疲れを癒すような軽い気分で観るには最高の出来だと思います。けれども、物事の本質を知りたくてもっと調べたら、伝えられたことがぼろぼろ壊れていく脆いお菓子のような、がっかり感を残しかねないか、という心配をするのです。

それでは本論に入りたいと思います。

番組「宗教がわかればニュースのナゾが解ける」から

今年1月12日に出てきた番組を観た感想です。

初めは身近な話題の中にあるイスラム教の存在を紹介しています。そしてイスラム原理主義に対する誤解をとき、サウジアラビアの生活を紹介します。そして場所をエルサレムに移します。エルサレムでは、ユダヤ教徒の安息日の生活を紹介して、それから今のパレスチナ紛争の問題解説に入りました。ユダヤ教にとっての土地、そしてイスラム教の聖地としてのエルサレムを取り上げました。岩のドームの中にまで取材が許された、その場面も紹介しています。そして、その紛争の種というのがイギリスの三枚舌外交であり、それまでは仲良く暮らしていたのだ、と教えます。

そしてキリスト教について教えていきます。イエスが十字架を背負って歩いたとされる道を辿り、聖墳墓教会に向かいます。そこで十字軍の残した落書きを見せ、それから中でイエスの死体が取り置かれたとされる石に接吻している信者たちを映します。それからイエスの墓を見にいきます。

そしてキリスト教がユダヤ教と関係しているということで、イエスがユダヤ教徒であったこと、そして墓にイエスの死体がなかったことから弟子たちが復活したと思った、ことがキリスト教の発祥であり、ユダヤ人がイエスを殺したとするキリスト教徒がヨーロッパでユダヤ人を迫害したことも取り上げました。

この番組のまとめをしているブログがあったので、それに基づきお話ししていきたいと思います。

何が問題か? - イエス・キリストの復活

私自身はイエス・キリストを自分の人生の主であると告白するキリスト信者であり、その当事者として初めに次の問題を取り上げたいと思います。

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イエスは、ユダヤ教と深い関係があります。ユダヤ教の誕生から500年後に生まれたイエスは、もともとユダヤ人であり、ユダヤ教徒でした。しかし、イエスは、ユダヤ教の「教え」と「行い」の一部に疑問を持ち・・・。「神の下では人はみな平等。神はすべての者を救ってくれる」と・・・。

信者はたくさん増えてきます。そうなると、ユダヤ教の改革運動のようになってきてしまったのです。イエスは、当時、ユダヤ教の教えを守れなかった人にも「神様の下では人はみな平等」と、唱えました。このことが、イエスが死に追いやられる原因になってしまうのです。

処刑された後、3日後に死体がなくなって、復活した?と、思った弟子たちによって、「救世主だったのでは?」と、世界に広められていったのです。これが、キリスト教の誕生でした。
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最も大きな問題は、「3日後に死体がなくなって、復活した?と、思った弟子たちによって、「救世主だったのでは?」と、世界に広められていったのです。」の部分です。聖書の記述の福音書は四つありますが、全て、復活したイエスが弟子たちの前に、体を持って現れたことを結末にしています。空の墓を見た時は、彼が救世主ではなかったのか?など思うことなく、むしろ慌てふためいて、いったい何が起こったのか、誰かが盗んでいったのか、と戸惑っていたのです。

けれども女たちは天使によって、イエスが十字架につけられる前によみがえると言ったことがその通りになったと告げ、信じていきます。そして弟子たち自身もそのことを議論している時に、その真ん中でイエスが現れたのです。

これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。(ルカの福音書24:36-39)

空の墓を見て復活したのではないか?と思った弟子たちが言い広めたのではなく、体を持つ復活を目撃した弟子たちが、「イエスが死者の中からよみがえられた」と確信を持って言い宣べていったのがキリスト教の始まりです。

だから、その宣教を記録している使徒行伝(使徒言行録)は、イエスの弟子たちが、「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせて、キリスト(救世主)であることを明らかにしたのです。」と言明していったのです。目撃したからこそ、とてつもない迫害を受けても、殉教してもその言葉を捨てることはありませんでした。

その後の教会の人々は、その後、ローマのコロセウムで火あぶりの刑に処せられたり、ライオンに食い殺されたりしましたが、どうして「救世主だったのでは?」という憶測によって我慢することができたでしょうか?憶測に基づいて命をかけられるでしょうか?

ですからキリスト教発生の説明をするのであれば、「イエスの弟子たちは、事実、復活したイエスを目撃し、それでこの方が確かに救世主なのだということを言い広めたことが始まり」というのが正しいでしょう。

前知識の人のない方は、これがどうして大きな問題なのかお分かりにならないかもしれませんが、キリスト教信仰の根幹中の根幹を取り扱っているということだけでも想っていただけたらと思います。もしキリストの復活を否定し反証することができれば、私は今すぐにでも信仰を捨てます。人生を無駄に過ごしたくないですから。けれどももしこれが事実であれば、何を言われても、ぶったたかれても、殺されても、この信仰は捨てません。・・・こういった類いのものなのです。

イエスの独自性

この復活が基となって、福音書を著者は書き記しています。したがって、イエスが普通にユダヤ人であり、そしてユダヤ教徒として生きて、それで既存のユダヤ教の教えに同意できずにいた、という単純な話ではありません。確かにユダヤ人の両親から生まれ、ユダヤ教のラビ(教師)の資格を持っている人でしたが、初めから単なる人ではないという独自性が書かれています。まず、処女から生まれているのです。次に、数多くの奇跡を行ないました。水の上も歩いたのです。不治の病を直しただけでなく、死人をもよみがえらせました。

そこでユダヤ人が怒ったのは、確かに安息日についての指導者の解釈に反することを行ない、それが彼らに殺意を抱かせたということがあります。けれども本質的には、ご自分を神と等しくして話したというところにあります。

ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」(ヨハネの福音書10:33)

ユダヤ人議会の裁判において、イエスはご自分が確かに神の子(つまり神ご自身)でありキリスト(救世主)であること大祭司の前ではっきり言いました。これでユダヤ人指導者は怒り、彼を死刑執行権の持つローマ当局に引き連れていったのです。

“すべての人が滅びる”が前提

そして、イエスが教えられたのが、「神の下では人はみな平等。神はすべての者を救ってくれる」というのは、いったいどこから出てきたのだろうか?と不思議になります。新約聖書の福音書を普通に読んで、どこからそのような結論を導き出せるのか?

イエスの教えを普通に読めば、聞いている人の反応はこうなります。「これでは、だれも救われないではないか??」確かにそういった意味で、神の下では平等です。ユダヤ人だからといって救われるのではなく、ユダヤ人も異邦人と同じように滅んでしまうことをイエスは教えられました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイによる福音書5:17-18)

だから、あなたがたは、天の父(=神)が完全なように、完全でありなさい。(マタイの福音書5:48)

これを言い換えると、救いは神にしかできない、ということです。ユダヤ教を守れない人でも救われるのではなく、ユダヤ教の律法の真髄を知ったらだれもが守っておらず、魂は失われていることをイエスは教えられたのです。

そしてイエスは、その律法の違反を「罪」と呼び、その守れない人間の葛藤を憐れまれて、その罪の負債を支払うために身代わりにご自分の命をローマの十字架の上で捨てることを決めておられました。ゆえに、キリストが流された血という代価によって、もっぱら神が私たちを救ってくださる、というのが「福音(良い知らせ)」であり、この方を信じるようにと言い伝えているのが宣教であり、今にまで至るのです。

次はイスラム教について論じたいと思います。

その2に続く)