ここが変だよ!池上彰さん (その2)

その1からの続き)

イスラム教:対抗する新興宗教

番組では、宗教を説明する時にイスラム教から始め、三宗教の中で一番時間を割いています。これは世界に台頭している宗教ということで、ジャーナリストとしては伝えなければいけないという使命感があるのでしょう。また、全ての人がテロリストなのではない、もっと大きな視点からイスラム教を見ようという意図も理解できます。

けれども、不思議なことにイスラム教とユダヤ教の関係と対立点、そしてイスラム教とキリスト教の対立点について論じられていませんでした。

イスラム教の聖典コーランを読めば、そこには旧約と新約の聖書の記述が散りばめられていて、ユダヤ教徒とキリスト教徒に対する対応も詳しく述べられています。今、キリスト教では異端とみなされているエホバの証人の人たちの訓練の場を取材すれば、必ずキリスト教の堕落やクリスチャンへの対応などの教育を受けている場面を見ることができるでしょう。コーランを見る限り、私は同じような印象を拭うことはできません。

イエスの否定がイスラム信仰の始まり

池上さんは岩のドームに入る取材許可を受けて、とても興奮しておられましたが、そのドーム内に刻まれているアラビア語は、まさにキリスト教を論駁する言葉に満ちています。

参照:The Arabic Islamic Inscriptions On The Dome Of The Rock In Jerusalem

その一部のコーランの句はこれです。

啓典の民(注:ユダヤ教徒とキリスト教徒)よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤム(注:マリヤ)の子マスィーフ・イーサー(注:イエス)は、只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、アッラーの有である。管理者としてアッラーは万全であられる。
4 婦人章(アン・ニサー)171

他にもコーランには、「神には子はない」という言葉が散りばめられています。

言え,「かれはアッラー,唯一なる御方であられる。
アッラーは,自存され,
御産なさらないし,御産れになられたのではない,
かれに比べ得る,何ものもない。
112 純正章〔アル・イフラース〕1-4

今年の1月2日に放映されたスペシャル番組では、池上さんがテレビ局に招いた日本語を話すムスリムの人がいつも唱えている句として、おそらくは上の箇所を挙げています。(こちらで見られます。23分30秒辺りです。)

イエスが誰かによって産まれた被造物という意味での「子」であると、キリスト教は信じていません。この方は創造主であり、永遠の昔から父なる神と共におられ、この方と神は一つであることを信じています(ヨハネによる福音書1:1-2)。初めからおられた方ですが、父と子の関係を持っていて、それぞれが神であるけれども、唯一の方であるというのが聖書的立場です。聖霊も神であられるけれどもひとりの神ということで、それで「三位一体」という言葉があります。

コーランにはイエスの姿が出ます。けれども先のコーランの句のように、このモーセなどの他の預言者(日本語訳は「使徒」)の一人であり、イエスは十字架にはつけられなかった、ということも書いてあります。けれども新約聖書は、ご自分が神の息子であり、他の預言者と異なり独自な存在であることをはっきりと告げています(マタイ21:33-44)。

「わたしたちはアッラーの使徒,マルヤムの子マスィーフ(メシア),イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく,またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は,それに疑間を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく,只臆測するだけである。だが実際にはかれを殺したのでもなく,いや,アッラーはかれを,御側に召されたのである。アッラーは偉力ならびなく英明であられる。
4 – 婦人章〔アン・ニサーア〕157-158

このような考えは、イエス・キリストの使徒の時代からすでにギリシヤ哲学に影響されたグノーシス主義という異端があり、そうした話は偽典とされている箇所に載っています。(Wikipedia)

すでに新約時代の使徒たちが、グノーシス異端との闘いをしており、ヨハネ第一はこの教えを「反キリストの霊」であると断じているのです。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(1ヨハネ4:2-3)

御子のおられない神(アッラー)、そして十字架につけられなかったイエス(イーサー)が、同じ神でありイエスであると信じられるキリスト者は一人もいないでしょう。もし信じられるのであれば、その人は定義としてクリスチャンではありません。

「わたしが道であり、真理であり、命なのです」と言われたイエスの言葉のとおり、キリスト教の信仰は初めから終わりまで「イエス・キリスト」ご自身に対するものです。イエスの本質やその行ないの中心を否定することは、青色を取り除かれた空のように、まったく空疎なものになってしまいます。

クリスチャンのムスリムに対する態度

では、私たちキリスト者はムスリムの人たちに敵対しているのでしょうか?いいえ、私たちは信仰とは何かを知っています。それはその人の人格の根っこにあり、極めて私的な事柄であることを知っています。相手が自分にとって間違ったことを信じていると思っても、まずは、その相手をそのまま受け入れる必要があることを知っています。自分自身がキリストに対する信仰を持った時に、それはもっぱら、自分自身が神との間のみで決めた人生の中の一大決心であり、他者が強制したり介入することはできなかったことをよく知っています。真理というものが排他的であることを知っているからこそ、相手も排他性を持ちながら生きていることを尊重できるのです。

ムスリムの人に対する二つの接し方があります。一つは、「あなたはあなた。私は私。」という生き方です。互いに干渉しないということです。もう一つは、「その人を真理によって愛していく」という方法です。言葉でもって真理を伝えますが、相手も命をかけてイスラムを信じているのだから自分も命をかけて真摯に伝える覚悟が必要です。また語る前には、本当に愛しているのだということを行いで示していきます。そしてイスラムでは改宗は死刑を含む厳罰が課せられます。だからなおさらのこと慎重に、賢く接しなければ相手を不必要に苦しめることになります。

後者の接し方を取っているクリスチャンは多いです。けれども自分のためだけでなく相手の安全のためにも、大抵、公の場では行ないません。絶対に行なわないのは、かつての十字軍のような、物理的行使によってムスリムを偽り物としていく(つまり危害を与える)ことです。これはまったく愚かな行為であり、キリスト教の真髄から遠く離れています。たまにニュースで、コーランを焼く牧師が出てきたりしますが、全く愚かで、単なる目立ちがり屋にしかすぎません。

池上さんは、聖墳墓教会の時に十字軍について触れましたが、このようなクリスチャンの声も取り上げていただけたらと思います。イスラム原理主義のムフティが、911のテロ実行犯がイスラム教徒でないと断言している発言を放送されていましたが、同じようにキリスト教原理主義者(?)である私のような者、また「宗教右派」「原理主義」と揶揄されている、アメリカにいる愛する仲間たちの多くも、同じようにみなしていることを取り上げていただけないでしょうか?

また、キリスト教根本主義の中に、武装組織がありましたら教えてください。過激派がいましたら教えてください。ごく小数ですが、中絶クリニックの前にピケを張ったり、同性愛者パレードのところで看板を掲げている人たちがいますが、それでもその多くが民主主義国家の中で合法的に行なっています。私個人は、聖書の中にそうした示威行動によって真理を伝えることが書かれていないので行なわないし、それによってキリストの愛が伝わるとも思えません。だから賛同はしないのですが、けれども過激といってもせいぜい、その程度です。無差別に人々を爆破させるようなことはしません。では、どうしてこのような違いが出てくるのでしょうか?

イエス 対 ムハンマド

次の本を読まれることをお勧めします。

「ハマスの息子」モサブ・ハッサン・ユーセフ著 幻冬舎

ハマス創始者の一人の息子が、キリスト教に回心した話しです。彼が二つの経典コーラン、そして聖書を手にして、どのように心が動いていったかを読んでいくことができるでしょう。それぞれの宗教にとって大切な人物、すなわちムハンマドとイエスの二人をコーランと新約聖書からそれぞれ眺め、比較することが必要なのではないでしょうか?

参照:A Comparison between Jesus and Muhammad, JESUS OR MUHAMMAD?

イエスはよみがえりましたが、ムハンマドは死んだままです。イエスが戦うことをされませんでしたが、ムハンマドは何度も戦争をしました。イエスは父なる神から声を聞き、誘惑を受けられた後、確信をもって宣教を行なわれましたが、ムハンマドは神の声を聞いたとき恐ろしくなって自殺したいと思いました。イエスは父なる神からいつも聞き、その使命を果たされましたが、ムハンマドは天使から聞き、暗い洞窟の中で言葉を受けていました。

イエスはだれも殺したことがありませんでしたが、ムハンマドが殺した人は数知れません。むしろイエスは傷を受けた人をいやし、死んだ人をよみがえられました。イエスは独身であられ、ムハンマドは20人の妻を持ち、その中には9歳の女の子もいました。イエスの周りでは奇跡がたくさんありましたが、コーランを受けたという以外、ムハンマドにはありません。イエスは、数百年前の預言をご自分の生涯で成就されましたが、ムハンマドについては何ひとつありません。イエスには罪はありませんでしたが、ムハンマドは自分が罪であることを告白し、彼はまた奴隷の主人でした。

イエスは他人のために命を捨てられましたが、ムハンマドは自分の命を救うために他の人を殺しました。イエスは女性を敬いましたが、ムハンマドは女性は男より二分の一の知性しかなく、地獄の大勢は女性であるとし、抵当に入れてもよい、としました。

これらは、私がムハンマドを悪く言っているのではなく、客観的に新約聖書とコーラン(またハディス)に書かれていることを比較しただけのことです。聖典において、その創始者の記述がこれだけ違います。この記述が原理的になっている人たちにも影響を与えていない、と言えるのでしょうか?善良なムスリムの人たちはとても多いですが、コーランは古語のアラビア語で書かれているので、何を唱えているか分からない人が多くいると聞きます。一方、かつての十字軍は、今のように聖書を自分の手で読んだ人はいませんでした。

私たちはこうした暴力をイエスの姿から離れていると断罪ことができますし、また自分たちの行いを悔いることができます。イスラムの人たちはムハンマドの生涯から暴力を断罪するどころか、支持また黙認してしまうのではないでしょうか?(参照:World Public Opinion.org

イスラム原理主義とキリスト教原理主義について

池上さんは次のようにイスラム原理主義の人たちを解説していました。

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今だに止むことのない自爆テロ事件。そこにはイスラム原理主義・イスラム過激派・イスラム武装勢力とありますが、その違いはなんでしょう?

しかし、現在も、テロは終わっていません。

イスラム原理主義は、他の二つとは、全く違うものです。イスラム原理主義とは、自爆テロをやったり人を殺したりそういうものではないのです。イスラム復興運動のことで、「伝統的なイスラムの教えに戻ろうとする運動」のことです。イスラムの良き伝統に戻ろうというものです。

その運動は、イスラムの教えを広めたり、貧しい人たちを助けたり、医療を施したり、ボランティア運動を含めたイスラム復興運動だったのですが、キリスト教系の学者が、「原理主義」と名付けたのです。

というのも、キリスト教にも原理主義があって、それは、聖書に書いてあることは一言一句正しいという考えなのです。人間は神様によって造られたので、進化論は間違いだ、という考え方の人です。キリスト教的考えが入ってきているのです。

で、その理想の為ならば、テロをやっても構わないと考える一握りの過激派が出てきたのです。その人たちが、イスラム原理主義過激派となったのです。だから、原理主義そのものが、過激な人たちという誤解が生まれたのです。過激派がつくかつかないかで、全く違うものなのです。
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まず、イスラム原理主義という用語は確かに、キリスト教の一つの考え方から来ました。以前は根本主義と訳されていましたが、いつの間にか原理主義が定着しています。

キリスト教の歴史において、近代になるまでずっと、聖書が神の霊感を受けた言葉で、誤りがないという考えで一致していました。自由主義神学がドイツで始まってから、これを他の歴史的・宗教的書物と同列に置く動きが出てきました。そこで、聖書の教えの根本に立ち返らなければいけないと思って、そうした近代主義に対抗して出てきたのが根本主義の始まりです。

参照:キリスト教根本主義(ウィキペディア)

そのような根本主義の中でも、キリスト教の聖書の霊感は、「神と人間の協同作業」であります。神の霊によって動かされた人たちが書いており、その書いたものは霊感を受けており、誤りがないと考えていますが、書いているのは人間であり、その人の文体や趣向、性格を削がれるものではありません。

対してコーランは、アラビア語で書かれた文そのものが天においてアッラーが残したものであり、人間の介在はないとしています。したがって、キリスト教の中で保守的な人たちよりもはるかに極端な霊感説に立っており、そういった意味で、「イスラム原理主義」という言葉はふさわしくないでしょう。むしろ、「イスラム超原理主義」と名づければよいのではないでしょうか?

キリスト教の人は、聖書が焼かれるのを見て嫌な気分にはなりますし、もし聖書が稀少なところならば悲しみを覚えますが、けれども冒涜の罪のようにはみなしません。神の言葉は心の中に蓄えられてこそ生きるものであり、その紙面にあるのではないからです。けれどもムスリムの人たちが、コーランが破られるのを見て暴動や殺人にまで発達するのは、上の霊感説を取っているからです。

参照:クルアーン(ウィキペディア)

そしてコーランは慈善活動について多くを書いていますが、以下の箇所はいかがなのでしょうか?

戦いがあなたがたに規定される。だがあなたがたはそれを嫌う。自分たちのために善いことを,あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを,好むかもしれない。あなたがたは知らないが,アッラーは知っておられる。 (2 – 雌牛章〔アル・バカラ〕216)

その他、4:52;5:33;5:51;9:5;9:12;9:29-30;22:19-20;25:52;47:4;60:9;66:9など拾い出したらきりがありません。確かにイスラム原理主義(復古主義)と過激派は違います。けれどもこれらの箇所を字義的に取り、過激な行動に走らせているという事実は存在します。

ユダヤ教にも対抗している

ユダヤ教にとって大事なのは、池上さんが解説されたように彼らの父祖であるアブラハムがおり、次にモーセがシナイ山を中心にして神の律法を受けて、約束の地などの命令を受けた、というところにあります。

けれども、もう一人、非常に大切な人物を紹介するのを忘れています。ダビデです。ダビデがエブス人のいたエルサレムの町を奪取して、そこを自分の町にしたのが紀元前1000年頃の出来事です。ダビデに対して、また彼の子ソロモンに、エルサレムにご自分の名を置くと約束されたのが同じ神であり、そこに神殿を建てました。そしてアブラハムは、そのエルサレムのモリヤの山で、イサクをいけにえとして捧げようとしたのです。

そこが「神殿の丘」です。そして池上さんが入場された岩のドームにあるあの「聖なる岩」は、多くの聖書考古学者は、神殿の至聖所の場所であったと言っているところなのです。

bible-archeology-jerusalem-temple-mount-dome-of-the-rock-leen-ritmeyer-closeup-holy-of-holies

なぜそこが、ムハンマドが昇天したところとしているのでしょうか?もしそれが大切なことであれば、コーランに書いてあるはずです。けれども、言及が一つもありません。根拠となっている箇所ですが、

かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠のマスジドに、夜間、旅をさせた。わが種々の印をかれ(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。
17. 夜の旅章(アル・イスラーゥ)1

「至遠」がエルサレムを指すとのことですが、えっ??と言う感じです。一方でエルサレムは聖書に700回以上出てきます。

聖書には、モリヤの山のところ、エブス人アウラナの打ち場のところこそが神殿の建てたところであると銘記されています。そしてバビロン捕囚にとって神殿が破壊され、帰還してから七十年後に再建したのも同じところであり、大改築をしてヘロデ王が建てた壮麗な神殿もそこにありました。そしてローマが紀元70年に神殿を破壊して、ユダヤ人がその時から世界に離散しました。。

池上さんは「嘆きの壁」がユダヤ教の聖地であるとされていますが、それは至聖所に最も近いから、そう言っているのであって、岩のドームによって阻まれているから嘆きの壁で祈っているのです。嘆きの壁の横にトンネルがあり、「西壁トンネル」と呼ばれていますが、そこを行けば至聖所に一番近いところで祈りを捧げているユダヤ教徒の姿を見ることができます。ユダヤ教徒にとって、本来の聖地はまさに岩のドームの岩のところであり、ユダヤ教とイスラム教の聖地の距離は、100メートルではなく実は0メートルなのです。

イエスは、エルサレムが異邦人によって踏み荒らされると予告されました(ルカ21:24)。ですからキリスト者にとっても、岩のドームは踏み荒らされている一つとしてみなす人たちもいます。ユダヤ教徒の人たちにとっては、なおさらのことそうです。

そして、イスラエルでは、イスラム教とは関係のないほかのいろいろな所にモスクが建てられています。ベツレヘムはムスリムの人たちが多くなり、ナザレでもモスク建設でローマ法王も介入せねばならないほどの大きな事件になりました。なぜそうなってしまうのか?イスラムのもっと深いところにある征服神学に触れていかなければいけないと、私は思っています。

次に、パレスチナ紛争を取り上げたいと思います。

その3に続く)

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