米国の銃規制と自民党の改憲草案 その1

ちょっと難しい課題について話したいと思います。それは、最近起こった、小学校での銃乱射事件によって、再び銃規制の論議が米国で発生しています。それにともない、日本にいるクリスチャンの中からも、米国の銃社会に対する批判の声を聞くようになりました。

私はこの問題については、距離を取っていました。なぜなら、まず「米国で起こっていることであり、米国人が真剣に考えるべき問題であり、私たち日本人が干渉するような問題ではない。」という思いがあるからです。そして次に、「けれども、日本でも無差別殺害の凶悪事件が急増し、お隣の中国でも同じように小学生に刃物を振り回し20名以上が怪我をするという事件が同時期に起こった。これは世界的な現象だ。暴力が増すことは終わりの予兆であり、私たちは目を覚ましている必要がある。」という点、それから「殺された人たちの遺族のことを思って祈りを捧げなければいけない。」ということです。津波と原発の災害の時に海外のクリスチャンがどれだけ祈りを捧げてくれたかを思えば、たとえ海外で起こったこととしても祈らなければいけないと思います。

アメリカ事情の理解

ですから、私は銃規制についてとやかく言いたくないのですが、この機会にアメリカの事情を深く理解していく必要があるのではないかと感じます。そこでご紹介したいブログ記事があります。

平等化装置としての暴力

一部を引用しましょう。

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開拓のスピードに警察制度や司法制度が追いつかない時代があったアメリカ社会では、どうしても自衛の必要がありました。そのために最も有効なのが銃でした。

銃を持っていれば、弱者であっても、強者を倒せます。一方的に弱者が強者の暴力の被害を受けなくて済むわけです。つまり、銃は社会における強者と弱者の力関係を均等化する機能を果たします。そこで銃はイコライザー、つまりEqual(均等に)ize(する)er(もの)と呼ばれ、肯定的な評価を受けることになります。つまり、銃は、アメリカの開拓期と開拓地域にあっては平等化装置だったのです。

つまり、暴力からわが身を守るためには、銃という暴力手段に依存せざるをえなかったわけです。言わば銃は「平等化装置としての暴力かつ必要悪」だったのかもしれません。

刀狩など、権力側に武器所有を禁止され、警察によって世界有数の治安が保たれてきた日本の社会とは正反対なのです。アメリカの銃社会を批判することは簡単ですが、このような歴史認識なしに批判することは控えるべきだと思います。
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記事はこの後に、この権利を持ってしまったばかりに生じてしまった引き返すこことのできない問題について説明しています。

大事なのは、これは合衆国憲法に定められた基本的権利だということです。修正第二条にこうあります。「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。

今の時代は西部開拓時代ではないのだから、何を時代遅れなことを、必要ないのに?と思われるかもしれませんが、実はそこは、日本人の抱く日本国憲法と同じ思いにつながっているものがあります。

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独立戦争直後から西部開拓時代まではともかくとして、今や時代は変わったのだから、アメリカ市民の武装権を保障する合衆国憲法は今の世にそぐわなくなったのでは、と我々日本人は考えがちだが、多くのアメリカ人はそうは思っていないようだ。そのことは、世論調査の結果が物語っている。つまり、前科者や精神異常者、麻薬中毒患者、未成年者への銃の販売を禁止する規制には賛成だが、善良な個人が銃を所持するのを禁止することに反対する市民が多数だ。日本に比べてアメリカの大都会はまだ治安が悪い。ニューヨークの裕福なユダヤ系アメリカ市民が、マンハッタンの高級コンドミニアムに住むのは、安全を買うためであり、彼らはそのことを安全を手に入れるための必要コストだと思っている。このように、多くのアメリカ人は、自分とその家族は自身で守るという自己防衛の意識が強く、そのために銃を所持するのは市民の権利だと考えている。銃を持って独立戦争を戦った民兵は、現在のアメリカ合衆国や市民にとっても、自己防衛意識を象徴するものであり、合衆国憲法修正第2条には、この精神的遺産を頑なに継承するという思想が伺える。

銃の乱射事件が後を絶たず、多くの犠牲者が出ていることにアメリカ市民は心を痛めているが、だからといって、市民武装の権利は決して放棄しようとはしない。200年以上も昔に改正された合衆国憲法の修正第2条は、今でもアメリカの社会は必要としているということだ。この修正条項は、この先まだまだ生き続けていくことになるのだろう。
アメリカ合衆国憲法修正第2条・・市民の武装権
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正反対のイデオロギー(理念)にある共通の課題

イデオロギーが正反対ですが、実は根っこは同じ問題を、私たち日本人の関心の的になっている「改憲」問題に持っているのです。第九条の戦力の不保持は、そのままを読めば自衛隊は明らかに違憲です。けれども実際的なことを考えれば、数多くの日本国民は、米軍の完全撤退と自衛隊の解消を望んではいないでしょう。だから実体に沿った条文に修正すればよいではないか、というのが保守派、また今の安倍新政権の考えです。

しかしその条文があることが、日本の近代史の枠組みにある「敗戦した日本の反省と再生」という象徴となっています。実用性の前に日本という国のあり方を決める理念、または精神的遺産になっており、それを頑なに継承するという思想を護憲派の人たちは持っているわけです。したがって、「実際上は戦力が必要だと思うが、敗戦・再生日本の路線で歩みたい」というのがこれまで国民的合意となっており、それで、相矛盾した状態が続いているのです。

それぞれのキリスト者が持っている課題

そして、今度は米国と日本のキリスト者がそれぞれどのように考えているのかに注目したいと思います。

日本国においては、多くの人が改憲に反対だと思います。第九条については一端置いておいて、自民党が作成した他の改憲条項について述べたいと思います。すでにブログ記事「キリスト者として、自民党の改憲草案に反対する」にありましたように、自由と権利を保障した条項に「公益及び公の秩序に反しない限り」という但し書きがついている、という面が深刻です。そして、キリスト者にとっては第二十条の「信教の自由」を定めた箇所に、「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」という但し書きがついているところで、多少なりとも戦前・戦時中のキリスト教会の歴史を知っている人は、大きな暗黒の雲が押し寄せたと感じています。

日本国が江戸時代から持っている「お上に逆らうな」という言葉に代表される中央集権体制が存在し、そして明治維新になってからは民俗宗教であった神道を欧州のキリスト教国家と同じように国家理念にしたという経緯があります。それを解体したのが現日本国憲法であり、日頃から、家族での先祖供養や職場での宗教行事との関わりという身近な問題を有しているキリスト者としては、この改憲草案には強く反発を覚えるのです。

ここのブログ記事にあるとおり、数々のキリスト教団体が改憲に対して強い反対表明を出しています。

信教の自由という、直接自分たちに関わる問題から派生し、治安維持法によって他の思想や表現の自由も奪われた歴史を想起し、さらにその国体がアジアへの戦争に向かわしめた、という恐れから、日本の教会は護憲派へとつながっている、と私は理解しています。

憂慮の極みに達した米国キリスト者

一方、アメリカにいるキリスト者はどうなのでしょうか?私にはたくさんアメリカ人クリスチャンの友人がいるので、彼らの言葉を聞くと、憂慮は極みに達していると言っても過言ではありません。彼らは、信仰の自由から派生する国の成り立ちが変容してしまったことに対する大きな失望のどん底にいます。

ご存知のように、アメリカ合衆国は清教徒が英国から信教の自由を求めて、聖書とキリスト教を基盤とする新国家形成というビジョンを掲げて建てられた国です。英国の国教への反対から彼らは出てきていますから、政府が教会に介入することを禁じる、厳しい政教分離を維持しています。しかし、その理念はまさに聖書にあるので、イデオロギーとしての価値観が教育を始めとする公の機関の至る所に浸透させました。例えば、公立学校の教科書は聖書から始まりました。アメリカの有名大学は神学校から始まっています。裁判所には十戒が掲げられています。

ところが、その自由の再定義が行なわれました。それは「キリスト教の影響から免れる」自由であります。すなわち、公立学校では祈ることが禁じられていきます。裁判所の十戒は違憲とみなされます。さらには、アメリカでは「メリークリスマス」という言葉が公の場で使われなくなりました。なぜか?「クリスマス=キリストの礼拝」という意味だからです!ここにおいては、日本や他の国のほうがかえって自由だと言えるでしょう。

そして彼らが聖書に基づく価値観だと信じていた事柄、すなわち中絶は罪であること、男女による結婚、天地創造などが、それぞれ中絶の合法化、同性愛の権利拡大、進化論のみによる授業に取って替えられた、と思っています。

すなわち、アメリカ人のキリスト者にとっては、「信教の自由」という大切な価値観が、教育現場における祈りを始めとし、裁判所における十戒、進化論教育への反対へとつながり、そしてそれが、建国の始まりにまつわるその他の自由の保持にも派生して、そうした視点から銃への規制も、その国の成り立ちを取り壊す象徴として見えるので、好意的に見ていないのです。

その代表的な声が、コロンバイン高校銃乱射事件で娘を亡くした父親の、議会における演説に表れています。(1999年に起こったコロンバイン事件が、学校における銃乱射事件の始まりでありました。)貴重な発言なので意訳をしてみました。

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天地創造の黎明から、人の心には善と悪がありました。私たちは皆、優しさという種あるいは暴力の種を包み持っています。私の最愛の娘、レイチェル・ジョイ・ソコットの死、あの英雄的教師の死、そして11人の他の子たちの死は、無駄にすべきではありません。彼らの血は答えを求めて叫んでいます。

暴力の最初の記録は、野でカインが弟アベルを殺害したことです。悪党はカインの用いた棍棒ではありません。NCA、つまり全米棍棒協会でもありません(訳注:全米ライフル協会(NRA)のもじり)。真の殺人者はカインであり、この殺害は、カインの心の中にのみ見いだせます。

コロンバインの悲劇の後に続いて、すばやくNRAのような団体が非難の矛先に向けられたことに私は驚いています。私はNRAの会員ではありません。私は猟師でもなく、銃を所持してもいません。私はNRAを代表また擁護するためにここにいるのではありません。彼らが私の娘の死に責任を負っていると思わないからです。もしレイチェルの殺害に彼らが何らかの形で関わっているのであれば、私はNRAの強硬な反対者でありましょう。

今日私はここで、コロンバインは単に悲劇であっただけでなく、否応にも、本当の非難の先がどこにあるのかを見させられる、霊的な出来事であったことを宣言します!非難すべき者の多くは、まさにこの部屋の中にいます。告発者ら自身の矛先の後ろにあります。
私の気持ちを最も良く表現した詩を書きました。今日ここで私が話すことを知る前に、これは書かれました。

あなたがたの法律は、我々最も深い必要を無視している。
あなたがたの言葉は、空疎だ。
あなたがたは、我々の遺産を剥ぎ取った。
少しばかりの祈りをも、違法にした。
今や、銃声が教室に満ちている。
そして、貴い子供たちが死んでいる。
あなたがたはあらゆるところに答えを求めて、
「なぜ?」という問いをしているのだ。

あなたがたは立法化しその文言によって、
規制する法律を定めている。
しかしそれでも、あなたがたが悟っていないのは、
私たちに必要ななのは神だということだ!

人は三つの部分の存在です。私たちは皆、体、魂、霊によって構成されています。私たちの構成の三つ目の部分を認めなければ、そこに空間が生まれ、悪、偏見、憎しみが押し入り、大混乱を引き起こします。霊的な影響は、私たちの国の歴史の大部分に渡って、教育制度の中に存在していました。主な大学の多くは、神学校として始まりました。これは歴史的事実です。

私たちの国に何が起こったのでしょう?私たちは神を敬うことを拒み、そうすることによって、憎しみと暴力への戸を開いています。コロンバインの悲劇名ような酷いことが起こるとき、政治家はすぐにNRAのような身代わりのいけにえを探すのです。彼らはすぐに、私たちの個人的、私的な自由を侵食させる、規制法を通過させようとします。私たちに必要なのは規制的な法律ではありません。

エリックとディランは、金属探知機で止められなかったでしょう。銃規制法がいくらあっても、この類の虐殺を数ヶ月に渡って計画しているのだから、止めることはできません。本当の殺人者は、私たち自身の心にあります。政治的駆け引きや規制法が解答ではありません。

私たちの国の若者が鍵を握っています。抑え込むことのできない霊的覚醒が起こっています!もっと多くの宗教は必要ありません。派手なテレビ伝道者が吐き出す、無用な宗教の言葉は必要ありません。私たちの基本的必要が満たされぬまま、百万ドルもする教会が建てられる必要もありません。私たちに必要なのは心の変化であり、この国がただ神に信頼するという原則の上に建てられたことを、謙虚に受け止めることであります。

私の息子クレイグが、学校の図書館の机の下に隠れていたとき、自分の友達が自分の目の前で殺されたのを見て、学校であったけれども祈ることを躊躇いませんでした。彼のこの権利を否定するどんな法律も政治家にも、私は公然と反抗します!

私はアメリカの、そして世界のすべての若者に呼びかけたいのですが、1999年4月20日、コロンバイン高校において祈りが学校の中に戻ってきたことを知ってください。これらの学生によって捧げられた祈りを無駄にしないでください。神より与えられた、神と意思疎通をする権利を侵害するような法制化を神聖な動機で無視し、新しい千年期に勇気をもって移っていきましょう。

非難の矛先をNRAに向けている方々へは、真剣な挑戦を突きつけたいと思います。一石を投じる前に、あなた自身の心を調べてみてください(訳注:ヨハネ8章の姦淫現場の女の話を意識している)。私の娘の死は、無駄にはなりません!この国の若者は、このことが起こることを二度と許しません。
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(原文:Darrell Scott, father of 2 Columbine victims, speaks to Congress May 27. 1999)

彼は銃を是認しているわけではありません。「神への祈り」という、自分にとっては最も大事だと信じている部分がないがしろにされていることに、怒りを覚えているのです。祈りが本質なのに、その問題を直視することをせずただ銃規制法案作りに安易に走っている姿を見ての、いらだちだと思います。

ですから、一見、日本のクリスチャンとアメリカのクリスチャンには、個々の争点において正反対の意見になっていますが、根っこは実は同じで、国家に相対する「信教の自由」と、それに付随する「国のあり方」に関わる大問題に取り組んでいるわけです。

私のアメリカ人の友人の何人かの話からは、銃に対しては特に強い思いはないのですが、邪悪な事件がますます多くなるのを見るにつけ、ここまでアメリカが狂ってしまったかという溜息が聞こえました。人々の良心を保たせていた倫理基準、キリスト教の建国精神がどぶに捨てられている、という痛恨の思いです。

そして、一人は現実的な問題についても話してくれました。先の「平等化装置としての暴力」の記事につながる話しですが、銃を規制すれば、かつての日本の刀狩のように強権をもって実力行使で国家が銃を奪い取ることをしない限り、効力は発揮しないであろうという意見です。中途半端な規制は銃が不法に所持する悪者だけの手に渡り、善良な市民はかえってその恐怖に怯えなければいけなくなる、という問題です。

そしてある人は、「教会の弱体化」を上げていました。教会が福音をまっすぐに語らなくなってきている。ゆえに、人々の心を変えるイエスの力が現れていない、ということです。

その2に続く)

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