時代遅れの教会

心に留めておくべきニュースを紹介します。ただし英文です。

著名な弁証家(Apologetist)が福音派指導者に呼びかけ - 「御言葉を蝕んでいる」

kenham「創世記における回答(Answers in Genesis)」という創造説の団体の創始者であるケン・ハム氏が、「地球の年齢、聖書の権威、米国の凋落」という題名で講演を行ないました。ケン・ハム氏は、創世記の創造の記述は文字通り解釈すべき立場を取っています。

彼は、決して福音派の指導者を個人的攻撃するつもりではなく、福音を宣べ伝えていないと言っているのではなく、深く尊敬していると前置きした上で、「神の御言葉が傷つけられている。有名なキリスト教指導者が、それを行なっている。」と指摘しました。

特に、ジョン・パイパー氏、スプロール氏、マーク・ドュリスコル氏の名前を挙げて、このような著名な人々が、若い地球説から離れて行っていると言っています。

そして彼はこう言っています。「多くのキリスト教指導者が今、『イエスに信頼しているのであれば、創世記の言っていること、地球の年齢について気にする必要はない。出て行って、福音を宣べ伝えなければいけないのだ。』と言っている。しかし、私たちが理解しなければいけない点は、福音はこの聖書という書物から出て来ているものであり、諸世代の人々が聖書は信頼に値するものではない、その権威と歴史を疑うように導かれたら、結局は、聖書を拒否し、福音を聞かなくなるであろう。

ダラス第一バプテスト教会の牧師、ロバート・ジェフレス博士がテレビ番組で「地球は137億年前に造られたかもしれない。原理主義のキリスト者が混乱させているのは、地球が六千年だと言おうとしていることだ。聖書はそんな主張はしていない。」と言っていることに対して、ハム氏は、聖書は何十億年も経ったなどという主張はしていないとして、その発言を非難しました。

そして、御言葉の権威を蝕むことによって、無神論の手助けをしているということを、牧師はしらなければいけない、と言っています。

聖書は普通に読む書物

以上がニュース記事のまとめですが、上の太字の部分が大切です。創世記1章を日曜学校で小中学生に教えている時に、聞いている彼らが地球を百数十億年と解釈するかどうか?なのです。しないでしょう。「普通に読む」というのはこういうことなのです。そのような解釈を披露したら、「普通に読んではいけない書物なのだ」ということになり、それぞれの頭の理解に沿う解釈をしていくことになります。そうすると十人十色の解釈になり、ついに混乱が生じて、聖書を投げ出してしまいます。

ピカソのような絵、いやもっと抽象的な絵が近現代の絵画の特徴ですが、見た人の心にしか解釈できないことになり、混乱と混沌を招くことになります。

聖書を普通に読んで出てくる結論ではないのです。ある人が私に、「一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」という言葉があるではありませんか、と問われましたが、私は「聖書を初めから通読されたことはありますか?」と尋ねたところ、ないとのことです。どこかの書物を読んで得た情報であり、普通に読んでそんな解釈はできないのです。

上は、ペテロ第二3章8節の言葉ですが、その文の前に「主の御前では」とあり、私たちにとっての一日ではないのです。しかも、「ようであり」と形容しているのであって、それが物理的に千年ではないのです。これは、「人にとっては膨大な年数であっても、永遠の神にとっては一瞬の出来事でしかない」という、時間に制限された人間とその制限のない神との対比をしている箇所なのです。

もし、「一日=千年以上」などという解釈をしてしまえば、聖書の他の記述に出てくる膨大な数字や年数も、全部そのように解釈するのですか?詩篇には、人の齢は七十年、八十年と出てきますが(90:10)、人の寿命は七万年、八万年という解釈をするのですか?

これがまだ信仰の持てていない人の意見であれば、十分に理解できます。聖書の権威に対する信頼をまだ得ることができていないからです。けれども、もし聖書の権威をもって福音を伝えている宣教者らが、「地球は百数十億年かもしれない」と伝えたら、どうするのでしょうか?もしその科学的見地が時と共に変化して、間違っていたとしたらどうするのでしょうか?私たちの福音は、何十年経っても、いや何千年経っても決して変化することのない、金や銀よりも朽ちない言葉なのです。ですから、そのような不確かで危ういことを、説教壇から語ってはならないのです。

聖書が教える「天地の大変動」

何十億年というのは、「斉一説」という理論に基づいています。斉一説に基づいてダーウィンが進化論を形成しました。「斉一」とは、「ととのいそろっていること。一様であること。」という意味ですが、「今の自然現象にある秩序と、昔の秩序は一様である。」という考えです。つまり谷が形成される時に、それは川が流れて侵食された結果であるから、だからグランド・キャニオンなどの大渓谷ができるためには、同じように侵食の結果起こったのであるから何百万年という月日を要する、という論理なのです。

けれども、突如として天変地異的な変動が起こったらどうするのでしょうか?それが聖書の語っている天地の激変の記事であります。先に引用されたペテロ第二3章の記述は、斉一説とは裏腹に、むしろ斉一説を警告する預言となっているのです。

「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束は、どこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。(3:3-4)」これが、まさに斉一説の定義です。今の秩序は創造の初めからのものである、と。

それを使徒ペテロは反駁します。「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。(5-6節)」ノアの時代の洪水という大変動によって今の世界が形成されているのです。

創世記一章一節の前提

そして、神が文字通り一日にして天地を創造する力と知恵を創世記の著者は記しているのであり、その後の聖書物語は、その神の力と知恵の表れに他なりません。その前提中の前提を傷つける行為を、故意が故意でないか知りませんが、それらキリスト教指導者が行なってしまっています。

そこで、「神の力と知恵の表れを否定しているのではない。けれども聖書は科学的書物ではないのだ」と言います。この言い逃れをいつも行ないます。しかし私は言います。「科学的な証明をするための書物ではない。けれども、その記述が科学や歴史に矛盾することはない。」事実と異なることを話していて、神への信仰は持つことができるのでしょうか?こんなことを小中学生のような若い子に話しても、絶対に理解されませんよ。福音の根幹は何でしょうか?「復活の事実」ではありませんか。復活と言う“概念”ではなく、“事実”こそがその信仰の中心なのです。事実と信仰を引き離すことこそが、私たちの時代の悲劇であり、世の流れなのです。キリスト者は世の流れに対抗する者であり、沿っていくものではありません。

聖書全体の一貫性

そして、創造論を論じるときに、「字句に拘泥している」と言う人々が多くいます。そういう人々こそが、創世記1章にある字句に拘っているために全体が見えなくなっています。

今回のイスラエル旅行でガイドの方が、こんなことを分かち合ってくださいました。「私たちは新約と旧約を分ける傾向があるが、そんなことはない。創世記一章で、第一目に光が出来ているのに、なぜ四日目にならないと太陽ができないのだろうか、と思った。けれども、黙示録21章を読めば、太陽も月もない、新しいエルサレムがある。神の栄光と小羊がその都を照らしている。」その通りなのです!神が、原初の姿に回復してくださるのが永遠であり、第一目の光が太陽なしの、神の栄光から来た光であり、それが神の秩序として一貫しているのです。これらを、進化論上の話の中で俎上にのせる必要はないのです!

初めの創造をその通りに読まなければ、終わりの完成もその通りに読めなくなります。神のご計画全体を俯瞰するからこそ、創造の記述はその通りに読まねばならないのです。

福音に対する反省をやめるべき

そして最後に、キリスト教会が「自分たちは反知性的であった。あまりにも世から乖離している。」と自虐的に反省し、この世の哲学を受け入れた瞬間に、この世からも見捨てられるようになることを申し上げます。心理学にしても、進化論にしても、教会が導入していく時には、心理学や精神医学でもう時代遅れだと思われていることを導入しているのです。進化論もその先端においてはあまりにも複雑になっており、迷路みたいになっているのが実情です。ノーベル賞を受けた山中教授も、益川教授も、進化論はばっさり切り捨てているのです。

世から乖離してはいけないと思って追従しようとする時、すでに世から見放されているのです。私たちは地の塩です。「なんだこいつらは?」と思われても、その熱いキリストへの愛を持つ馬鹿者の姿を見て、それでもひきつけられる、その愛に引かれていく、という証しを私たちの大先輩である初代教会の信者からの遺産として受け継いでいます。

弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。(使徒11:26)

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