ブログ記事「時代遅れの教会」に呼応するかのように、MGF教会の牧者、菊地一徳さんが、自由主義の問題を徹底的に論じる一連の記事を書き上げられました。
まず、自由主義とは何か、またそれに対抗する福音派(ファンダメンタリズム)が何か、その定義についての記事は次です。(注:いずれの記事もページの下のほうからお読みください。)
自由主義(リベラル)神学(エキュメニカル派)vs キリスト教原理(ファンダメンタル)主義(福音派)
最近、新書対象を受賞した「ふしぎなキリスト教」を取り上げて、それから自由主義の問題を取り扱っています。
次に、日本の教会における自由主義の悪影響について、その教会史から論じた長編があります。
日本プロテスタント教界に混乱と腐敗と分裂と破壊と低迷をもたらした自由主義神学
私がこのブログを立ち上げた初期の頃から、美濃ミッション事件、ホーリネス弾圧など、ここで取り上げられている問題をずっと指摘しておりましたので、本当に非常に助かる背景知識を菊地さんは提供してくださいました。
私がこのブログ等でずっと警鐘を鳴らしてきた点は、彼の書かれた次のことであります。「・・福音派も今や日本基督教団のように一枚岩ではなく、寄せ集めになりつつある。実際に福音派と呼ばれる中にも多くが字義通りの創造論を捨て進化論を承認したり、字義通りの終末論を捨て、エキュメニカルの社会的福音を取り入れて世界のキリスト教化する目指す者たちも増加している。徐々に福音派のエキュメニカル化が進んでいるように見える。」
風当たりは当然ある
今日、ロゴス・ミニストリーを愛用されていて、東京に訪問されたご夫婦とお会いしましたが、「かなり叩かれているのではないですか?」と心配しておられました。今は、このブログのコメントを承認制にしていますので大丈夫ですが、それでも確かに風当たりは強いです。
一時は、掲示板荒らしに会いました。時は私が「聖書預言の旅」を著して間もなくの頃、イスラエルで第二次インティファーダが起こり、「自爆テロ」という言葉が世界的に有名になった時期ですが、あの頃から私は、「シャロンの神殿の丘の強行入場が問題ではなく、予めアラファトが用意周到に準備していたものだ。」と述べました。掲示板は、ジェニン虐殺疑惑などの投稿に満ち、私のイスラエル擁護の立場を一種の精神病に陥っているという発言もありで、酷く荒れました。メールでは、世間の常識以下の悪質な内容を送りつけた教会関係者もいます。そしてついに、日本語を解したであろうPLO関係者が、掲示板に記事を残したこともあります。
すでに「ハマスの息子」の著者モサブ・ユーセフ氏が詳しく、パレスチナ側の用意周到な準備をしていたことを明かしているし、去年暮れに、故アラファトの妻が、夫が闘争を行なうことを前もって告げていたことを明かしています(動画)。十年ぐらい前に、激しく非難し、揶揄していた彼らは、今どう思っているのでしょうか?「クリスチャン」と自称しながら、それらのことを行なっていたのです。
最近も「あなたは聖書を字義的に取りすぎている」「もっと正統的な神学や聖書解釈に触れたほうがよい」「極端な親イスラエル」等、福音派の牧師からの示唆も受けました。
時流に乗る教会
日本のキリスト教会(いや世界でもそうですが)振り子のように揺れています。ある時は反ユダヤになったかと思うと、また親ユダヤになる。ある時に、ある神学を受け入れたかと思うと、今はその反対の神学に走っている。戦争の立場もころころ変わる。一貫しているのは、「その時に受け入れられる“時流”に乗っかっている。」ということです。
原発についての立場も、原発事故が起こってから反原発が流行になりました。私がそれに対する注意をブログで促したところ、やはり風当たりは強かったです。流行りの言葉は、「バプテスマのヨハネのように、声を挙げなければいけない。」であります。私は非常にいらだたしくなりました。こんな自由で豊かな日本国で、本当に斬首を受ける準備はできているのか?私は、国の方針に反対でもしたら文字通り牢屋に入れられ、拷問を受けるかもしれない国にいましたから、陳腐な聖書理解に憤りさえ感じました。
本当に迫害を甘受する用意ができているのなら、簡単に口を開きません。もっと賢く動きます。そしてダニエルの友人三人のように、本当に必要な時に、自分の身に危険が迫ることを覚悟で大胆な行動に出るのです。その時までしっかり自分の信仰表明をあたためておくのです。バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティパスに対して行なった事は、首相官邸前のデモで反原発を叫ぶ次元の話しでは全然ないのです!言葉が悪いですが福音派も含めて、真の意味で迫害を受けていないところから来る「甘えん坊のガキ」の域を超えていません。
菊地さんの記事では、教会による戦争責任の罪の告白のいくつかが引用されています。けれども、戦時中に神社参拝に屈服しなかった一部の教会の告白を除いては、私は腑に落ちませんでした。その告白の内容が思想が右から左に揺れただけで、純粋な聖書理解からの真実な告白に思えないのです。その証拠に、ある牧師は「私たちは真実な悔い改めをしました」と言いながら、舌の根が乾かぬうちに、米国の戦争行為とその国の福音派を批判していたのを読みました。あたかも自分たちこそが平和について知っているかのような・・・傲慢でしかありません。
アメリカの福音派を見下す前に、自らの教会史を振り返る必要があります。当時の戦時中の教会は、米国の戦争を批判することによって自分たちの行動を正当化しました。そして聖書主義に立つ兄弟姉妹たちを、「アメリカの神学にかぶれている」と言い、揶揄し、その苦境にいる兄弟たちから距離を取ったのです。つまり、形を変えただけで全く同じことをしているのです。
私は、中国と韓国の兄弟姉妹の友をたくさん持っていますが、そして最近も、三国の平和のためのキリスト者の役割をテーマにした大会で御言葉も語りました。その立場の人間から言わせていただくと、福音派の教会にある、拙速に韓国の兄弟に謝罪する姿を見るにつけ、「何も理解していないのに、どうして謝るのか?」と疑問になるときがあります。ある時、笑いながら「ごめなさい!」と謝っていた人の姿を見ましたが、こうなると単なる滑稽なお芝居にしかすぎません。
もっともっと人間の根源の罪性に触れているような、深いところから来る世界観を抱かなければ、いつまで経っても、「日本全体がこうなっているから、この流れに乗るために聖書の言葉でも貼り付けておくか。」というノリでしかなくなります。
もっぱら日本の教会だけ責めているのではなく、アメリカの教会も同じです。今頃になって進化論を承認する動きが出てきたり、ひたすら愛を強調して地獄を否定するような福音伝道が流行ったり、と訳が分かりません。
「福音派」は「復古派」以上の過激派
私たちは福音派なのです。右派の政治家の中には「復古派」という部類もありますが、私たちは復古派以上で超・正統派なのです。つまり、天照大神の誕生前より、さらに二千年近くさかのぼった時から与えられているお言葉を、そのまま変わりなく受け入れて、それを頑固に曲げないのです。だからあまりにも過激で、左派からは「宗教原理主義」というレッテルを貼られ、右派からは「天皇陛下よりもキリストが君主だと言うのか」と罵倒されるのです。これだけ過激なことを主イエスは語られ、その語られた御言葉をそのまま信じるのが福音信仰であり、聖書信仰なのです。
相容れないのは当たり前なのです。調和するように調整するのはやめましょう。そのまま語りましょう。そして、甘んじて迫害も受けましょう。これが“キリスト”者です。
はじめまして。いつも興味深く拝読しております。
特に聖書講解や機知に富んだブログ記事が面白く,
いつも考えを深めるのに活用させていただいております。
本記事の内容ですが,一つお考えを伺いたいことがあります。
それは,「原理主義的であること」と「自分の神学が誤りではないかという視点を失わないこと」のバランスについてです。
私はペンテコステ派のキリスト教徒で,聖書は神のことばであると信じていますが,私の派の聖書解釈が絶対ではないとも考えています。
そもそもどの訳の聖書であれ原語から翻訳された時点で何らかの神学を反映していますし,「字義通りに読む」と言っても完全でないことは明らかです。
そこでお伺いしたいのは,同性愛に対する解釈についてのバランスです。同性愛についてはadminさんが他記事で指摘されている通り,教会内でも意見が大きく分かれており,「同性愛は罪である」と言おうものならどんな誹謗中傷を受けるかわかりません。この点に関しては,「『寛容』という名の『不寛容』」で語っておられた議論があることも承知しています。しかし,「同性愛は罪だ」という言説が「奴隷制度は聖書も推奨している」というかつての主張と同質のものではない,とどうやって言い切ることができるのかが私にはピンと来ないのです。教会にかつて聖書を根拠にして黒人や黄色人種を奴隷化していたことは事実であり,また現在ではその解釈が誤りだとされているのも事実だと思います。同様に,「同性愛は罪ではない」との解釈が今後主流になることもあり得るのではと思うのです。
すでに散々聞いて来られた反論かもしれませんが,お考えをお聞かせいただけると幸いです。なお,私自身は同性愛が罪だと聖書が言っているかどうかはまだ決めかねています。