先ほど、カルバリーチャペル・コスタメサの水曜晩の礼拝をネットで見ました。話者は牧者ブライアン・ブローダソンで、箇所は1コリント7章1-7節で、ずばり「夫婦の性生活」でした。1-5節まで引用します。
さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。
現実的、実際的な話をしなければいけないとして、いろいろな霊的助言をしていました。自身も結婚カンセリングをしているそうですが、「感情に苦みや敵対心があれば、当然ながら親密さを示すセックスはしなくなる。数ヶ月、数年、夫婦生活をしたことがない人たちがいる。これは罪だ。」とまで言い切っていました。日本の夫婦にはセックスレスが多いのですが、この基準からすると、罪を犯しているクリスチャン夫婦は意外に多いかもしれません。
積極的な性
性について取り扱うときに、私自身乗り越えなければいけない恥ずかしさがあります。それは日本人がどうしても性について、必ずしも聖書的ではない恥ずかしさがあることです。けれども、聖書を読んでいていつも、性が自分が思っているよりも積極的であり、神がこれを賜物として与えておられて、一種の使命さえあることを知るからです。
私が日頃から疑問に思っていること、そして是正できるのではないかと思うことをつぶさに書いていきます。
昨日ご紹介したファミリー・フォーラム・ジャパンのサイトには、結婚した夫婦の性生活の意義について書いてあります。
女性と男性の性意識の違いは、それぞれが互いに知らなければいけないでしょう。簡単に言いますと、「女性は感情が大きな要素となる」「男性は体が大きな要素となる」ということです。そして男性について話しますと、「視覚」がとても重要であります。これが情欲の領域に入りやすい脆い部分であり、主に男性の間で性風俗やポルノが氾濫する所以です。
そして結婚の性生活について、三つの意義を書いていました。1)子孫の繁殖、2)親密性の探求、そして3)誘惑との戦い、であります。
この誘惑との戦いで、先に挙げた①目の刺激に弱い男性、②いくさびととしての男性(攻撃的な性質のある男を家と妻に引き返すのはセックスである)そして、③寂しがり屋の男性、という領域を上げています。
日本に横たわっている夫婦のセックスレスの問題も取り上げています。男性が風俗やポルノ等で結婚内の性欲を減退させている、仕事で忙しすぎるため、家に帰っても疲れており、性的な触れ合いが少なくなる、ということを理由に上げていました。
けれども一番大きいのは、日本人の結婚に対する感覚であると指摘しています。夫が妻に求めているのが、どうしても母親的存在であり、そして性的、感情的な必要を満たす場を外で求めていく考えがある、だから文字通り助け手(コンパニオン)にもてなされるために、スナックに惜しげなく通うのだ、というのです。この分離にある孤独感の問題を取り上げています。
女性に訴えたいこと
女性が男性に訴えたいことは山ほどあると思います。それを分かりつつ、男性がどのようなところを通っているか、それをご紹介したいと思うのです。「目の刺激に弱い男性」の欄でこう書いてあります。
ビジュアル的な性の刺激に氾濫する現代社会では、男性の運命はもはや絶望的です。誘惑や思わせぶりが唯一の目的であるかのような女性のファッションに完全包囲されています。このもくろみは大胆か微妙かの違いさえあれ、女性のファッション広告や雑誌を通じて見事に配信、普及されています。さらに、インターネット、雑誌、映画が競い合って描く卑猥なイメージ、これが男性をどれほど激しい性衝動へ駆り立てるのか、女性はまだ知る余地もありません。
男性の性欲は暖房の「種火」のようなもので、性的刺激になるような「燃料」が加われば加わるほど性的誘惑の力が燃え上がってくるのです。結婚内の性的触れあいを清く守るためには男性たちがそのような「燃料」になるものを見ない、近寄らない習慣を身につけることは強調しすぎることはできません。
上の文章を読めば、健常な(?)男性のほぼ100%が大きくうなずくでしょう。読まれた女性は「??」となると思います。これが男性と女性の違いです。女性が街中で買うファッション的な服装は、その多くが性的衝動を引き起こすように仕組まれています。それは実に巧みで、たとえ肌を大きく露出していなくても、です。
結婚前の若い女性は、その身体的魅力を、穏やかに、慎ましくですが、外に見せなければいけない時があるでしょう。一度、全く化粧をしていなかった若いクリスチャンに、「いつもはしなくてもいいけれども、いざと言うときには化粧はできるようにしておこうね。」と助言しました。あまりにも清い(?)し、彼女は素顔でも十分可愛かったのですが、結婚する男性に対しては着飾らないといけない、という助言でした。
けれども結婚後の女性はどうでしょうか?あるいは、結婚をあまり考えていない独身の女性はどうでしょうか?何のためにそんなにファッションに凝るのでしょうか?何のために、そんなに化粧に時間をかけるのでしょうか?誰に見せるため?・・・こんな疑問が沸くのです。
誤解していただきたくないのは、「化粧をするな」ということではありません。例えば礼拝の前に少し化粧をして出て行くというのは、もちろんすばらしいことです。身だしなみという枠組で行なうべきものだと思いますが、今、焦点を合わせているのは、自分にある女性としての美を見せている”対象”は誰なのか、という問いかけです。
外は覆い、家で化粧顔
全く逆の発想をしているのが、イスラムの社会です。ぜひ次の記事を読んでください、特に女性は驚かれると思います。
一部抜粋
日本でいう女らしさとは、一つは外見を飾ること。とくに男性(不特定多数)の目を意識して。これは、アラブではタブーとはいわないまでも、あまり良くないことと考えられています。女性らしさ、美しさは肉親以外の男性の前では秘すべきと考えられていて、見せていいのは、自分の夫にだけ。化粧は夫といるときだけ、外出のときは化粧しない女性は多いのです。「口紅はもってるけど、つけるのは夜、夫の前だけ」とは、よく聞きました。
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エジプトの町中には、イスラムの国なのに下着ショップがたくさん。ショーウィンドーには、ピンク、イエロー、赤などのスケスケのシミーズやらネグリジェっぽいものやら、色っぽい下着が堂々と飾られています。ほとんどは結婚したマダムが夜着けるもの。ショーウィンドーに見入っているのは、おじさんも多いです。きっと「俺のマダムにどうかな」と考えているのでしょう。だから夜は気分がもりあがり、たくさんセックスして、子だくさんになっていくのです。。。。
一部抜粋
日本女性の美しさは見せる(魅せる)美しさ、エジプトの場合は「隠す美しさ」ーつまり、やたらと自分の美しさを開示しない、慎み深さこそが、「女性らしい」と考えられているようです。
向こうの女性らしさ、美しさは、表面的というより、もっと根源的なもの、生物学的なものと考えられている感じです。
つまり、女性は、生まれついた時から女で、美しい要素を持っている、だからすでに、異性を惹きつける存在であって、それ以上に着飾ったり外面を飾って男を誘惑する必要がない。
分かりますか、イスラムはマッチョの宗教です。はっきり言って、男性のための宗教であり、あまりにも極端です。しかし、このような考えや社会、文化を見聞きすると、自分たちの非聖書性が浮き彫りにされます。つまり「性を夫婦で謳歌する」「女性はその体そのものに美があり、着飾ることで引き付けるものではない」という考えを聞くと、自分がいつの間にかこの世の調子に合わせていたのではないか?と思ってしまうのです。
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(1ペテロ3:3-4)」
「あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5:18-19)」
化粧を一生懸命している妻の姿を見て、夫はたぶんこう思っていると思います。「俺の前でも、こんな風にきれいに着飾ってくれないかな?」女性も、自分の夫が自分の美を独り占めにしてくれることを分かったら、嬉しいんじゃないでしょうか?自分の美を、いやらしい目で見ている不特定男性に晒してしまうのは、いかがなものなのでしょうか?
イスラムでは、外に出て行くときはただ、アバヤやヒジャブを羽織ればよく、化粧は目線や顔だけ、髪はまとめ上げるだけでOKです。ですから神経を使いませんが、日本でこれを実行しようとしたら、まさか、外に出て行くのに身だしなみをしないで行けないので、家でも外でも緊張しなければいけなくなり、たいそう大変になると思います。ですから現実的ではありませんが、化粧とファッションのエネルギーを少しだけでも、自分の伴侶に向けるという発想の転換は良いんじゃないのか?と思うわけです。
胸元に視線の行く男性
男の女性に対する美意識というのは、こんな感じです。西洋の女性の服装は伝統的に、ドレスにあるように胸元を見せる形になっています。そのためなのでしょうか、西洋人の肌の露出はその文脈に合っている時があります。アメリカ人は特に肌の露出が多いのですが、その多くが実用性から来ているのであり「ありのままの姿、気さくな姿」をかもし出していて、これで性的衝動を引き起こしにくいです。(注:といっても、肌露出のファッションは世界的現象で、アメリカのニュースを見ていると、その女性キャスターの胸元が十数年前に比べると、ずっと下がっているのに気づきます。この不自然さが問題であり、ファッション界の巧みな手法ですね。)
けれども、これを日本社会の普段の生活の中で、不自然な形で行われると目のやり場にこまります。韓国には伝統的に、お辞儀をする時に片手を胸元にそえます。昔の服装がそうなっていたので、そうした習慣が身についたそうですが、女性は特にこれを行ないます。胸を隠すため、とも言えるでしょう。日本の女性はそういう伝統がないので、今の緩やかな服装のため、胸が見えてしまうことがよくあります。
同じようにスカートはどんどん短くなっています。椅子に座っているとき、これまた見えてしまうことがあり、目をそむけないといけないのです。最近は、黒い長いストッキング(タイツ?)を穿いている女の子が多いですが、この前、短期宣教旅行に来たアメリカ人青年(新しく信じたばかりの兄弟)は、「まるでスカートも何もはいていなくて、ストッキングを履いたまま家から出てきた感じで、目のやり場にこまっている。日本は誘惑が多い。」と自分の弱さを漏らしていました。また「すべての女性が人形みたいに見える。」と言うので、私が「自意識が強いんですよ、日本の女性は。」と言うと、「そうなんです、その内に秘めるようなじれったさが、逆に刺激されてしまう。」というようなことを言っていました。
少し太っている女性、自信のある女性
8年前に、韓国ドラマ「私の名前はキム・サムスン」が韓国で大ヒットしました。ここで主人公、キム・サムスンは太っていることを気にしている29歳の女の子。大好きな男性にふられて号泣しているところを、ヒョン・ノジンに見つけられます。恋愛なんてもちろんあるわけない、けれども、ヒョン・ノジンは「契約恋愛しようぜ」と持ちかけます。ついに、時間が経つにつれてノジンはサムスンを本当に好きになるようになり、サムスンもノジンに恋します。彼女を振った、元彼は再びサムスンに言い寄りますが、彼女はおもっきり蹴ります。
このドラマが高視聴率だったのは、彼女の飾らない人柄が気に入ったからです。そしてちょっと太った女の子というのが、逆にたまらなく可愛いという評価です。男は、今、ファッション界でもてはやされている痩せ型に対して「きれいだ」と思いはするけれども、ちょっとぽっちゃりしているほうが、いっしょにいてほっとするし、かわいいと感じるのは、私だけでしょうか??
要は、「すでに女性の美をあなたに神は与えておられる」ということを言いたいのです。ある型に自分を入れようとするときに、その美しさが隠される、あるいは歪みが出てきて、肝心の心の姿、その慎ましさや穏やかさが乱れてしまうのです。(私の言っている慎ましさや穏やかさは、言葉数の少ない内向性を話しているのではなく、主に自分の魂をゆだねた、砕かれ、謙虚になっている状態を話しています。)
以上です、こんな感じです。完全に一方的に男性目線で書きましたので、女性の方は不快に感じられたかもしれません、もしそうでしたらお詫び申し上げます。ただ、これだけ男女の違いがあるのだ、という理解はぜひしていただきたいのです。そして聖書的に女性また男性というものをどのように表現していけばよいのかを熟考する題材になればな、と願うものであります。
私に子孫を残させず、それと同時に、他のクリスチャンにも子孫を残させないことが、私に敵対する者の目的であるように思われる。
とても、参考になりました。25 と 19 の娘がいるので、ファッションに気を付けてほしいことを伝えようかしらと思いました。
男性も心に情欲をもって女性を見ること、偏見することを出すことが常になっている日本社会、文化の中では許しすぎている部分があることも書いてほしかったですね。女性だって男性に思わせな言葉を言われるとずるずる心が誘惑に向かいます。これは男性の直すところと思います。日本のおじさんサラリーマンのLady firstの無さと人を疑ってかかる文化、ほんとにDissapointed。。これがあれば女性の自意識過剰も減るのでは?帰国して私は、人間は肌の色が同じになっても差別をしたがる生き物なんだとがっかりしました。私は仕事とデート以外はスッピンです。海外でアジア人の女性であることを尊重してもらえた経験が自意識過剰からありのままの人種の私でいてもいいと許せるようになったからです。
「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」
[伝道者の書 7:26]
性欲がありあまり、毎日素敵な女性をみて、情欲を抱いては
「[マタイの福音書 5:28]しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」
という、みことばが示され、悔い改めの日々を繰り返している愚かな33歳男性です(涙)
日本とアラブの違いに驚かされました!
なんでそっち目線ばっかりなの?
決して女性としての魅力が乏しい者ではないはずですし(モテますが、他の男性方に罪を犯させないょに努力しています)、自分でも美容面など様々なことに気をつけていますが、年の離れた夫に求められず、求められないだけならまだしも拒絶される孤独と虚しさと寂しさに打ちひしがれ苦しんでいる女がいることになぜ誰も答えを持っていないのでしょうか。日頃は普通に仲がいいと言えるのですが、夫の気分にむらがあり傷つくこともしばしばです。
そのような寂しさ痛みを抱える女はどうしたらいいのですか。