全共闘・反動・日本の誇り

毎週火曜日朝に、東京や近辺のカルバリーチャペルの牧師や宣教師たちが、いっしょにデボーションの時を持っていますが、昨日、日本の牧師さんと話していました。彼は50代(・・と言ったら誰だかわかる人は分かる!)ですが、「私のちょっと上の世代は学生運動の世代で、反米なんだよね。それが格好良いと思う時代だった。」と言います。

私が日本の教会全体で、もしかしたら、こうなっているのではないかという感触を話します。

全共闘時代の人々

私もクリスチャンになってもう二十年以上経ちますが、信仰をもったばかりの時は、福音界には、本田弘慈先生など、戦後直後から伝道の働きをしておられる方々が健在でした。けれども一人一人、天に召され、今は、もっと若い世代に受け継がれています。

ちょうど戦後直後に自身が誕生した時代です。「団塊の世代」とも言いますが、彼らが学生時代の時に、全共闘運動安保闘争などが起こりました。

福音派(注:所謂「聖霊派」も含めて使っています)の教会は、日本基督教団のように社会派と教会派のような対立はありません。けれども、全体的に全共闘世代の人々が考えている世界観というものを、今の牧師たちの中に持っている人が多くいるような気がします。そして、そうした人々が指導者なので、神学校などで教育を受ける比較的若い世代にも、その影響が見受けられます。

「社会的責任」という言葉

「社会的責任」という言葉は、福音派のローザンヌ会議において発信されました。自由主義神学を信奉する社会派に対抗して、ただ福音宣教のみが使命であるとする福音派に、一定の反省が込められた条文が入っています。それはそれで良いのですが、日本においては主体性のある社会的責任の動きはあまり見ることができず、左派の社会運動をそのまま取り入れた動きとなっていると感じています。

果たして、教会の使命とは何か?それは一貫して「福音宣教」であります。けれども、その「福音」の中身には、弱者、苦しむ人々に対する働きかけが含まれており、宣教を行なっていく中で、その人々と共に生きていくという側面が強くあります。例えば、発展途上国における、宣教師たちによる医療伝道、学校教育、また諸々の社会問題の当事者に対する働きかけがそうでしょう。結果的に神の義を実現していく積極的な働きをしています。けれども、確かに個々のキリスト者の働き手が労苦して、こうしたことを行なったおられる方々が多い一方で、教会全体としては、どうしても合点が行かない動きになっていると思うのです。以前の投稿で引用した、ホーリネス教団の上中牧師の問いかけが、私にもあります。

真実に福音に生きるために - 戦責告白と「悔い改め」を問う

 日本の教会は、簡単に悔い改めすぎてはいないだろうか。それは何も自由主義史観の人々のように自虐的であってはならないということではない。むしろ真剣な悔い改めが必要であるが、しかし教会の罪の意識が薄く、それでいて罪の告白や謝罪の言葉が簡単に発せられているように思われる。

 例えば戦争責任の自覚によって、アジアや沖縄に目が向けられても、それらの多くは同情の域を越えているだろうか。日本伝道会議の沖縄開催の必然性は何だったのか。同じく政治や社会の動向に関心がもたれても、そこに教会の主体性はあるだろうか。日本の道徳や教育を憂えても、教会の固定した価値観と世との開きに教会は気づいているだろうか。

私はある牧師と議論して、その人は「あなたは、日本の教会の中では特殊だ。」と言いました。私は返答しました。「いいえ、日本の教会の中があまりに左寄りなので、世の中で働いているビジネスマンの人で違和感を抱いている人々がいるのですよ。事実、私の友人で、それが原因の一つとなってその教会を去った、という人もいますし。」福音のゆえに世離れしているのなら教会はそうあるべきですが、いろいろな背景の人が集まってこそ、「キリストにあって一つ」という”福音”主義に立っている訳で、特定の人々が集まれない状態であれば、その教会は聖書と福音以外の何かに依拠していることを示しているに他なりません。

左翼思想の排他性

左翼思想の弊害が、教会の中にもじわじわと入ってきていると感じます。すなわち、「非寛容」「知的高慢」「無慈悲」「排除」というような動きです。過去の学生運動には「内ゲバ」と呼ばれる、内部にいる者たちを粛清していく動きがありました。

参考ページ:「左翼が過激になるとどうして内ゲバ?(リンチ殺人?)になるのですか?(Yahoo!知恵袋)

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地球市民として世界の人と仲良くしよう
お互いの存在を尊重し共に栄えよう
資源も飢えや痛みさえも分かち合おう
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というのが、民主党の仙谷由人氏のホームページに書いてあり、彼は学生運動家でしたが、それに対する上の知恵袋の回答は、こうなっています。

「地球市民」も掲げられた理想です。
「資源も飢えも分かち合おう」は、国境や民族の概念がとっぱらわれていて、これも理想です。

現実を発展させた到達点の形の理想ではなく、(現実と乖離していても)理想がまずあるのです。この理想の実現に邁進するのが、左です。壊さないとつくれないので「革命」です。

その点右はかなり現実的です。保守とは、もたれ合いになりがちかもしれません。

日本のキリスト教会の中で、自衛隊の存在を否定する牧師がしばしば引用する言葉は、イザヤ2章4節、「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」です。しかし、これは文脈によれば「終わりの日」の幻であり、イエス様が王の王として再臨され、エルサレムで着座され、そして世界の国民がこの方の教えを聞いて、それで戦争することをやめる、という文脈にあるものです。

再臨によって初めてもたらされる世界平和、すなわち「理想」を現実(つまり、自衛隊がなければ国の安全保障は成り立たない)という現実から乖離していても、それに向かって邁進するのです。

そこで「現実には無理じゃないか!」と反論しようものなら、「あなたはキリスト者でありながら、不正を是認するのですか。」と追い詰め、「このような意見を持っていれば、福音派の教会としてはふさわしくない。」と排除するならば、まさに左翼思想にかぶれている、ということになります。

左翼思想の反キリスト性

そもそも、国の単位がなくなり世界市民になる、そして資源を分け合う、ということが果たして理想なのか?と聖書的に検証しますと、その正反対の結果が出ます。キリストの福音を受け入れることなしに平和はありえません。それ以外の平和は偽物です。事実、黙示録13章を見ますと、そのような国は「獣の国」と呼ばれます。国の単位がすべて取っ払われる状態は、反キリストなのです。

聖書的モデルの世界観は、「バベル事件によって、あらゆる国々に分かれた世界だが、アブラハムへの祝福により、すべての者がその子孫によって祝福される」というものです。国々の単位、民族の単位はあるけれども、そのままの姿で、キリストの贖いの血によって神の民として贖われた、というのが聖書的世界観です。確かに世界的な神の民の一員でありますが、同時に、国々に分かれた民にまで降りてきてくださった神の憐れみと恵みがあるのです。

左翼思想の源流は、マルクスです。マルクスがユダヤ人で、しかも両親が改宗したキリスト教徒であったというのはご存知でしょうか?彼は十代の時は、キリストを愛する詩を残しています。けれども、どんどんおかしくあり、文字通りキリストを呪う言葉を書き残し、ついに悪魔を礼賛する言葉へと変わっていきました。(「マルクスとサタン」リチャード・ウルムブランド著(ルーマニア出身の牧師「殉教者の声」創始者))

共産主義はキリスト教の異型なのです。中国の人と聖書の話しをする時に、自分が習った毛沢東語録と似ている、と言います。それもそのはず、マルクスはキリスト教の神の国の理想をそのまま踏襲しているからです。

けれども、その根本を真っ向から否定しています。福音の真理は「義人なし、ひとりだになし。」という人の全的堕落から始まります。したがって、もっぱらイエス・キリストにある神の恵み、十字架の血と聖霊の刷新によらなければ、新生体験なしには変革はできない、と教えていることに真っ向から否定します。だから、神がもたらす御国ではなく、自分たちの闘争によるユートピアの獲得となるのです。そして、マルクスは進化論を哲学的に解釈し、ダーウィンの進化論が、自分の唯物史観の着想に寄与したと言っています。(ウィキペディア

そこで、ヒトラーのユダヤ人虐殺よりもはるかに多い大量虐殺を、共産主義者は行なってきました。スターリン、毛沢東、ポルポトなどがその典型です。だから、実績ありの危険な思想なのです。今でもスターリン主義の中に生きる北朝鮮が、キリスト者を多く含む強制収容所において、言語に絶するおぞましい虐待と殺人を、たった今、私たちの国から飛行機で二時間程度のところで行なっているのです!

北朝鮮宣教に重荷のあるある姉妹が、「北朝鮮を見ると、大患難時代はもうすでに来ている。」と感じてしまうと言っていましたが、私は、もちろんこれは後の時代の話しであるけれども、気持ちとしては理解できます。

ここまで書きましたが、これで左翼思想のすべてがここまで酷くなっているということは決して申しません。もしすべてを否定するなら、彼らと同じ唯物的思想と同じことをしてしまいます。けれども、こうした悪い実績があったのだ、ということは念頭に入れておかないと、巷で「平和」「正義」と呼ばれていることが、必ずしも聖書的な正義と平和ではないのだということを見分けることができないのです。

例えば、内田樹という評論家が、インターネット界ではかなり人気のある人ですが、彼は、「若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)」という本を最近書いています。 もちろんマルクスの著作を読むことは学術的に有益ですが、若者に対して読ませる?これは全く、かつての学生運動と同じ発想です。

非寛容な時代

ここまで、キリスト教会の中における左翼的な動きを説明しました。けれども、もう一つ、懸念する動きを話します。このような思想の影響をまったく受けておらず、自由にされている若い世代(20代)の動きです。そうした人々は橋下氏のような、本音で語り、分かりやすく話す手法が共感しているのでしょうか、臆することなく保守派としての発言を行なっています。

しかし振り子は左に振れたら次に右に振れますから、「反動」が必ずあります。「在特会」がその典型です。日本国や日本人のことを思って、しっかりと自分たちの怒りを表現できれば良かったものの、これまで「日本」としての成り立ちを考えることさえも全て否定されてきたので、右派的傾向がいびつな形で表現され、いつしか行動にまで出てくることになるだろうと懸念するのです。

保守派の人々が語る「歴史的事実」も、これまた危ういです。左派と同じ過ちを犯しています。今朝、妻と話しました(彼女は東アジア近代史専攻で、修士を取得しています)。やはり、「歴史」は元々、その真実を見極めることはできない、という前提のある学問なのです。あくまでも、一つの事実・事象に対する「解釈」に過ぎません。そして残された文献は、時の権力者によって編纂されているもの、というのも前提です。こうした限界のある学問をあたかも「事実」であるかのように受け止め、それを教条化し、反対意見に対して攻撃的になれば、保守と言いながら実は極左と同じ唯物論に陥っているのです。

このように、両極化しているのが今の日本の空間であり、かつての日本には思想的な対立はあったとしても、どこかで相手を尊重するという余裕がありました。今は、左にも右にもそれがあまり見えません。(米国でも同じで、教会の中でさえ意見が少し異なると相手に攻撃的になるという空気があります。)これが、私が「世が教会に入り込んでいる」と言っている所以です。またこうした対立を見るにつけ、うんざりして、自分のことだけを考える利己主義も日本に蔓延しています。これも教会の中に入り込んでいます。

もっと、私たちがこのような隘路に陥るのではなく、全く別の視点で世界を見ていく必要があるでしょう。

アジアと世界の中で誇るべき日本

私が最近、感銘を受けた二つの記事があります。一つは、すでにご紹介した、日本と周辺国の大局を見る次の記事です。

日本が誇るべきこと、省みること、そして内外に伝えるべきこと~「慰安婦」問題の理解のために

そしてもう一つは、次の記事です。

安倍首相の外交スピーチがすばらしい–慰安婦だけが外交ではない

二つの記事は、イデオロギー的には前者はやや左派、後者はやや右派でしょう。けれども、どちらにも共通しているのは、「日本国が行なってきた功績を認め、また政府や指導者が尽力していることを評価する」という点です。

①の記事は、アジア女性基金の理事長だった人へのインタビュー記事です。この記事に特徴なのは、村山首相から小泉首相までが肉筆による謝罪の手紙を各人に書き送ったその写真が掲載されていることです。村山首相は社民党の党首、そしてその後の首相はもちろん自民党ですが、自分の政治的信条と関係なく、日本政府を代表する者として誠意を示した、ということです。

②の記事は、安倍首相が対アジア、また対米へのスピーチを賞賛しているものですが、もちろん安倍氏自身の国際戦略はあるものの、日本国の代表者としての言葉を自分のものとして語っているという印象を受けました。

私には、次の二つの聖書の言葉を思い出します。
王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:1)
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)

そして二つの記事に共通するもう一つの特徴は、「今の日本に誇りをもとう」ということです。①の記事は謝罪と補償の面で、②の記事は経済・技術協力の面で、アジアに対する日本の大きな役割を論じています。

①の記事で特に良かった部分は次です。

日本の民族、日本の国に誇りを持つことは大事なことです。誇りを持つに足る国だと思います。まず、そこははっきりさせましょう。特に、戦後の焼け野原から立ちあがり、豊かで安全で、自国より貧しい国には多額の経済援助、技術援助をする国を作り上げてきた。このことは、世界に胸を張って誇るべきことであり、もっと語られていいと思います。若い人たちにもぜひ誇りを持たせて欲しい。

ただ、だからといってかつてやった戦争まで、自衛のためであって侵略ではなかったとか、南京大虐殺はなかったとか、それは違うでしょう。南京の被害者は30万人というのは嘘だとーー嘘だと私も思いますがーーそれをギャーギャー言うことで誇りを持たせようというのは違うと思います。

日本が誇るべきは何か、を考えないといけないのではないですか。

そして②の記事には、実は安倍首相はこの実績を、次のように表現したことを記しています。

「戦後の、私たち、日本人の歩みは、このような善意を育てたのだと、改めて知り、深く、頭を垂れ、襟を正したい気持ちになりました。」

そして、記者は、この感謝と自省の言葉は、第二次世界大戦で日本がアジア諸国に戦争による災厄を広げてしまった悲しい過去を振り返ると、胸を打たれるものだ、と記しています。

「日本」が戦後に行なってきた中に、神は良い道筋を残してくださったのだと私は思います。

世界宣教に

こうした大局を見られるからこそ、現在の日本のクリスチャンも、世界における宣教の働きを眺められるのではないかと思うのです。過去を振り向くのではなく、今現在の日本の立ち位置を知るべきです。日本はこれだけ多大な貢献をしているので、世界のどこに行くにも自由なのです。アメリカ人よりも政治的に自由だと言って良いでしょう。

世界はもちろんのこと、反日だと言われている中国や韓国でさえ、日本なしには今の自分たちがいなかった、というのは事実なのです。だから目が離せない相手であり、偏狭なナショナリズムは存在しますが、まともな人々は日本の重要性は痛いほど知っています。

だからこそ、キリスト者が行なえる働きはあまりにも大きいのです。私たちクリスチャンは少数派で、宣教について言えば、アメリカから、また韓国からしてもらっている、という受け手の意識を捨てるべきです。日本は、これだけの大きな影響力を良い意味で世界に、またアジアにもたらしています。私たちが動けば、そのままアジアの人々にキリストの福音と言う最高の富を供与できるのです。

「全共闘・反動・日本の誇り」への4件のフィードバック

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