たといそうでなくても

次にご紹介する本は、これです。

「たといそうでなくても」(安李淑 著 待晨社)

この本の題名を検索したら、まとめと感想が書かれてあるブログを見つけましたので、リンクします。→ 失格した殉教者の手記/たといそうでなくても

日本から帰ってきて間もない時から「迫害」というものについて考え始めたのだと思います。なぜなら、使徒の働きを読むと、迫害があるところに主の御言葉が前進している姿を読むからです。迫害がなければむしろ、黙示録のラオデキヤにある教会のように、何か問題があると思ったからです。

それで、この本に出会い驚きました。

外地(日本植民地下の朝鮮)にいる日本の警察が、よくもこんな酷いことができたものだと変に感心しましたが、それ以上に安利淑女史自身の迫害に対する姿勢から多くの事を学びました。つまり、迫害は準備がなければ耐えることができないということです。

どこかで私は「神が奇跡的に助けてくださるから、痛みも苦しみもこらえられる」と思っていましたが、けれども彼女は例えば、食べられなくなる時に備えて断食もしています。

結局、迫害に備えるとは、キリストとの交わりを深めて聖められていく結果、自ずと与えられるのだということに気づきました。主が与えられた八福ですが、迫害される幸いは最後に来ますね。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5:10-12)

これは、まず「心が貧しくなり」次に「悲しみ」、そして「柔和」「義への飢え渇き」「あわれみ」「心のきよさ」「平和」を十分経験している人が与えられるものです。何かどこかで迫害を英雄化し、独り歩きさせていたことに気づきました。牢獄で死ぬことは想像しても、自分のことを噂する教会の人には我慢がならない、では意味がないのです。

日々のキリスト者としての歩みを確かにすることこそが、日本において、きたる迫害に備える最短の道であることを思わされます。